第44話

 腹に力を込めると同時に床を蹴り、相手の懐へと飛び込むと同時にその腕を掴もうと右手を伸ばす――が、スルリと空を切ってしまう。内心で舌打ちをしつつも動きを止めずに、さらに蹴りを繰り出すが、相手が即座に一歩下がり掠りもせず。


 その隙を突いて相手が、こちらの襟首を掴もうとしてくるので、すぐさまその場で跳躍して、今度は懐からあるものを複数本取り出して投げつける。

 鋭い勢いで飛ぶソレらを、相手は焦ることもなく蚊でも払い落とすように床に散らしていく。


 これでもなおダメージを与えられないのかと悔しさを感じつつも、床に降り立つと同時にトップギアで相手の背後へと回る。

 その背に向かって拳を放ち、ようやく一撃が……と思われた直後、相手がそのままバク宙をして逆に後ろを取られてしまい――。


「あっぐぁっ!?」


 腕を取られそのまま床に叩きつけられて拘束されてしまった。何とか抜け出そうとするが拘束力が強くてビクともしない。

 徐々に身体の力を抜き、大きな溜息とともにその言葉を口にする。


「っ…………参りました」


 すると身体から圧力が消え、ホッと息を吐く。そのまま起き上がると、目の前の相手に対し一礼をして「ありがとうございます」と発した。

 顔を上げると、その勢いで大粒の汗が飛び散る。身体つきもそうだが、この四年間で表情からも幼さも少し削り取られ、男らしい輪郭が備わってきた少年――札月沖長。


「はい。大分身体の使い方も良くなってきたわね。それに〝千本〟の使いどころも悪くなかったわよ」


 そう口にするのは、沖長が四年前から世話になっている古武術道場の師範代である七宮蔦絵である。初めて会った時もその凛とした佇まいは、見惚れるほどの美しさを有していたが、今ではさらに強さと美しさが増し、引く手数多であろう美人へと成長していた。


「そうは言いましても、結局また一本も取れませんでしたし」

「ふふ、これでも一応師範代を背負っている身だもの。まだまだ門下生に後れを取るわけにはいかないわ」


 絵になりそうな微笑を浮かべる彼女に、どこか照れ臭くなってしまう。


「それにスピードも増してきたし、あなたならもう少しで一本くらい取れると思うわ」

「けれどスピードはまだナクルにも劣ってますしね」

「あの子の持ち味はスピードだし、それを伸ばすための修練をこれまで集中的に行ってきたのだから当然よ。その分、あなたはナクルよりも攻撃の幅は広いでしょう?」

「それはまあ、そうですけど」

「逆にナクルにはないパワーと〝千本〟の扱い。ナクルがスピード特化型なら、あなたは万能型。極めればきっとナクルよりも厄介な使い手になるはずよ」


 褒めてくれるが、それは下手をすれば器用貧乏になりかねないということ。

 まあ、沖長としても特化型よりは、汎用的な動きを望んだので今のスタイルは望むところではあるが。


 それでも特化型であるナクルが、この前、初めて蔦絵から一本を取ったところを見ると、特化型の方が良いのではと思ってしまうのも自然の流れなのだ。

 するとそこへ、タタタタタとこちらに向かって走ってくる足音が響く。


「――――ただいまーッス!」


 道場へ元気よく駈け込んで来たのは、話題の当人――日ノ部ナクルだった。

 彼女もこの数年で…………いや、あんまり変わっていないか。


 確かに相応の成長は見られるものの、少しだけ伸びた身長くらいが特筆できることだろう。それでも会った時から変わらない陽気な雰囲気と人懐っこい笑顔。真っ直ぐで優しい性格が曲がらずに育ってくれているのは、兄貴分としては嬉しいものである。


 たが一言言うなら、確実にその愛らしさは増しているということだ。危ない大人に誘拐されないか心配になるほどに。


「こら、ナクル。道場に入ってくる時は静かにと言っているでしょう?」

「うっ、ごめんなさいッス!」


 蔦絵に注意され、素直に謝るナクル。そんな彼女を見て沖長は微笑ましいと思う。


「それよりも……ん、ちゃんとタイムを縮めているわね。感心よ」


 蔦絵が手元にあるストップウォッチを見て満足そうに頷く。

 ナクルはロードワークを命じられていた。蔦絵が指示したこの街の周辺を走り、そのタイムを縮める修練を行っているのだ。


 スピード重視で、常に動き回って相手を翻弄するナクルにとって最も大事なのは体力と脚力だ。そのため二年前ほどからはこのロードワークを中心にナクルは鍛えられている。


 当然沖長も体力は必要になるのでロードワークはするが、ナクルほどの距離や回数はこなしていない。ナクルに課せられたロードワーク周回は、結果的に一般人なら目が飛び出るほどの距離を走る。


 毎日十キロメートル以上は確実であり、当然そこには組手やら型などの修練もあり、とても小学生がこなせるメニューではない。

 今のナクルの体力なら、フルマラソンランナーすら驚愕するのではなかろうか。


「一本取れたッスか、オキくん!」


 にこやかに聞いてくるが、沖長がグサッと刺さるものを感じた表情を見せると、


「大丈夫ッス! オキくんなら、次はイケるッスよ!」


 そんな感じでいつも純粋に慰めてくれる。だからか、こちらも頑張ろうという気持ちになるのだが。


「そろそろお昼だし、キリもいいのでここで終了にするわね。では掃除をして解散しましょうか」

「「はい!」」


 それから三人で同情の掃除を行ったあと、母屋の方へ向かい、そこで昼食を頂くことになった。

 食事はできるだけ家族一緒というのが日ノ部家のルールなようで、道場に通う時は、沖長もまたこうして食事をともにさせてもらっているのだ。


「ほう、もう〝千本〟を扱えるようになったのか。やるじゃないか、沖長くん」


 穏やかな口調で言葉を発したのは、この家の長である日ノ部修一郎だ。ナクルの父であり、古武術師範という肩書を有している。見た目はとても強そうに見えないほど優しく温和な彼だが、一度戦闘モードに入ると鬼も逃げ出すほどの気迫を放つことを知っている。


 以前、珠には直接手解きをということで組手をしてもらったが、まだ本気のほの字も出していないにもかかわらず、彼から発せられるオーラの圧力は、キングコブラを目の前にしたアマガエルのごとく、気圧されて身動きすらできなかったものだ。

 いまだ一本すら取れない蔦絵でさえ、修一郎の本気を引き出せないというのだから、最早人間を止めているのではと思うくらいである。


「沖長さんは将来有望ですね。ふふ、これで我が家も安泰かしら、ナクル?」

「ふぇ!? そ、そそそそそれはどうッスかね!」


 裏の大黒柱であるナクルの母――ユキナに言われ、何故か動揺し茶碗で顔を隠すナクル。


「んんっ、まあ……沖長くんが真面目で優秀なのは分かるが、ナクルが欲しいなら俺を越えてくれないとね」


 口調自体は平静ではあるが、その語気にはかつて感じた気迫が発せられている。思わず冷や汗が出てくるほどに。


「ユキナ様も師範も気が早いですよ。沖長くんは私が大事にゆっくりと育てますから」

「あら、もしかして蔦絵さんが若い芽を刈り取ろうとしているのかしらね?」

「ふふ、もし沖長くんが今よりも立派に成長すればあるいは……かもしれませんね」


 ユキナのからかいにも似た言葉に、揺れることなく憮然とした態度で蔦絵が返した。


(……俺を抜きに勝手に話をするの止めてほしいんだけどな。それに……)


 チラリと隣に座っているナクルを見ると、不機嫌そうに頬を膨らませてこちらを見ている。

 こういう話題になると、ナクルの機嫌が不安定になるので勘弁してほしい。何か違う話題をと思っていると……。


「そういえば、今度の春休みに旅行に行こうって話が出ていたんだが、沖長くんもどうだい? 一緒に行かないかな?」


 突然の申し出に思わず固まってしまった。



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