それでもわたしは、ちょうちょになりたい。

ここあ とおん

1.またね


「何してるの?」


 と僕は無意識に口を開いていた。


 すると、まだ名も知らない彼女が優しく振り向いて僕と目を合わせる。


 腰くらいの黒い艶のある髪。公園なのにたんぽぽみたいな黄色いパジャマ。幼い輪郭と瞳。何故か全てが愛おしく感じた。


「わたし、生まれ変わったらちょうちょになりたいんだ」


 春の暖かい風が僕に吹き付けたかのように彼女は優しい音を広げる。向日葵ひまわりのような笑顔を浮かべる。


 彼女は僕の質問を無視した。


「え?ちょうちょ?」


 もちろん、ちょうちょのことなんて知っている。しかし、彼女が急に「ちょうちょになりたい」という意味が気になった。


「うん。ほら、見て」


 彼女は小さな白い手で僕の後ろに指先を向ける。僕はその指に操られるように後ろを振り返る。


「わあ……!」


 と、僕は思わず詠嘆する。


 そこでは一瞬では数えきれないほどのちょうちょが桜の花びらか、雪の結晶みたいにひらひら舞っていた。


 その景色は天国とか楽園とか、心の底から安心できるような場所を想像させた。


「わたし、愛夏羽あげはっていうんだ。君は?」


 僕を追った彼女はそう名乗る。


 あげは。


 可愛い名前だね。なんて初対面の人に言える訳がなく、僕は「智栄ちえ……」と返すだけだった。


「ちえ?いい名前だね。よろしくね」


 あ、先に言われた。かと言っても僕も「いい名前だね」と言い返せる訳なく「よろしく」と呟く。


 何故、彼女は初対面の相手なのにこんなに話して来るんだろう。何故、僕は彼女に話しかけたんだろう。


「わたし、そろそろ時間だから戻らなきゃ」


 彼女は少し寂しそうな口調で自分の腕でを動かし始めた。


 大体、見当はついていた。彼女はパジャマ姿なのはこの近くにある病院に入院してるから。車いすもそうだ。


「よいしょ……うわ!」


 彼女は唐突に大声を上げる。車いすのタイヤ部分に公園の溝が引っかかってて動けない。


「大丈夫?手伝おうか?」


 この言葉も無意識だった。


 そして僕は彼女の車いすを押して溝から脱出させてあげる。


「ありがとね」


 また君はあの笑顔を浮かべる。なんだかこっちまで笑ってしまう。


「せっかくだからさ、このまま病院まで送ってくれない?」


「え?」


 そういえば僕。何してる途中だったんだっけ。そうだ。部活に行こうとして、遠回りしたい気分だったからこの公園に寄ったら君がいたんだった。


 君が蝶に見とれてる姿はまるで暖かいピアノの演奏の中にいるような感じだった。僕はそれに惹かれた。


 腕時計を一瞬だけ見るとあと1、2分くらいで部活は始まってしまう。


「いいよ。病院ってどこ?」


 僕は何かを吹っ切るような気分になりながら言った。


「いいの?優しいね」


 君だって、人に優しいって言えるくらい優しい人だ。


 僕は彼女の指示で病院を目指す。


「そこ右に曲がって。あれこっちでいいんだっけ?あ、間違えたごめん!」と、僕は正直不安になりながらなんとか病院へ辿り着けた。


 さらについでで彼女を病室まで送り、「じゃあ」と言って病室を出ようとしたとき。


「ねえ、智栄ちえだっけ?」


 彼女は僕の名前を呼んだ。


「うん」


 と言うと、彼女は一回頷いてベッドの横にあるリュックをガサガサあさる。そのリュックからはスケッチブックが出てきた。


智栄ちえはさ、ちょうちょ好き?」


「うん。好きだよ」


 嘘だ。


 本当は蝶になんて興味を持ったことはない。綺麗だとは思ったことはあるけど、たまにグロい柄とかもあるし。


 しかし、「うん」と言ったのは彼女の前にいるからかもしれない。


「わたし――」


 トントントン……。と、僕たちの会話を隔てるようにノックが鳴る。


愛夏羽あげは、入っていい?」


 という女の人の声に。


「いいよー」


 と彼女が答える。


 え?僕がいて大丈夫?怪しまれない?


「あれ?お友達?」


 その人は愛夏羽あげはさんによく似ていた。でも背は彼女よりずっと高い。姉妹なのかな?


「うん。智栄ちえくん。っていうんだ」


 彼女は「うん」の「う」にアクセントを入れて明るく言う。一応、友達として認定されたようだ。


「そう。よろしくね。あ、私は愛夏羽あげはのお姉ちゃん」


「よろしくお願いします」


 僕は丁寧に挨拶した。


「そうだ。お医者さんがね検査あるから来てほしいって」


「え?この絵智栄ちえに見せたかったのに……」


 彼女はスケッチブックを見ながら嘆く。


「ごめんね。また、来てもいいからこの絵見て欲しいんだ」


「うん、分かった。じゃあ暇なとき来るね」


 正直、暇なんて無かった。もうすぐ期末テストだし。でも僕は約束した。彼女に会いたいから。


「またね」


 彼女の「またね」という暖かい声が僕の脳に染み付いた。





 見せたい絵ってなんだろうな。ちょうちょの絵?


 僕はそんなことを考えながら病院の廊下を歩く。


 あの日からずっと彼女のことが忘れられない。授業中だろうが、電車に乗ってるときだろうが。ちょうちょを見るたびに思い出す。


 トントントン……。


 あれ?ノックって3回でいいんだっけ?2回が確かトイレ……?3回だっけ?間違ってたら失礼じゃ……?


「どうぞー」


 ごちゃごちゃ考えてるときに彼女の明るい声がドア越しに響く。


「失礼します……」


 職員室に入るように僕はドアをくぐる。


 彼女は病室にある机の上にピアノのキーボードを置いてちょうどそれをいじっていた。ピアノ弾けるのかな?


「あ、来たんだ。おはよ」


「うん。おはよう」


 相変わらず彼女は黄色いパジャマを着ていた。


「ピアノ好きなの?」


「うん。昔は習ってたんだ」


 そして彼女は「あっ、そうだ」と言いながらまたリュックの中からスケッチブックを取り出す。


「見てこれ!」


 彼女は新元号を発表するみたいにスケッチブックを開いて僕に見せる。


「わあ……!」


 と、僕は思わず詠嘆する。


 そこには1ページにめいいっぱいピンクの蝶が大きく描かれていた。指に止まった蝶の羽はとても繊細に描かれてて今にも鏡のように物を反射しそうだ。


「すごい……これ、愛夏羽あげはさんが描いたの?」


 カラー写真をそのまま見ている気分だった。

 

「うん。ていうか愛夏羽あげはさんってなんか嫌だな……。智栄ちえって何年生?」


「高校1年生だよ」


「なんだ同い年じゃん!愛夏羽あげはって呼び捨てでいいよ」


 女子に下の名前で呼び捨て?


 そんなこと人生で初めてやる。僕は恐る恐る口を開いて。


「分かったよ。愛夏羽あげは


 僕は照れくささを隠すために口を手で覆う。


「これ、私の理想のちょうちょなんだ。」


 再び、絵の説明をする。理想……。


「ピンクのちょうちょって実際にいるらしいんだ。だから、わたしはそれを見てみたい。それがわたしの夢」


 将来の夢がピンクのちょうちょを見ること。なんか子供っぽいね。なんて言えない。「いいね」と僕は言葉を添える。


智栄ちえは?夢ってある?」


 夢か……。ない。でも。


「僕も、ピンクのちょうちょ。見てみたい」


智栄ちえも?わたしたち、気が合うね」


 気が合うのではなく合わせているのだ。


「そういえば、初めて会ったとき、蝶になりたいって言ってたよね。なんで?」


 彼女は何かに気付いたかのような表情を一瞬する。


「わたし、足が動かないんだ。見て分かるでしょ?」


「うん」


 今度は僕が優しく相槌を打つ。


「だから、歩けるのが羨ましいって思ってた。でも、歩けるなんて小さい夢。なんなら空を飛んでみたい!って思ったの」


 彼女が大きな声で話を続ける。


「でも、歩けないわたしが空を飛びたいなんて妄想、傲慢だよね」


 彼女の瞳が下を向ける。


「傲慢なんかじゃないよ」


「……え?」


 僕はこれこそ本当にそう思った。無意識に言ったんじゃない。


「君は歩けなくても1人の人間なんだ。人間が夢を語ってどこが傲慢なんだよ?」


 彼女は透き通った瞳を僕に向ける。目からは涙が浮き出てる。


「……ありがと!」


 彼女は涙を拭いながら過去一の笑顔を見せる。

 

「あ、ごめん。用事あるんだった。帰らないと」


 照れくさくなったのでなんだか逃げ出したくなった。


「えー?もっと一緒にいたかった……までも仕方ないよね」


 もっと一緒にいたい?女子からそんな言葉を貰って単純に嬉しくなる。


「またね」


 彼女が優しく言い。


「またね」


 僕が彼女の言葉を包んだ。





 それから僕たちは何度も何度も、「おはよう」と「またね」を交換し続けた。


「おはよう」と彼女が言えば僕も「おはよう」と言い「またね」と僕が言えば彼女も「またね」と言う。


 いつの間にかメールも交換しあい、僕たちは確実に仲良くなっていた。


 そして会えば会うほど、僕の心は彼女で埋め尽くされる。


 

「また部活サボったの?」


「つまんないからね。愛夏羽あげはといる方がずっと楽しい」


「ホント?」


「うん。またちょうちょの話聞かせてよ」


「そうだ。この前白いちょうちょ見たんだよ」


「白い蝶?蛾じゃねそれ?」


「絶対ちょうちょだって!でね、そのちょうちょが雪みたいに何羽もひらひら飛んでたの」 


「へえ」


「信じてないでしょその顔」


「え!?」


「何時間も見とれてたな、それに」

 


 


 僕は彼女のことが好きだ。


 明るい性格。優しい声。透き通った瞳。


 そして彼女も僕のことが好きだ。


 直接言われた訳でもないけど。お互いなにを考えてるか分かるくらい僕たちの距離は近かった。


 だけど、その交換は急に途絶えた。


 もう「おはよう」と言っても誰も返してくれない。「またね」の「また」すらない。


 彼女がなにを考えていたか全く分かってなかった。



愛夏羽あげはの羽は無くなった。



           愛

           夏

           羽

           は

           死

           ん

           で

           し

           ま

           っ

           た。


 

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