4. 温泉が最高だったのは事実ですよ


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 日本各地に有名な温泉地同様、この下呂温泉も多くの温泉旅館・ホテルがある。

 その温泉旅館でお金を支払うことで日帰り入浴ができるのである。もちろん旅館によって日帰り入浴自体していなかったり、時間帯の指定があったりするので事前に調べておいた方がよいだろう(二敗)。


 温泉旅館に断られること二か所、三か所目でようやく温泉に入ることができた。

 飛騨川のほとりに建つ温泉旅館である。

 ちなみにこの旅館は、指定の温泉三か所に自由に入れる温泉手形の加盟店。それを利用することでお得に入浴させてもらうことができた。

 この手の温泉手形や回数券の類はいろんな温泉地で発行されているので、もしこの作品の読者に温泉巡りが趣味という方がいるならば是非調べてみる事をお勧めする。


 受付の女性スタッフに手形を見せて、大浴場へと案内される。 

 時刻は、すでに15時を回っている。

 ようやく目的の温泉につかることかできる――。


 湯煙が満ちる大浴場。

 大きな湯船に先客はいない。

 

 これ、これだよ……! 

 

 と自然と笑みがこぼれる。

 有名温泉旅館の大浴場を独り占めできる。これが、平日の温泉巡りの一番良いところだ。

 別に貸し切りにしたわけじゃない。通常の入浴料金の範囲だ。

 でも考えてほしい。今は、平日の、真昼間の時間帯。

 ただでさえ平日には少ない観光客だって、今はそれこそ観光の真っ最中だ。ホテルにチェックインするには早すぎるし、仮にチェックインして部屋に荷物を置いたとしても、一度入浴してしまえば外に出ることを億劫に思ってしまうことを考えれば温泉は後回しにしてしまう人も多いだろう。

 となると、私のような観光もそこそこに、温泉に入ることだけが目的で半端な時間にやってくるような奴が、下呂温泉源泉かけ流しの大浴場を独り占めできるということになる。

 私はこれで九州各地の温泉地で温泉独り占めを堪能しまくっていたのだ。

 この平日昼間の温泉独り占めは九州だけでなく中部地方でも有効であることを確認しながら、体を洗い……


 たった一人きりの、大浴場に身を沈めた。


「はぁぁぁ…………」


 自然と声があふれ出る。

 下呂温泉の成分はアルカリ単純泉。色は透明、味は若干の苦みあり。通常のお湯に比べれは少しとろみというか、粘度が高いように思える。

 41.5度の泉温は熱すぎず、ぬる過ぎずの快適温。私は長湯する傾向があるので、この温度が完全にベストである。

 湯船につかり温泉の気持ちよさに全てを委ねて脱力する。

 

 かの、大人が子どもにすべき説明が軒並み不足している某有名アニメにおけるセリフ、「風呂は心の洗濯よ」とは、けだし名言である。

 湯船のふちに頭を乗せて天井を仰ぎ見る。ふわふわと思考の欠片が無数に浮かび上がっては、形を成す前にお湯と一緒に流れていく。

 

 しばらくそうしているうちに体が温まってきた。

 のろのろと大浴場を出て、露天風呂へと移動する。

 夏の外気とはいえ濡れた体を風が撫でて熱を奪っていく――その気持ちよさ。下半身を湯船に沈めて、外へと目をやると木々の梢が揺れている。

 カタンカタンと列車が線路を踏んで行く音が遠くから聞こえてくる。

 露天で外に出たというのに、むしろ外界と距離感を感じる感覚。

 

 ――人は、誰だってその人の人生を生きている。

 金持ちには金持ちの悩みがあり、幸せそうなカップルは彼らなりの悩みがある。

 私には私の悩みが。

 隣に座る美女には彼女の悩みがあるのだ。


 だがその悩みは、今はすべてどうでもいい。

 思考も悩みも、形になる前にお湯とともに流れて行ってしまうのだから思い悩むこともできない。


「入江様」

 美女がささやく。

 頬が紅く染まっているのは、温泉に体が温まったからか、それとも。


「酒池肉林コースのご用意が整いました」


 美女に促されて私がそちらに目を向けると、大きなテーブルに豪勢な食事と世界中のお酒、それに私にむけてほほ笑む無数の美しい女たち。

 私は美女に手を取られ、テーブルへと近づく……





 

『いやいや。待て待て何勝手に話を盛ってんの登場人物の俺よ』


 虚空から声が聞こえた。

 いや聞こえた、というのは正しくない。

 これは似非エッセイ、文章だ。だから文字が降ってきた……それこそ文字にすればおかしなことだが、とにかくそういうことが起きた。

 このエッセイの世界においてそんなことができるのは一人しかいない。

 

 それは、この文章を執筆している俺である。

 登場人物である俺は、執筆している俺に向かって文句を返す。


「待てはこっちのセリフだよ、執筆してる俺。今から温泉三昧酒池肉林を始めるんだから邪魔すんなよ。なんならお前も参加するか?」

『アホ。参加するも何も、そのシーン書くのは執筆する俺なんだって。それよりそろそろ時間だから出るよ。服を着なって登場人物の俺』

「時間……? なんの時間?」

『そりゃもちろん、復路出発の時間だよ』

「…………!? え、 今から帰るの!? 泊りじゃないの!?」

『泊りじゃないよ。フツーに帰るよ。明日仕事だもん』


 だから加恵留神社に参拝したんじゃん、と執筆する俺がこぼす。

 

「ま、ちょ、待って! え、ええ!? ここまで80km以上走ってきたのに……帰るの!? !?」

『そだよ。帰るよ』

「ま、待て! ……そ、そうだ! これはエッセイとは言え創作だ! ある程度の事実改変や記憶違いはあるよな! 仕方ないよな! じゃあ、にしようぜ! 美女と酒池肉林のあっはんうっふん♡ とは言わないから、明日休みで一泊したことにしようぜ? な? な? いいだろ? な?」

『残念ながら、そうはならなかったんだよ……。まあ心配しなさんなって大丈夫』

「だ、大丈夫って何が?」

『川沿いに上流に向かって来たんだから、帰りは下り基調だよ』

「下り基調とかじゃねぇよ80kmが大丈夫じゃないって言ってるんだよぉぉぉおおおおおおおお!!!」


 俺は隣にいる美女を見た。

 いつの間にか一部の隙も無いスーツ姿である。


「なぁ! あんたも何か言ってくれよ!」


 美女は軽蔑の眼差しでペッと唾を吐くと、満面の笑顔を見せて、


またのご利用お待ちしておりますGetaway and go home入江様Shit-bag

「俺の妄想なのに俺の扱い厳しいのおかしくない!?」


『はい帰るよー』

「うわぁぁぁぁああああああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛゛あ゛゛!!」

 

 登場人物俺の絶叫もむなしく。

 16時、下呂温泉発。

 私は帰路に就いたのだった。


 誤解の無いように明記しておくけど、美女と混浴も酒池肉林も当然ありませんでしたから。

 温泉が最高だったのだけは事実ですよ。


「80km、イヤだぁぁぁぁぁぁあああああああぁぁぁぁああああ!!!」


 いいからほら行くよ。

 俺だって走ったんだから、登場人物の俺だけ美味しい思いをさせるもんかい。




 


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