第15話 妹のルーツ、自分のルーツ
一緒に船木食育専門学校まで見学に行き、校風も講座もすっかり気に入った母が勧めたのが『AO入試』だった。
「一般教科の筆記試験、なくていいみたいよ。とにかくあのイケメンの先生に聞いてみましょ? ねっ」
こういうミーハーなところを、桜は貰ってしまったのかもしれない。桃花は遠い目になりながらそう思った。
「AOですか? 間に合うかなあ? ちょっと待ってください、今聞いてきますね」
黒縁メガネをかけたイケメンの先生が、奥でほかの先生と話をし、書類を取って戻ってくる。
「良かった! ギリギリですが、間に合います。明後日までに出してくださったら大丈夫ですから」
難しい記入事項は特になかった。何ならこの場で書いてしまいたいくらいだ。
入学、待っていますからね! と笑顔で握手を求められ、その爽やかすぎる態度に若干、いやかなり引きつつ握手をした。同じ爽やかでも、胡散臭さが無い分秋仁の方がまだマシである。母はちゃっかり自分も握手をしてもらって、すっかりご満悦の様子だった。
その数週間後に早速面接があり、感触は悪くは無かったのだが……
# # #
家族と話をしたり、入試に行ったりしながら、ハルコのバイトを続ける忙しい日々を過ごすこと、数日。
その朝は、桃花も驚くほどにあっさりとやってきた。
恒例行事と化した散歩に出かける前に、ふと気になって、ハルコのポストを確認すると……大きな茶色の封筒が、そこにひっそりと鎮座していたのだ。試験結果が来たら、開封せずに実家から転送してもらう約束になっていた。
桃花は大きく息を吐いた。
大学受験時の悪夢が頭を過ぎる。
やっぱり見るのは後でにしようか。そうだ、みんながいる前の方が怖くない。万が一落ちていても……いやいや、だからマイナス思考はダメだってば。
右手が、ポストと自分の間を行ったりきたりする。
もういい。今見るのはやめよう、と思って茶封筒をポストへ戻し、ばたん、と勢いよく閉めたその時、くぐもった笑い声が後ろから聞こえてきた。
心臓が跳ねる。
反射的に振り返ると、体をくの時に曲げた『彼』の姿が目に入った。
「……なんでこんなところにいるんですか、アキくん」
「はっ、ははっ……! ごめん、堪えてようと思ったんだけどやっぱり我慢出来なかった……!」
朝日を背中に背負った、秋仁だった。
「何を見たかなんて聞いてませんから、何でここにいるんだって聞いてるんです」
絶対零度の桃花の声に、秋仁の笑いがようやく止まる。
「ごめん、ももさん、怒ってる?」
「いえ別に」
「嘘だ、怒ってるでしょ」
いや、怒ってはいない。ポストの前でじたばたやっているところを、人に見られたのが恥ずかしかっただけだ。
「アキくんがこんな時間にいるなんて、おかしいですよね?」
秋仁の家の最寄り駅は、ひとつ隣のはずである。朝の六時にここを通りかかるということは、少なくともそれより十五分は前に家を出てきたことになる。
「そりゃ合格発表……届くのたぶん今日あたりじゃないかな、と思ったから。あーその、当てずっぽうではあったけど、まあ、お祝い? したくて?」
「合格かどうかもわからないのに? 朝から?」
「あーもう! 悪いですか?! ももさんにおめでとうって、一番に言いたかっただけなんです!」
秋仁はかああ、と分かりやすく耳まで真っ赤になった。つられて桃花の体温も上がる。胸元からせり上がってきた温度で、顔まで赤くなる。
真っ直ぐに向けられる気持ちはくすぐったくて、恥ずかしくて。
「開けちゃいましょうよ。ももさんならきっと大丈夫ですよ」
照れ隠しか、慌てて両手を顔の前でブンブンと振った秋仁にせっつかれて封筒を手に取った。糊付けされた口をはがそうと試みる。
が、うまくいかない。
手が震えていた。
大丈夫、大丈夫と太鼓判を押されていた大学受験。
それが悉く失敗に終わってから、まだ一年も経っていない。
怖い。
特に思い入れのなかった大学の時でさえ、当たり前に信じていた『自分』というものが足元から崩れ落ちたのはショックだった。今なら尚更。進みたい未来への道中にある場所で、通行を拒否されたら。
「俺が、開けましょうか?」
余りにも長いこと見つめているので、見かねた秋仁が手を差し出す。
だが桃花は首を振った。
「だい、じょうぶです。自分で、できます」
誰かに用意してもらった道を歩くのはもう十分だ。悩むのも、黙って誰かがレールをひいてくれるのを待つのも終わり。決めたなら、扉をこじ開けてでも掴みに行かなければ。
自分の足で歩いた先で、春の景色を見たいから。
一つ大きく深呼吸。思い切って封筒を破りさる。
そこに書かれた二文字が目に入った瞬間、桃花の口から声にならない声が飛び出した。
「っ、たあ……!!」
「やっ、た……?」
「合格! 合格だってアキくん!!」
「やったーー! ももさんやったね、良かったね!!」
「ありがとう、本当に、ありがとう」
マスター、将弥、瑠衣。ひかるに敦。ハルコで出会った沢山のお客様。資料集めまで手伝ってくれた秋仁。好きな道を歩くチャンスをくれた両親と、口数が少ないながらも自分をさりげなく心配してくれていた兄妹。みんなの顔が次々と浮かんでは消えた。
秋仁が右手を掲げた。ほとんど無意識に、桃花の右手がそれを打ち鳴らす。
大きな音が朝の街へこだました。
「……まったく。朝っぱらからイチャイチャしてますねえ、道の真ん中で」
いつも通り出勤してきた将弥は、はしゃいでいる二人を坂の上から見つけるなり呆れた呟きをこぼした。
だが、その口角は少し上がっている。
冗談でも言い合っているのか、桃花が秋仁の背中を叩いた。「いってー。ももさん意外と怪力?」などと笑い、また叩かれる秋仁の声がここまで聞こえてくる。
「おはよう、二人とも。嬉しいのは分かったから、ちょっと静かにして中入ろうか。まだ一応、朝早いからね」
わざと呆れたように言うと二人は決まり悪そうに顔を見合わせた。
「おはようございます、将弥さん。あの、私」
「見りゃ分かるよ。おめでとう」
反射で頭に手が乗る。ぽんぽん、と撫でると桃花が顔をしかめた。
「そこは最後まで自分の口で言わせてください」
「悪い悪い。どうぞ?」
僅かに目を見張った将弥は、茶化したのを少し反省した。
桃花はぴっと姿勢を正して向き直った。
「本条桃花、船木食育専門学校に無事合格しました! 皆様のお陰です。本当にありがとうございます」
ろくに挨拶も出来なかった子が、こんなにはっきり、頭を下げられるようになるなんて。
言い知れない感動を覚えつつ、不覚にも涙が出そうになったので、慌てて目を逸らす。
「どういたしまして」
わざとらしくヘラリと笑って見せたのは、いつも通りを演出するため。
桃花は今度こそ、花が咲いたような笑顔になった。
「変わったよ、モモちゃんは」
正直に言って、たった一年やそこらでは変われないと思っていた。いつまでも頑なに傲慢を重ねていた自分を思い出して彼女に重ねて、出来るはずがないと、タカをくくっていた。
呟く程度の小さな声は、桃花の耳には届かなかったらしい。首をかしげる彼女に「なんでもないよ」とごまかしながらハルコの扉を開ける。
「今度お祝いパーティーしなきゃなあ」
「して下さるんですか! 将弥さんの手料理、何かリクエストしてもいいですか?」
「いいよいいよ。何がいい?」
「じゃあまずスポンジから手作りのケーキと」
「マジかよ。それは面倒……」
「お祝い、なんですよね?」
「わーかった分かった。作ればいいんでしょ、作れば」
ハルコの中へ入ろうとした将弥が振り返った。
「アキくんも朝ごはん、食べていくよね?」
「いえ、俺は……」
秋仁の顔が引きつっている。そこに見え隠れするのは、嫉妬と羨望の眼差し。
いいねえ、その顔。面白い。
だが誤解されて面倒に巻き込まれるのは御免である。嫉妬ほどおちょくって遊びたいものはないが、自分がその対象に混ざるのはできる限り遠慮したい。
「いいじゃないですか、食べていきましょう? アキくんの学校、今日は創立記念日でお休みだって言ってましたよね?」
桃花の言葉にうっ、と秋仁がつまるのが見てとれる。
将弥は内心大爆笑をしながら、手招きで彼を呼び寄せてこっそり耳打ちをした。
「心配しなくてもいいよ。俺が好きな子は他にいるんだ」
明らかに安心した顔を将弥に晒してしまうあたり、まだまだ秋仁はお子ちゃまである。
そんな可愛い時代が俺にもあったかなあ、と思い返しながら、将弥はハルコの中へ秋仁を招き入れたのであった。
# # #
「きゃああああああああ!!!」
卒倒しそう、と言わんばかりの悲鳴を上げたのは、ひかるである。彼女は秋仁に「客として」以外で会うのは初めてなのだ。
「初めまして! いつも『夏恋』をご利用頂きましてありがとうございます。秋仁さんのお名前はモモちゃんからよく聞いていますよ!」
ひかるは握手を求めて、秋仁へ右手を差し出した。それを横目で見ながら、今更ながら初めてひかると「あっちゃん」の雑貨屋の名前を知った、と桃花は思った。
「こちらこそ、いつもありがとうございます」
対する秋仁も礼儀正しく答える。
女性の小物は秋仁にはよく分からない。そのため、キャラクターに持たせるカバンやネックレスの類を研究するために、ひかるの店を訪れるのだと言っていたことを思い出した。
「最近来てくださらなかったから寂しかったんですよー、あ、私、及川ひかるです! 自己紹介遅れてごめんなさい」
言いながらひかるがちゃっかり秋仁の隣へ着席した。
「榛名秋仁です……」
やや引き気味の秋仁の左隣で、桃花は黙々とトーストを体内に取り込む作業に没頭している。ハルコの秘蔵レシピ、キイチゴのジャムの甘酸っぱさがたまらなく美味しい。
「折角だから紅茶も淹れよう、アキくんはアールグレイでいい?」
「いいんですか」
将弥の質問にやや遠慮気味の秋仁。いつもお金を払って飲んでいるものである。困った顔をしていると「これはマスターの私物ですからお気になさらず」と桃花が口を挟んだ。
「マスターの私物とか余計気にするんですけど!? え、ハルコの皆さんの朝食って、これが普通なんですか……?」
言う間に熱々の紅茶が差し出された。
「アールグレイはアイスもよく合うけど、時間ないからごめんね」
「そんな、お気づかいなく」
恐縮しきりな彼が受け取ったカップに鼻を近づけて、ひかるが「癒されるぅ」と至福の表情を浮かべた。
「ベルガモットの香りはアロマにも使われるくらいですからね」
ぽつり、と桃花が呟いた。
「この柑橘系の香り、ベルガモットっていうんですか?」
「はい。ライムやグレープフルーツ等の仲間です。アールグレイは通常、ベルガモットオレンジで香り付けされます」
「へえ、そうなんだ」
秋仁が興味深そうに呟いた。
「気分が落ち着くので好きなんですけど、今まで知らなかったです」
「アールグレイっていうのは、グレイ伯爵、という意味なんですよ。彼が気に入った献上物を作らせたのが始まりだそうです」
「アールが伯爵なんですね」
「そうです」
「じゃあ、紅茶の種類でダージリンとかよく聞きますけど、あれとの違いって香りだけですか?」
「ううんと、そもそもダージリンというのはダージリン地方で採れた紅茶を指す名詞なんですね。アールグレイはベルガモットの香りを付けたフレーバーティーの一種ですから、ダージリンのアールグレイというのも僅かながら存在するんですよ。ただダージリンは寒暖の激しい地方で作られる茶葉でもともとの香りが強いので、あまりフレーバーティーには使われない……あ、すみません、話しすぎました」
白熱して前のめりになっていた体を慌てて引き戻す。
呆れられただろうか。伺うように秋仁を見る。
「続けてください、聞きたいです」
真摯な目で、彼はそう言った。
「あ……じゃあ、遠慮なく……それで、ええと、どこまで話しましたっけ?」
「ダージリンがあまりフレーバーティーには使われないところまで」
「あ、そうそう、それで、アールグレイに使われるのは主に……」
延々と紅茶うんちくを語る桃花に、楽しそうに相槌を打つ秋仁。
「あれ、モモちゃんってあんなにベラベラ話すタイプだった?」
まだ眠そうな顔をしていた瑠衣の問いへ、ひかるがくくく、と笑いを噛み殺しながら紅茶を飲んだ。
「やだなあ瑠衣ちゃん、だから瑠衣ちゃんは恋愛出来ないんだよー? ね、将くん」
「ああ、あれが『もち』だって気づかないうちはまだまだだな」
「……もち? 雑煮?」
「ばあか。比喩だよ」
お前はそれくらいでちょうどいいけど、と将弥が呟いた声は、ひかるにだけ届いたようだった。
机に突っ伏して爆笑をはじめたひかるの脳天へ軽くチョップを食らわして、将弥も朝食を平らげた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます