幽愁のモラトリアム

悠稀よう子

プロローグ

理人りひとの意識は、閑散かんさんとした病室の中でゆっくりと浮上してきた。彼を取り巻くのは、静寂の中で時折聞こえる廊下の遠い足音と、生命のリズムを刻むかのような医療機器の断続的な警告音のみ。彼の脆弱な身体には、細く繊細な管が数多く繋がれており、それぞれが彼の生命の炎を微かに燃やし続けている。彼の身体は、まるで時間そのものが凍結したかのように、ベッドに固定されて動けない状態にあった。


 ここは、鉄血連合Iron Blood Unionとの壮絶な戦いの痕跡から隔絶された、静けさと安寧に満ちた避難所。そして、理人りひとが戦いの荒波から引き上げられ、目覚めた場所。


 理人リヒトの頭の中では、その戦いの断片がフラッシュバックのように現れ、消えていった。彼は目を閉じ、その光景を目の前に再び見るようにした。「見つけたぞ、お前たちの目的はなんだ?」自立型AI兵士ヴァンロードの言葉が走馬灯のように耳に響くと、彼の心臓が激しく鼓動し始めた。あの日、理人リヒトは運命の風に煽られるがまま、大切な人たちを守るため、自らの全てをかけて立ち向かい、鉄血連合Iron Blood Unionの刺客たちとの戦いに身を投じた。


 早彩の絶望に満ちた叫びが、夜の静寂を切り裂き、理人りひとの心に深く突き刺さった。「まだまだ、やりたいことがあるのに!」その声は、彼の魂に響き渡り、彼は彼女を守るために自己の全てを犠牲にした。病室のベッドに横たわり、彼は窓から差し込む柔らかな月光を浴びていた。そんな彼に、母の優しい微笑みが幻影のように現れ、愛情深く彼の頭を撫でる。理人りひとは母の声を思い出し、彼女の優しさと温かさが心に滲み入る。


 母との穏やかな時の記憶は、早彩の悲鳴とともに遠い過去のものとなり、彼の内に深い悲しみを呼び起こした。それは、母の事故についての詳細は理人には明かされていなかったからだ。彼女の死は理人りひとの幼少期に大きな影響を与え、母の微笑みが彼の心の中でぼやけ、その温かさが冷たい現実に覆い隠されていった。


 父親の存在が、どこかにありながらも理人りひとは彼の姿を知らなかった。彼の母は、父のことを決して語ろうとしなかった。それは、父が犯罪歴を持つことに関連しているのかもしれない、と理人りひとは疑念を抱いていた。彼が過去に何をしたのか、そしてなぜ母は理人りひとから父を遠ざけたのか。それは理人りひとが知りたいと思っていた謎の一つだった。母の死後、彼の心の中には父に対する好奇心と怒りが入り混じっていた。


 何よりも、彼の内面にはまだ解決されていない戦いが渦巻いていた。父の過去、母の死、そして自分の過去と現在、そして未来について考え込んだ。理人は、病室の天井を見つめながらも、彼の心の中で新たな戦いの火が静かに燃え始めていた。

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