第15話(後編)
走る。
早朝のランニングにも慣れてきました。朝起きて、軽く食べて、階段を降りて走り出す。昨日の練習について話したり、関係のない雑談をしたりしながらの運動です。朝の冷え込みも気持ちよく感じられるようになってきた、はずですが。
(やっぱり、空気重いな)
昨日の
この一件を知らない人も多いはずですが、重苦しい空気を感じます。
などと。
考えていると、右手に痛みが。
「……痛い」
「ありゃ、やっちゃったね」
「
「ウン」
「おーい」
「ねぇ、絆創膏とかある?
「おや……、すみません。今朝は持っておらず」
2人とも、少々驚きました。
男子寮のおかんこと、
「……もし、私が歌えれば」
「いやいや、そんな気にすることじゃないでしょ」
「そんなに痛くない」
本心です。ほんの少し、指先を切っただけです。こんなことで友人に無茶を言ったりしません。しかし、それでも、傷や病気を知ったとき、
つくづく優しい人には向かない力だと思います。
「あの……」
3人のところに、
「これ、よかったら」
差し出されたのは、絆創膏です。二つあって、デフォルメされたかわいい烏のイラストがプリントされています。
「──、ありがとう」
だから。
本当に小さく、弱く、短く。
(ばれない程度に)
たった一節、烏は唄いました。
ボクは、家族が好きだ。
でも、病院は嫌いだ。
そこに行くと、父はから元気を出して、いろんな話をします。母は申し訳なさそうに、それでも明るく振る舞いました。弱っていく姿が見たくなくて、直接足を運ぶことは少なくなりました。電話や手紙、あるいは退院時の付き添いだけなど。辛くないときを家族で過ごしたかったからです。
だから、病院にいるときの写真がない。
昨日の夜、布団の中でスマホのカメラロールを見て、そのことに気づきました。
(本当に相手を想うなら、きっと逆だ)
辛くて、暗い気持ちになるときこそ傍にいるべきなんだと思います。
だから、山を下りました。
早朝のランニングに、朝ごはん。そのあとの少しの時間を使って、階段を降りました。向かう先はバス停です。夏季合宿も中盤戦ですが、それよりも。
(病院に行かなくては)
今すべきことは、きっと母に会いに行くことです。
日が昇っていき、どんどん日差しが強くなっていきます。深夜に降った雨で濡れたアスファルトを乾かしていきます。雲で陰ることもなく、汗が湧き出てきました。
道中。
川沿いに、小さな子供がいました。麦わら帽子をかぶった男の子です。水面を眺め、指でつつき、なにか悩まし気に見えました。
立ち上がると、右足を踏み出そうと──、
「危ないっ!」
一気に距離を詰めて、左肩を掴みました。
「……お兄ちゃん、誰?」
「……ボクは、ボクは、スパークロ──、いや。
「からすま」
キョトンとした男の子の様子に、肩の力が抜けました。
「危ないだろう。昨日、雨が降って、増水してる。それに、ほら」
「服も汚れるし、ご両親も心配する。また今度にするんだ」
「でも」
男の子は言います。
「でも、おかーさんのくれたぬいぐるみ、落としちゃった」
川は濁っていますし、流れもそれなりに強く見えます。落とし物を探すのは難しそうです。
「大事な、ものなのか?」
「うん……」
「そうか」
腕をまくり、靴を脱ぎ、かばんは地面に置きました。
「待ってるんだ」
どぶ川に入りました。
夏でも存外冷たく感じるもので、思わず声が出そうになりました。ぐっと堪えます。そして、自分の中で気合を入れ直して、両手を思い切り突っ込みます。川の底は浅く、手が付きます。もしぬいぐるみが沈んでいたり、引っかかっていたりしたら気づくでしょう。
「あった?」
「まだ」
ざぶざぶと音を立てながら、中腰のまま端から端へ、ジグザクに川の中を探します。
こんなことをしてる暇じゃないと思います。
(それでも)
せめて、これくらいはいい人でありたいと思いました。あの2人と同じように、人を思いやれる自分でありたいと思いました。
(見つかりっこないと、考えてるのにな)
なにかできると思いたくて、頑張ってると思いたくて。
ただそれだけで芸能科に来たんだと、気づきました。
「ん?」
指先で、やわらかいものに触れました。
持ち上げると、それは、汚れていますが、たぶんクマかなにかのぬいぐるみでした。
「もしかして──」
言葉の続きを待たずして、男の子はぬいぐるみに、というか
「なっ──」
ほぼ体当たりの勢いだったので、そのまま、二人で川に倒れ込みます。
水しぶきが上がり、二人は、まぁ水浸しになりました。
「キミなぁ……」
「あった! あった! お兄ちゃんすごい!」
喜色満面とはまさにこのこと、男の子はまぶしいくらい笑っていました。
(まぁ、いいか)
「~!」
遠くから声が聞こえました。
見れば、女性が血相変えて走ってきます。
「なにしてるのっ!?」
「おかーさん! ぬいぐるみあった!」
「そうじゃなくて、危ないでしょう。お兄さんにも迷惑かけて……、頭でも打ったらどうするの?」
「ボクは、別に」
女性の顔がずいっと
「本当ですか? 頭を打ったり、どこかを擦りむいたりは? 今はよくても後で──」
「大丈夫です。本当に」
しばらく疑わし気に
「もしよければ私が──、いえ」
なにかを言いかけた女性は、あたりを軽く見渡すと首を横に振りました。
「親切な方、お名前は?」
「
「……からす、ま。もしや、あの山荘にお泊りですか?」
指の先は、まさに夏季合宿を過ごす宿のある山でした。
「なるほど、なるほど。分かりました。あなたのお体は大丈夫ですね?」
「はい、なにも怪我はありません」
「……承知しました。では、失礼ですが、わたくし共はこれで。恩知らずとは思わないでくださいね。人知れず、返すほかないのですから」
「? それはどういう」
「ほら、お兄さんに挨拶を」
「ありがとうお兄ちゃん。またね!」
「ああ、また」
麦わら帽子の少年と、和服の女性が去っていきます。
すでに暑さから空気は揺らぎ、目を開けているのも億劫です。汗が川に落ちる音がします。水に晒されている足だけが冷たく、ちぐはぐだと思いました。
「はぁ……」
川から上がります。服はずぶぬれで、汚れもにおいも目立ちます。このままバスに乗るのはいくらなんでも申し訳ない。しかし、山荘に戻るのもばつが悪い。
そんな
「
「か~らす~」
遠くからちょっと怖い勢いで2人が走ってきます。
「はぁ」
「あ」
「ん?」
派手な音が鳴り響いた後、かすかに虹がかかりました。
ぎゅっと目を瞑って、川の中にいる間、
(あとで殴ろう)
と、
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