月に行きたい

日暮

月に行きたい

 眠れない夜、必ずすることがある。それは暗い部屋の中、ベッド横の窓のカーテンを引くこと。そして横たわったまま外を眺めること。

 そんなことをしてもすでに黒一色となった空しか見えない。でも今日はちょうど、とてもきれいな満月がそこに浮かんでいた。

 そうして当然のようにその考えが浮かんだ。まるで朝晩ごとに違う天体が空に浮かんでくるように、ごく自然に。

 月に行きたい。

 その時から、その願いは私から離れていかなくなった。

 

 

 月に行きたい。

 宇宙船も宇宙服もいらない。ただ自分自身だけを持って、月に行きたい。

 月はそんな私を意にも介さずただ佇んでいるのだろう。あの時、月の周りに、まるで虹色の輪が輝いているようにも見えた。涙しそうなほど美しかった。月に行きたい。

 それは人間の自然な欲求であるとしか思えなかった。なぜ重力なんかに縛られてここにいなければならないのかわからなかった。

 ほとんどの人はそれをまるで当たり前であるかのように受け入れている。でも私にはわからない。本当にわからなかった。本当は皆、受け入れているのではなく、考えないようにしているだけなんじゃないだろうか。そんな疑念もわいてしまう。ひどい考えだった。私が疑問に思うことに他の人たちが気付かないはずないのに。きっと皆はとっくに正しい答えを知っているんだろう。きっと知れば日々を健やかに真っ当に過ごせるようになる答えなんだろう。でも私にはそれがわからなかった。ずっと。

 月に行きたい。ここにいる限りどこへも行けない。

 人はその気になればどこへでも行ける。無限の可能性がある。昔そんな言葉を聞いた。

 でもそれは嘘だと今の私は知っている。最初からずっとここに縫いとめられている。こんなに、毎日。

 でもきっと月に行くことはできる。

 昔、アポロ11号の月面着陸の様子をどこかで見た。アメリカ国旗を持つ宇宙飛行士。宇宙船。そしてどこまでも続く永遠の夜空と灰色の無味乾燥な月面。あれではまるでここと変わらないような。

 だけどあれは本当の月じゃない。本当の月の姿はあの時見た美しい月。私はあの月に行きたい。ここから見える、あの唯一無二の輝かしい月にこそ行きたいのだ。

 月は昼間でも見えないだけで本当は常に空にある。いつでも私たちのそばにある。他の人たちは見て見ぬふりをしているのだろうか。それともやっぱり私が知らない答えがあるのだろうか。私はこんなにも月に行きたいのに。

 いつか強制的にここから離れなければならない時が来る。そのことも今の私は知っている。地上の人間は実は誰しもがかぐや姫のようなものだ。いつかは必ず月からの使者が迎えに来る。だからこそそれまでの過程を大事に………そう謳う声もある。

 でも、永遠の地上との別れに収束するための過程に本当の意味を見出せるものだろうか。唯一、それと引き替えにできる価値を証明する行為、それが自ら月に行くこと。それ以外の全ては、所詮地上を這いずり回ることにしがみつくこと以上の価値あるものはないことを証明し続ける行為だった。それは苦しさ以外の何物でもない。少なくとも、私には、ずっと。

 月に行きたい。私が去ったら、親しい人たちは悲しむだろうか。そのためにここにとどまるべきなんだろうか。でも自然にそうなるのと、自らそうするのと、どんな違いがあるというんだろう。広い目で見れば誰もが与えられた運命通りに去っていく。

 親しい人たちの存在すら引き留める縁に思えない自分はおかしいのだろうか。薄情だろうか。当たり前にあるものの価値を忘れてしまったからだろうか。わからなかった。

 月に行きたい。実行に足る何かはあと何グラムだろう。その何かは絶望だろうか、自己嫌悪だろうか?勇気だろうか、衝動性だろうか、信念だろうか、狂気だろうか、覚悟だろうか、羨望だろうか?こうしてぐるぐると考え続けて、結局今日もこうしてここで眠れない夜を迎えている。こんな夜も、数グラムずつ何かを増やしていくんだろうか。ちゃんと近づいているんだろうか。あの月に。

 月に行きたい。

 行きたい。

 

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