第15話(後編)


 走る。

 早朝のランニングにも慣れてきました。朝起きて、軽く食べて、階段を降りて走り出す。昨日の練習について話したり、関係のない雑談をしたりしながらの運動です。朝の冷え込みも気持ちよく感じられるようになってきた、はずですが。

(やっぱり、空気重いな)

 あきは、居心地の悪さを感じていました。

 昨日の一颯かずさから、みことへのお願いの件です。風紀委員の介入もあったことで、早輔そうすけ日陰ひかげにも気まずさを覚えます。一颯かずさは、自分の家族を大事に思ってのことですし、ほかの面々もルールを守らなくては、守れないものがあります。簡単な話ではありません。

 この一件を知らない人も多いはずですが、重苦しい空気を感じます。

 などと。

 考えていると、右手に痛みが。

「……痛い」

「ありゃ、やっちゃったね」

 春音しおんの視線の先、あきの右手には小さい切り傷ができていました。沿道の草葉で切ったようです。傷跡に沿って、赤い血が出ています。表面張力で丸みを帯びている血を見ると、痛みが増した気がします。

みことに聞いてみようか。──絆創膏とか、持ってるかさ」

「ウン」

「おーい」

 春音しおんは先を走るみことに近づき、声を掛けます。

「ねぇ、絆創膏とかある? あきが指切っちゃってさ」

「おや……、すみません。今朝は持っておらず」

 2人とも、少々驚きました。

 男子寮のおかんこと、鶴雅つるがみことは、備えあれば患いなし、という人です。救急セットや裁縫セットを常に持ち歩いています(運動のときは、さすがに控えめな量ですが)。

「……もし、私が歌えれば」

「いやいや、そんな気にすることじゃないでしょ」

「そんなに痛くない」

 本心です。ほんの少し、指先を切っただけです。こんなことで友人に無茶を言ったりしません。しかし、それでも、傷や病気を知ったとき、みことは辛そうな顔をします。このようなささやかな傷を癒すことが、彼にとってどれほど容易なことか。そして、その容易なことを成すのに、どれほど面倒な手続きが、釈明が、しがらみがあることか。

 つくづく優しい人には向かない力だと思います。

「あの……」

 3人のところに、一颯かずさが来ました。走るペースをわざわざ下げて。

「これ、よかったら」

 差し出されたのは、絆創膏です。二つあって、デフォルメされたかわいい烏のイラストがプリントされています。

「──、ありがとう」

 あきが受け取ると、後輩は嬉しそうにはにかみました。人を思いやり、感謝を喜ぶこの後輩も、また、この世界に似つかわしくない優しい人だと思います。

 だから。

 本当に小さく、弱く、短く。

(ばれない程度に)

 たった一節、烏は唄いました。




 ボクは、家族が好きだ。

 でも、病院は嫌いだ。

 そこに行くと、父はから元気を出して、いろんな話をします。母は申し訳なさそうに、それでも明るく振る舞いました。弱っていく姿が見たくなくて、直接足を運ぶことは少なくなりました。電話や手紙、あるいは退院時の付き添いだけなど。辛くないときを家族で過ごしたかったからです。

 だから、病院にいるときの写真がない。

 昨日の夜、布団の中でスマホのカメラロールを見て、そのことに気づきました。

(本当に相手を想うなら、きっと逆だ)

 辛くて、暗い気持ちになるときこそ傍にいるべきなんだと思います。

 だから、山を下りました。

 早朝のランニングに、朝ごはん。そのあとの少しの時間を使って、階段を降りました。向かう先はバス停です。夏季合宿も中盤戦ですが、それよりも。

(病院に行かなくては)

 今すべきことは、きっと母に会いに行くことです。

 日が昇っていき、どんどん日差しが強くなっていきます。深夜に降った雨で濡れたアスファルトを乾かしていきます。雲で陰ることもなく、汗が湧き出てきました。

 道中。

 川沿いに、小さな子供がいました。麦わら帽子をかぶった男の子です。水面を眺め、指でつつき、なにか悩まし気に見えました。

 立ち上がると、右足を踏み出そうと──、

「危ないっ!」

 一気に距離を詰めて、左肩を掴みました。

「……お兄ちゃん、誰?」

「……ボクは、ボクは、スパークロ──、いや。烏丸からすまだ」

「からすま」

 キョトンとした男の子の様子に、肩の力が抜けました。

「危ないだろう。昨日、雨が降って、増水してる。それに、ほら」

 一颯かずさの視線の先の川は、濁っています。とても川遊びに適しているようには見えません。大人ならともかく、小学校低学年くらいの子では、身の危険があるでしょう。とても見過ごせません。

「服も汚れるし、ご両親も心配する。また今度にするんだ」

「でも」

 男の子は言います。

「でも、おかーさんのくれたぬいぐるみ、落としちゃった」

 川は濁っていますし、流れもそれなりに強く見えます。落とし物を探すのは難しそうです。

「大事な、ものなのか?」

「うん……」

「そうか」

 腕をまくり、靴を脱ぎ、かばんは地面に置きました。

「待ってるんだ」

 どぶ川に入りました。

 夏でも存外冷たく感じるもので、思わず声が出そうになりました。ぐっと堪えます。そして、自分の中で気合を入れ直して、両手を思い切り突っ込みます。川の底は浅く、手が付きます。もしぬいぐるみが沈んでいたり、引っかかっていたりしたら気づくでしょう。

「あった?」

「まだ」

 ざぶざぶと音を立てながら、中腰のまま端から端へ、ジグザクに川の中を探します。

 こんなことをしてる暇じゃないと思います。

(それでも)

 せめて、これくらいはいい人でありたいと思いました。あの2人と同じように、人を思いやれる自分でありたいと思いました。

(見つかりっこないと、考えてるのにな)

 なにかできると思いたくて、頑張ってると思いたくて。

 ただそれだけで芸能科に来たんだと、気づきました。

「ん?」

 指先で、やわらかいものに触れました。

 持ち上げると、それは、汚れていますが、たぶんクマかなにかのぬいぐるみでした。

「もしかして──」

 言葉の続きを待たずして、男の子はぬいぐるみに、というか一颯かずさに抱き着きました。

「なっ──」

 ほぼ体当たりの勢いだったので、そのまま、二人で川に倒れ込みます。

 水しぶきが上がり、二人は、まぁ水浸しになりました。

「キミなぁ……」

「あった! あった! お兄ちゃんすごい!」

 喜色満面とはまさにこのこと、男の子はまぶしいくらい笑っていました。

(まぁ、いいか)

「~!」

 遠くから声が聞こえました。

 見れば、女性が血相変えて走ってきます。

「なにしてるのっ!?」

「おかーさん! ぬいぐるみあった!」

「そうじゃなくて、危ないでしょう。お兄さんにも迷惑かけて……、頭でも打ったらどうするの?」

「ボクは、別に」

 女性の顔がずいっと一颯かずさに向けられます。

「本当ですか? 頭を打ったり、どこかを擦りむいたりは? 今はよくても後で──」

「大丈夫です。本当に」

 しばらく疑わし気に一颯かずさを見ていましたが、ふっと圧力がなくなりました。和装に身を包んだ気品のある人です。妙にオーラのある人物ですが、そんなことが気にならなくなるぐらい、息子を心配し、また、一颯かずさの身を案じていました。着物が汚れるのもいとわず、びしょびしょになった息子を抱きしめ、川から引っ張り出しました。

「もしよければ私が──、いえ」

 なにかを言いかけた女性は、あたりを軽く見渡すと首を横に振りました。

「親切な方、お名前は?」

烏丸からすま一颯かずさです」

「……からす、ま。もしや、あの山荘にお泊りですか?」

 指の先は、まさに夏季合宿を過ごす宿のある山でした。一颯かずさは頷きます。

「なるほど、なるほど。分かりました。あなたのお体は大丈夫ですね?」

「はい、なにも怪我はありません」

「……承知しました。では、失礼ですが、わたくし共はこれで。恩知らずとは思わないでくださいね。人知れず、返すほかないのですから」

「? それはどういう」

「ほら、お兄さんに挨拶を」

「ありがとうお兄ちゃん。またね!」

「ああ、また」

 麦わら帽子の少年と、和服の女性が去っていきます。

 すでに暑さから空気は揺らぎ、目を開けているのも億劫です。汗が川に落ちる音がします。水に晒されている足だけが冷たく、ちぐはぐだと思いました。

「はぁ……」

 川から上がります。服はずぶぬれで、汚れもにおいも目立ちます。このままバスに乗るのはいくらなんでも申し訳ない。しかし、山荘に戻るのもばつが悪い。

 そんな一颯かずさの心の機微に、あの2人が配慮するわけもなく(意識的かはともかく)。

一颯かずさぁー!」

「か~らす~」

 遠くからちょっと怖い勢いで2人が走ってきます。

「はぁ」

「あ」

「ん?」

 SPARCROスパークロ VISIONビジョンが川沿いに集結かと思いきや。

 ほがらが小石に躓き、忠太ちゅうたはその裾を掴み体が持っていかれ、一颯かずさは半端な回避行動で体勢が崩れ、3人の体がぶつかり合い、全員まとめて川に落ちました。

 派手な音が鳴り響いた後、かすかに虹がかかりました。

 ぎゅっと目を瞑って、川の中にいる間、

(あとで殴ろう)

 と、一颯かずさは思いました。


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