ソレイユの風

SACK

第一章

「最近真面目で、いい奴が入った」

父の幸雄から聞いたのは、日が暮れているのいうのにまだ暑さの残る夏の夜だった。

家族で食卓を囲み、好物の茄子の揚げ浸しをリオは自分の皿に取りながら父の話に耳を傾けていた。

「新人さん?」

「そう。髪も長くて見た目はチャラチャラしてるんだけど仕事の覚えも早いしセンスもある。長く続けてくれると有難いんだけどな」

幸雄は車の修理工場を経営している。最近、長年勤めていた職員が体調を壊し退社してしまい、急遽求人広告を出していたところまではリオは知っていた。

元々少人数で回していた職場で、1人欠けると仕事の負担が多くなる、と幸雄は最近毎日のように嘆き酒の量が増えていた。

「お父さん大変そうだったから良かったわね。新しい子幾つなの?」

冷やしトマトに塩を振りながら、母の育美は幸雄に尋ねる。

「27って言ってたかな。塗装も出来るから片多さんも喜んでるよ」

"片多さん“とは車体塗装を担当している職員だ。皆、幸雄と同年代で老体に鞭を打って働いているため、いつ誰に何が起きるか分からない状況だった。

「うちの会社も、少し若返りを図らないと」

瓶ビールをグラスに注ぎながら幸雄が呟く。

「リオも今度会うと思うからよろしくな。必要な書類とかはもう出てるから」

リオは会社の事務を担当していた。事務と言っても大きな会社ではないため、簡単なデータ入力や、職員に関する書類の管理だけ。もちろんそれに見合った給与しか貰えていないため、掛け持ちで最寄駅のコーヒーショップでバイトもしている。

「おっけー。何て人?」

「田島さん」

「了解」

若い新人が入ることは度々あったが、なかなか長続きする人がいなかった。仕事内容が気に入らないのか、汗臭い昭和の初老たちに囲まれて仕事をするのが嫌なのか。リオは、今までに何度も不必要となった履歴書をシュレッダーにかけてきた。

工場へ出勤するのは来週だが、履歴書の確認と身分証明書のコピーをとらないと…とリオは茶碗に残る最後の白米を口の中へ運びながら考えた。


3日間コーヒーショップのシフトが入っていた。

駅前でアクセスが良い場所にあるため早朝から夕方まで、客足は絶えない。短い休憩時間以外は立ちっぱなしで、コーヒーを淹れたりサンドイッチを作ったりテーブルの清掃をしたり終始忙しい。

翌日は幸雄の会社の手伝いのため気が楽だった。

父親の会社というのもあるが、何より座って出来る作業がほとんどなのが有難い。工場は自宅の裏にあり、データ入力が終われば家に帰っても誰からも文句は言われない。

退勤し、社員割引で安く購入したコーヒーを飲みながら帰宅した。

今年の夏は本当に暑い。毎日ニュースで災害級の猛暑やら殺人的猛暑と言われ、大袈裟だと思っていたがこれは間違いなく災害級だ。

リビングに入ると、幸雄がまだ晩酌中だった。

「おぉ、お疲れさん」

野球中継から目を離さず声をかけられる。

「ただいま。ビールちょうだい」

「グラス持ってきな」

バイトの疲労感と暑さがビールの味を格段に上げる。

「明日何時に行けば良い?」

「明日なぁ。車検が3件入ってるだけだから昼からで良いぞ」

「分かったー」

明日は昼に起きれば良いから今日は配信サイトで映画を観ながら夜更かししよう。そう思いながら、リオはまだ野球中継を見ながらビールを飲んでる幸雄をリビングに残し自室に戻った。

パソコンを立ち上げ、配信サイトで映画を物色する。これと言った趣味も、彼氏もいないリオはこうやって家で1人、映画やドラマをのんびり観ることが好きだった。

映画館もいいけど、自分のペースで一時停止出来たり、スマホをいじりながら観れるのが良い。行儀は悪いが食事をしながら観ることもあった。

「あっ、これもう配信されてる」

割と最近公開されていたはずの映画が、新作として配信されていた。

ベッドで横になり、サムネイルをクリックする。映画のオープニングが始まると、リビングから持ってきた飲み掛けのビールをまた一口飲んだ。


昼まで寝ていたはずなのに、結局昨晩は映画を2本観てしまったせいで寝不足だ。

耳障りなアラームの音にイライラしながら、リオは乱暴にスマホの画面をタップした。

リビングに行くとさすがに誰もおらず、冷蔵庫を開けて昼食になるものを物色する。昨日の残りの煮物と炊飯器に残っている白米を皿に盛り、テレビを見ながら食べた。

残り物とはいえこうやって冷蔵庫に何かがある生活が居心地良すぎて、リオは28歳だというのにまだ実家から出れずにいる。

一人娘というのもあり、家を出ろとも特に言われないが、同じ世代の友人はみんな一人暮らししているどころか結婚して出産している子も少なくなかった。

食事を終え、部屋着と大して変わらない緩さの外行きの服に一応着替え家を出た。

今日も暑く、日差しが肌を焼き付ける。紫外線を避けるように家の裏の工場に走った。


工場では板金を叩く音や、モーターで金属を削る音が響き渡っている。

リオに気付いた幸雄の同僚たちが「リオちゃん!もう昼だぞ!」と騒音に負けない大きな声で笑いながら挨拶をしてくれた。

「ごめんごめん!」

小さい頃から工場に遊びにきていたリオからすると、皆親戚のおじさんのような存在だった。

そんな中、奥で何かのパーツと睨めっこしている幸雄がリオに気付き、手招きした。

「新人さん紹介するから」

工場の外に一台の白い車が停まっている。車の前に、エアスプレーを器用に動かし傷付いた車体を塗り直している男が座っていた。

「田島くん、これ娘のリオ。うちの事務作業やってて、時々来るからよろしくな」

男が振り向き、スプレーを吸い込まないよう付けている防毒マスクをゆっくり外し、無言で会釈した。

少し長めの茶髪と、作業着を着ていても細身だと分かる体型。目付きは鋭いが精悍な顔付きをしていた。

「よろしくお願いします」

こちらを睨むような目付きに一瞬怯んだが、リオは声を絞り出した。

ここに入ってくる若い男は何故か、過去に所謂"やんちゃ“をしてきたような者が多かった。髪色も金髪だったり、刺青を入れてる者もいる。

仕事を真面目にやってくれれば良いから、と幸雄は特にルールを決める予定はないようだ。

デスクに戻り、提出物をまとめる。

「田島イツキ、さんね」

大学卒業後、有名自動車会社の工場で働いていたようだ。幸雄がセンスがいいと褒めていたのはここのお陰か、と履歴書を眺める。

途中3年間の休職期間があり、それ以降は聞いたことがない工場の名前が並んでいた。

有名企業で働いていた人が何故うちのような小さい工場に来たのだろうか。以前の方が収入もかなり良かったはずだ。

パワハラ?人間関係?いらぬ思考を巡らせていると、イツキの鋭い目つきが脳裏によぎり、思わず首がすくんだ。

余計な詮索はやめて、リオは提出されていた書類のコピーをするため席を立った。


それから暫くは、やるべき仕事がなかった為工場への出勤はなかった。次の出勤は、給与の計算をし始める月末だ。

コーヒーショップは相変わらず毎日忙しく、立ち仕事でむくみまくった足を引きずって帰宅する日々が続いている。

「お疲れ様でしたー」

その日も早朝から夕方まで働き、疲弊した体で店を出ると朝には降っていなかった雨が降っていた。

店から自宅までは歩いて10分ほどで、雨も大降りではない為傘を買うまでもない。

リオは少し俯き、早歩きで帰路へと進んだ。

角にある自動販売機を曲がるともう自宅が見えてくる。幸い雨は強くなっていないが同じペースで降り続き、グレーのパーカーがもう既に色濃く染まってしまっている。

帰ったらすぐにシャワーを浴びよう。そう思いながら歩みを進めていると、向かいから見覚えのある人物が歩いてきた。作業着の長袖を腰に巻き、白いTシャツから伸びる細い腕が透明のビニール傘を差してきる。

一度顔を合わせただけだが、分かる。あの風貌は間違いなくイツキだ。

まぁまぁな雨の中傘を刺さずに歩いてることが異様だったのか、俯いて歩いていたイツキがリオに視線を向けた。

「お疲れ様です」

顔を覚えられているか分からないが一応経営者の娘としてリオから挨拶をすると、イツキは前回と同じように無言で会釈した。


「良かったら…」


そして自分の差していたビニール傘を差し出してきた。

「えっ、いや、もう家すぐなので」

振り向けば自宅は見えるが駅までは遠い。明らかに傘が必要なのはイツキの方だ。

だがイツキは押し付けるようにリオに傘を渡すと、そのまま背中を向けて歩いて行ってしまった。

「ありがとうございます!」

イツキの背中に掛けた声は、雨の音に消されずに届いていただろうか。


-ー良かったら…。

思えば声を聞くのは初めてだった。

低く、少し嗄れた声。

夕飯を家族で囲み、育美の揚げた天麩羅を前にしても数時間前に聞いたイツキの声が頭に残っていた。

どこか陰のあるあの顔は、楽しい時どんな表情になるのだろう。

「リオ?食べないの?」

揚げたての野菜を皿に盛る育美に顔を覗き込まれハッとする。

「あ、ごめん。ボーっとしてた」

「疲れてるの?茄子天あるわよ?」

「うん、食べる。美味しそう」

衣を纏った茄子を冷たい天つゆに浸し食べる。たっぷり油を吸い柔らかくなった茄子と、カリカリの衣が美味い。

「うま」

「でしょー。いっぱい揚げるから食べてね」

空になったバットを持って育美は再びキッチンに戻っていった。

「リオも最近忙しいのか?」

既に顔の赤い幸雄が、リオのグラスにビールを注ぐ。

「まぁね。あそこは立地いいから毎日忙しいよ」

「そっか。父さんの方は田島くんのお陰でだいぶ楽になってるから、こっちは無理して出勤しなくてもいいからな」

「ううん、大丈夫だから!」

慌てたように返事をしてしまい、幸雄が驚いて目を丸くする。

「おじちゃんたちにも会いたいし、おじちゃんたちも私に会いたいだろうしね」

大袈裟に笑って答えた。何か怪しまれてないだろうか、少し不安になる。

「そういえばさ、田島さんってどんな人なの?続けれそう?仕事できるんでしょ?」

「田島くんはできるぞー。1人で何人分の仕事やってくれてることか。口数は少ないけど、もうみんなから信頼されてるよ」

「喋ったりしないの?」

「声を掛けられるのが嫌いそうだからなぁ。基本的に誰とも喋ってないね。脛に傷でもあるんじゃないか?まぁあそこはそんな連中ばっかだから。お父さんだってな、昔は…」

幸雄が過去の話をし始めると長いことは皆知っている。リオは右から左に受け流しながらグラスの中のビールを流し込み、育美はキッチンから戻ってこない。


この時既にイツキに対する感情の名前は分かっていたが、リオはまだ気づかないフリをしていたかった。

恋の始まりはいつだって自分の気持ちに抗いたくなる。

不安なのだ。自分以外のものに自分の心が支配されることが。

感情が複雑に絡み合いながらも、次に会える日が待ち遠しかった。


数日間のコーヒーショップ勤務を経て、工場の月末締めをする時期になった。

タイムカード、シフト表、勤務管理表を見比べ、時間の記入ミスはないかチェックをし合計の勤務時間を計算する。

相変わらず金属を削る音や、モーターを回す音、板金を叩く音が大音量で響き渡る中、パソコンと電卓を二刀流で操作する。我ながらこんな騒音の中よく集中して作業ができるな、とリオは自分を褒めた。

書類を記入しようとファイルを広げると、幸雄の字で[田島イツキ +能力給¥500]と書かれた付箋が貼られていた。

能力が高い従業員には、時給とは別に能力給というものがプラスされるのだが、入ってすぐに500円がプラスされることは異例だった。ここまで幸雄に認められているとは。

作業が忙しく工場内を見渡すこともできなかったが、ようやく少し余裕ができ視線を向ける。

長く働くベテラン勢の奥で、イツキが黙々と赤い車の傷を治していた。

その隣で幸雄と同年代の片多が中腰で何やら金属のパーツを削っている。この暑い中、長袖の作業着と安全靴を履き、ゴーグルとマスクをして汗をポタポタと落としながら作業していた。

やはりこの仕事は体の負担が大きい。

片多が機械の電源を止め大きく腰を反らした。

「片多さん大丈夫かい?」

幸雄が声をかけると片多は首を横に振った。

「いやぁ最近どうも腰がね。前やったヘルニアがまた再発しちゃったかなぁ」

「ヘルニアは癖になるからなぁ。それ納期はまだ先だから休み休みやってよ」

幸雄が片多の肩をポンと叩きながら笑う。

すると奥で塗装作業をやっていたイツキが防毒マスクを外し、片多の元に来た。

「俺、スプレー終わったんで変わります」

「田島くん、いいのかい?何だか最近変わってもらってばかりで悪いねえ」

「大丈夫っす。俺の方が若いんで」

イツキが少し笑った。片方だけ口角を上げた、ぎこちない笑い方だったがリオは心臓を掴まれたように一瞬呼吸が苦しくなった。

「そう言われちゃ何も言えねえよなぁ」

片多が豪快に笑っている横で、イツキはもうゴーグルを付け作業を始めていた。

火の粉の眩しさに眉間に皺を寄せ、もうさっきの笑みの欠片もない。

あんな風に笑うんだ。

イツキのぎこちない笑顔を再び思い出しながら、リオは自分の仕事に戻った。


「じゃ昼休憩にしよう。リオ、麦茶頼む」

12時過ぎになり、休憩の時間になった。リオは自宅に戻りペットボトルの麦茶とパンパンに氷を入れたグラスを人数分用意した。

グラスに麦茶を注ぐと氷がパキパキと音を立てヒビが入る。

冷房が効いた工場の離れには冷蔵庫や電子レンジなどがあり食事スペースとなっていて、各々用意した昼食をそこで食べている。

リオは麦茶を配りに離れに向かったが、そこにイツキの姿は見当たらない。一通り配り終えたトレイには、イツキの分のグラスが残された。

離れを出て工場の外に出ると、日陰に座り煙草を吸うイツキの姿が見えた。

何かを食べてる様子はなく、缶コーヒーだけが足元に置かれている。

「田島さん」

声をかけると、眩しそうに眉間に皺を寄せリオを見上げた。

「これ良かったらどうぞ」

氷が溶けないようにそっと日陰にグラスを置く。

イツキは耳を澄ましてやっと聞こえるかの声で「ありがとうございます」と呟いた。

トレイを抱え、イツキから少し離れた隣にリオも腰を落とす。

「この間は傘ありがとうございました」

イツキは再びリオをチラリと見ると無言でただ頷いた。そして風向きでリオの方に向かおうとしているタバコの煙を手で払い除けた。

「あの…離れは冷房効いてるので涼んでくださいね。熱中症とか、危ないので」

何を考えているのか、何を見てるのか分からない表情でイツキはただ煙草の煙を肺に入れては吐き出している。

空き缶の中に吸い殻を落とすと、空いた手で麦茶を口にした。汗をかいたグラスの滴がイツキの顎から喉仏を伝う。

見つめすぎだと自分で気付き、慌てて目線を逸らした。

「グラスはそこに置いといてもらえればあとで取りに来るので」

軽く会釈をしてイツキのそばから離れた。

緊張感と暑さのせいで、どうにかなりそうだった。トレイを置きに離れに戻ると、自分のグラスに麦茶を注ぎ一気に飲み干した。


月末締めのあとは給与明細の作成などもあり、しばらく事務作業が続く。

そのため月末はコーヒーショップのシフトは入れずに工場にいる時間が多くなる。

来月分のシフトの作成をしていると、イツキの出勤可能な日程のメールが出てきた。

イツキのメールには、

[1〜31日◯]

と、だけ書かれていた。

人手も足りない現場でいくら頼りにされていても、労働法基準法で休みは必ず作らなくてはならない。

多く出勤してくれるのは有り難いのだが、予定などないのだろうか。

その日の昼休憩で、リオはまた麦茶とグラスを用意し一人一人に渡しに行った。

イツキはまた離れにはいない。恐らくまたあの場所で、暑い中煙草を吸ってるのだろう。

工場の外に行くと、案の定日陰の地べたに座り込み煙草を吸っているイツキの姿があった。

「お疲れ様です」

一言声をかけ、麦茶を横に置く。

「田島さん、シフトのことなんですけど…」

イツキはまた眩しそうにリオを見る。

「休みはこちらで決めますか?もし希望の曜日とかあれば…」

「特にないんで、適当に決めてください」

遮るように言われ思わず怯む。

「分かりました。ではメンバーを見て決めますね。あの…あまり無理しないように…。あと、グラスはそこに置いといてもらえればあとで取りに来るので」

震える声に気づかれないように早めにその場を立ち去った。

きっと空のグラスは離れのトレイに戻されるのだろう。

昨日グラスを回収しに工場の外に出ると、イツキが座り込んでいた場所に見当たらなかった。疑問に思いながら離れに戻ると、きっちり人数分のグラスが揃えてトレイに整列していて、イツキが飲み終わったグラスをここまで戻したことが分かったのだった。

無愛想で何を考えているのか分からないが、こういうところは律儀なようだ。

だから、幸雄からもあんなに信頼されているのだろう。

パソコンの前に戻り、来月のシフトの作成に取り掛かる。

出勤人数の多い日はイツキを休みにし、なるべく疲れの溜まらないシフトにしてあげたい。それはイツキだけでなく他の従業員に対してもそうだ。

パソコンと睨み合い全員のシフトを調整し、保存ボタンをクリックした。


「お父さん、田島さんさ…」

工場の定休日、リビングで高校野球を見ながらくつろぐ幸雄に声をかけた。

「昼休憩で食事してるところ一度も見たことないんだけど大丈夫なのかな?」

テレビの中では、この猛暑の中高校球児たちが汗を流して試合に励んでいた。

若者が暑い夏に汗と涙を流す姿がそんなに美しいのだろうか。毎年熱中症で老若男女問わず何人も亡くなる人がいるというのに、これだけは意地でも季節を変えない。

「離れにいないとは思ってたけど、飯も食ってないのか」

「うん、私が見た限り煙草吸ってるだけ。頑張って働いてくれてるしさ、体壊さないといいんだけど」

「細いもんな。今度蕎麦でもとるか…」

「そうしてあげて」

テレビから、一点を取った学校側の盛り上がった歓声が聞こえてきた。

冷房の効いた部屋にいると忘れるが、今日も35度を超える猛暑日だ。

扇風機の風で揺れる風鈴が、繊細で綺麗な音を奏でている。


翌日、早速幸雄が昼に近所の蕎麦屋の出前を取った。

「あらっ、どうしたの幸雄さん、太っ腹だねぇ」

片多が嬉しそうにセットでついてきた海老の天ぷらを眺める。

「いつも頑張ってもらってるからね。このくらいはたまにしないとな。リオ、田島くん呼んできて」

イツキは昼休憩になった瞬間に姿を消す。きっといつもの場所だろう。リオは工場の外へ出た。

イツキの煙草の匂いがする。

非喫煙者のリオは煙草の匂いは正直苦手だったが、この匂いを嗅ぐと胸が高鳴るようになった。そこにイツキがいるからだ。

「お父さんがお蕎麦を頼んだので食べに来てください」

リオの方向に煙がいかないよう顔を背けて煙を吐き出す。

「いや、俺は…」

「全員分あるので」

今回はリオが言葉を被せた。イツキが少し驚いたようにリオを見る。

「海老の天ぷらもあります」

リオは大真面目に言ったつもりだった。やはり冷たい蕎麦には海老の天ぷらは必要不可欠だからだ。

すると丸い目をしていたイツキが吹き出すように笑った。

「すごい推すじゃん」 

突然見せた笑い顔にリオは思わずフリーズしてしまう。この笑顔が見たかったはずなのに、何故笑ってるかが理解できない。そんなに変なことを言ってしまっただろうか。

「えっ、と…」

イツキはまだ長かった煙草を飲み終わったコーヒーの缶に投げ入れ立ち上がると、離れの方に向かった。

きっと蕎麦を食べに行ってくれるのだろう。イツキの体調を心配したリオと幸雄の作戦成功だ。

それなのに急に見せたイツキの笑顔が脳裏に焼き付いて、リオは1ミリも体を動かすことができなかった。

困ったように眉毛が下がり、いつも鋭い目つきが優しくて…。

作業が止まっている工場は静かだ。

近くで鳴く蝉の声が響き渡っている。


その日の作業が全て終わり、リオは工場内の掃き掃除をしていた。

専門的なことは何一つできないがこのくらいなら出来る。その分従業員は早く帰れるし、自分が出勤する日は必ず行うようにしていた。

床に散らばってる鉄屑を箒で回収し、火災の原因にもなるコンセント周りが片付いてるかなど入念にチェックをする。

箒が床を掃く乾いた音に、靴音が混じった。

ふと振り返ると仕事を終えたイツキが立っている。

「あのさ…」

いつもの鋭い目つきが近づき、何か怒られるのかとリオは思わず身構えた。

「茄子は自分だけ?」

「…え?」

「俺らにはなかったけど」

「…!?」

イツキが何を言ってるのか分かると一気に顔が赤くなった。

今日の昼食で幸雄が従業員に注文した蕎麦と天ぷらのセットとは別に、リオは自分にだけ茄子の天ぷらを単品で頼んでいたのだった。

どこで見られたのだろうか…

口を抑え顔を赤くするリオを見ると、イツキはニヤリと片方の口角だけを上げて笑い工場を出て行った。

何も考えず呑気に注文した昼の自分を殴ってやりたい。

「もぉー!」

静かな工場にリオの悲痛な叫びが響き渡った。


「最近ご実家の方忙しいの?」

コーヒーショップの店長に尋ねられた。とうとう来たか…とリオは内心焦った。

イツキがリオの中で特別な存在になってからというもの、コーヒーショップのシフトを少し減らし、工場に多く出勤するようにしていたのだ。

「そうなんです。父の体調が最近優れなくて、いろいろ手伝うことが多くて…」

心の中で現役バリバリの幸雄に謝る。勝手に体調不良にしてごめん、と。

ちなみに最近やたら工場に出勤するリオを見て幸雄も幸雄で疑問に思っていた。そして幸雄には、コーヒーショップはバイトの人数が多くてシフトを削られている、と伝えてある。

「リオちゃんみたいに仕事が出来る子がいないと店がうまく回らなくて大変なのよ。お父様の体調が落ち着いたら、またたくさん入ってくれると助かるわ」

店長はそう言うと仕事に戻っていった。

多方面に嘘をついている自分に罪悪感を覚える。店長は優しく、普段から親切に接してくれる分特にだ。

大きく溜め息をつく。

恋はやはり色々と狂わせる。

毎日同じようなことの繰り返しで、それでもこんなもんでいいやと思えるくらい平凡だが幸せな日々を送っていた。

それがイツキが自分の人生に登場してから、何をやっていてもイツキの顔がチラつく。

仕事中の真剣な表情や、眉を下げて困ったように笑った顔、あの時自分に見せた悪戯っ子のような表情。

まだ知らないことだらけというのに、どうしてこんなにもイツキのことで胸がいっぱいになるのだろう。

こうやって切なく辛い気持ちになることが嫌で、リオはなるべく恋なんてしたくなかった。ましてや一目惚れなんて…

「リオちゃん、そろそろ出れる?」

あっという間の休憩時間が終わってしまった。店長がバックヤードのカーテンから顔を覗かせている。

「あ、すみません!今行きます」

社割のコーヒーを一気に飲み干し、アルコールで手指を消毒するとリオは再び店に立った。


梅雨明けした空に、久しぶりに雨が降った。どんよりとした暗い空の下、工場の騒音に負けじと地面を打ち付けている雨音が響いている。

雨が降っているお陰でいつもより気温は上昇していないが、その分湿度が高く湿気を帯びた重い空気が体力を奪っていく。

「はぁー疲れたな。ちょっと早いけど昼にするか」

幸雄の号令でみんなが一斉に手を止めた。

リオは自宅に戻り、いつものように麦茶と、先日育美が帰省した際に土産で買ってきた煎餅を用意した。

一人一人に麦茶と煎餅を配り、最後はいつも通り外に出てるイツキの分だ。

いつもは日差しを遮断しているトタン屋根が、今日はイツキを雨から守ってくれていた。

「お疲れ様です」

屋根の下、イツキの隣に麦茶と煎餅を置き、少し離れたところにリオもしゃがみ込む。

「母のお土産です。良かったら」

イツキは無言で会釈すると、徐に袋を開けて煎餅をかじった。最近何となく少し近づいたかと思っていた距離感だが、相変わらずのようだった。

特に会話もなく雨音だけが2人の間に流れている。

「濡れるよ。戻ったら?」

イツキが煎餅を齧りながら、リオのことは見ずに小さく言い放った。

心配してくれているのか、ただ邪魔だからどこかに行って欲しいのか分からないが、もう少し一緒に居たかった。明日は工場の定休日でイツキに会うことできないし、

ーー定休日…

リオの中にふと疑問が浮かんだ。そしてそれをそのまま聞くか聞かないか、しばらく自問自答したが思い切って口を開いた。

「明日は定休日ですけど…田島さんは何をするんですか?」

煎餅を食べ終わり、口に咥えた煙草に火をつけながらイツキはリオを見た。

「別に、何もしないよ。寝て終わるか、部屋の掃除とか」

「…彼女はいるんですか?」

煙を吐きながら、今度は少し驚いたように横目でリオを見た。雨が煙草の煙を洗い流している。

ここでいる、と答えられたらそこでリオの恋は終わる。それならそれでいいとリオは思った。他人の仕草や行動で一喜一憂することほど辛いものはないからだ。

今なら誰もリオの気持ちは知らない。勝手に失恋して、また今まで通りの生活になるだけ。コーヒーショップのシフトも元通りにできるし、とほんの数秒にリオはここまで考えた。窮地に立った人間の思考回路は深くて速い。

「いないよ。何で?」

リオの思考回路とは裏腹にあっさりと返ってきた嬉しいはずの答えに戸惑う。今までの自分に戻るのはまだ先のようだ。

「田島さんって私生活謎だから。普段どんなことして過ごしてるのかなぁって。友達とどんな風に遊んだり、趣味とか…」

「友達もいないし趣味もない。大切なものを作らないようにしてるんだ。人も物も、場所も…」

「えっ…」

どういう意味?…と聞くことができなかった。イツキの声はいつも通り淡々としているのに、ひどく寂しそうだったから。

何も言えずにうずくまっていると、イツキは麦茶を一気に流し込み、立ち上がり「これ美味いね」と煎餅の入っていた袋をリオに見せ、離れに入っていった。

イツキが座っていた場所にはグラスも無くなっている。また律儀にトレイまで戻してくれるのだろう。

雨はまだ止むことなく、ただひたすらに地面を打ち付けていた。


その日の夜、リオはベッドの中に入って目を瞑ってもイツキの声が頭から離れなかった。

ーー大切なものを作らないようにしてるんだ。

あの時イツキは一体どんな気持ちだったのだろう。

イツキが今までどんな人生を歩んできたのか。

イツキという人間は一つ知れば一つ分からなくなる。

「幸せになってほしいな…」

二十代後半にもなると、好きな人と「付き合いたい」という願望より、好きな人には「幸せになってもらいたい」という願望が先に来る。自分も大人になったな、と実感した。

カーテンの隙間から差す月明かりから隠れるように頭までブランケットを被ると、リオは再び強く目を瞑った。


制服の上にカーディガンを羽織らないと寒い時期になってきた。

客の出入りと共に何回も開く自動ドアからは冬の冷たい風がひっきりなしに入り、店内の暖かい暖房の風が逃げていく。少し前までは皆アイスコーヒーを頼んでいたと言うのに、気づけばもう注文はホットばかりだ。

「ありがとうございました」

出ていく客に声をかけ姿が見えなくなるまで一応見送ると、今だ!とばかりにバックヤードに駆け込む。今日も慌ただしい1日が終わった。

最近販売開始した冬季限定のサンドイッチがやたらと好評で、今日もサンドイッチ製造マシーンのようにリオは何十個と作り続けた。

今なら目を閉じても作れる…

一息付いてからタイムカードを切り、エプロンを外したところで、最近店に入った女子高生のナツミに呼ばれた。

「リオさーん!すみません」

「どうしたの?」

「コーヒーの機械がなんかおかしくて…見てもらっていいですか?」

仕方なくフロアに出るとナツミが困ったように機械のボタンを弄っている。

「ちゃんとセット出来てると思うんですけど、コーヒーが出てこなくて」

レジには2名ほど客が並んでおり、リオは「申し訳ございません」と頭を下げるとコーヒーメーカーの機械を確認した。

ナツミの言う通り、コーヒー豆や水はきちんとセットされている。今までの経験を活かし、確認すべきところは全て確認し、今にも泣き出しそうなナツミを横目に、最後に受け皿が正しくはまっているか手を伸ばした。

「あ、これだ」

受け皿が少しずれてハマっていると、コーヒーが出ないよう設定されている。

「リオさん!ありがとうございます!マジ神…」

「これで大丈夫だと思う」

「はい!」

リオが受け皿をはめたタイミングと、ナツミがコーヒーを注ぐボタンを押すタイミングが重なる。その瞬間熱湯で溶かされたコーヒーが勢いよくリオの手に流れてきた。

「っつ…!」

「リオさん!」

ナツミの叫び声が店内に響いた。並んでいた客も「大丈夫?」と心配そうにリオを覗き込む。

あまりの熱さに声も出ず手を抑え、リオはシンクで水を手にかけた。

「リオさん!ごめんなさい!私のせいだ…」

ずっと泣きそうだったナツミがついに泣き出した。店内の騒々しさに気付いたのか、二階の喫煙席を掃除していた店長が慌てて戻ってくる。

「2人ともどうしたの?」

「店長!リオさんが…!私のせいで火傷してしまって!」

「私は大丈夫です!冷やせば大丈夫だから…。店長、お客様がお待ちなのでお願いしてもいいですか?」

「分かった。皆様、お騒がせして申し訳ありません」

店長は店内の客に頭を下げると、手慣れた手つきでコーヒーを淹れつつ次に並ぶ客の注文もとった。

平常を取り戻した店内を見てリオは少し安心し、ケーキのテイクアウト用に用意してある保冷剤を取り、腕を冷やしながらバックヤードに戻った。

「リオさん、本当ごめんなさい。救急車呼びますか?」

泣き止んだナツミが顔を見せる。

「大丈夫だよ、これくらい。私の方こそごめんね、もたもた直してたから」

「痕が残ったら私、医療費とか払うんで」

このまま一緒にいるとナツミをどんどん追い込むことになりそうで、リオは笑顔を見せつつもまだ痛む手に保冷剤を乗せたまま店を出た。

「リオちゃん!病院には行った方がいいわよ。労災降りるから」

店を出る際に店長から小声で言われ、笑いながら頭を下げた。

すぐに冷やしたと言うのに、熱湯がかかった部位が広い範囲で痛む。ケーキ用の小さな保冷剤を、赤くなっている皮膚にぺたぺたと当てながら自宅を目指した。まだ夕方だが辺りはもうすでに暗く、冬の始まりを感じる。肌寒いと言うのに火傷の部分はじりじりと熱い。

自動販売機を曲がったところで、前から見慣れたシルエットが歩いてきた。

作業着の袖を腰に巻き、オーバーサイズのパーカーを羽織っていても細身だと分かる。

「田島さん。お疲れ様です」

「手、どうしたの?」

「カフェでバイトしてるんですけど、ミスって熱湯かかっちゃって」

イツキは一瞬怪訝な顔をするとリオの腕を掴み、自販機の煌々と光る灯りでリオの手を照らした。

暗闇で気付かなかったが、店で見た時よりも痛々しく赤く腫れ上がる手を見て、リオ自信も驚いた。道理で痛みも熱さも引かないはずだ。

「こんな小さい保冷剤じゃダメだろ」

イツキは呆れたように溜め息をつき、リオの傷まない方の手を掴み足早にどこかへ向かった。

「田島さん、どこに…」

「いいから」

着いた先は近所のコンビニだった。「待ってて」とリオを駐車場に残したイツキは、袋で販売されているドリンク用の氷とミネラルウォーターを持って帰ってきた。

氷の袋を開け、その中にミネラルウォーターを半分注ぐ。

「手」

「え?」

「手、入れろ」

「あ、はい!」

言われるがままに氷の中に手を入れると、あまりの冷たさにとてもじゃないがそのままを保つことができず、咄嗟に手を引き抜いた。

「冷たい!」

「当たり前だろ氷なんだから!入れとけ」

「でも…」

イツキは面倒臭そうに舌打ちをすると、リオの手を掴み氷に入れるとそのまま押さえた。

「冷たい!」

「っるさいな…」

火傷の痛みと、氷の冷たさと、イツキの優しさが一気に身に染みて泣きそうになった。

強く掴まれてる腕が少し痛かったが、ずっとこのままでいてほしかった。

「田島さん…」

「何」

「好きです」

腕を掴む力が少し緩んだ。自分でもまさかこんなタイミングで告白をすることになるとは思わず、リオは慌ててイツキを見た。

「ごめんなさい!こんなこと言うつもりじゃ…」

イツキは呆然とリオを見ていたがゆっくりと視線を落とした。

「本当ごめんなさい…今のことは、忘れてください!あの…氷とかありがとうございました!」

あと少しでも一緒にいたら涙がこぼれそうで、リオは氷に手を入れたまま深く頭を下げ、走り出した。

走る衝撃で涙がこぼれた。もう火傷の熱さも、氷の冷たさにも慣れて何も感じないが、イツキに掴まれていた腕の感覚だけは残っている。

家に着くと、氷に手を入れたまま帰宅するリオの姿に育美が驚いて声を上げた。

「どうしたの、その手!」

「火傷して、…っ」

保冷剤で冷やしていたらイツキに会って、と言おうとしたところで涙が溢れた。

「え!大丈夫?え!?お父さーん!大変!リオが!」

子供のように泣きじゃくるリオを心配し、幸雄まで飛んできた。

「大丈夫か!?救急車呼ぶか!?」

必要ない、と首を振りながらも涙が止まらなかった。玄関でしゃがみ込み子供のように泣くリオの背中を育美は撫で続け、幸雄は心配そうに見つめた。


翌日は仕事を休み、早朝から皮膚科に向かった。

幸い深部まで炎症が広がっていなかったため、朝晩に塗る軟膏だけを処方された。

大きなガーゼをサージカルテープで固定された手を眺め、処方箋を待つ。

応急処置が良かったみたいだね、と皮膚科医に褒められた。

イツキのことを思い出すと、リオは今日何度目か分からない溜息をついた。


「今日はリオちゃん休み?」

片多が作業の手を止めて幸雄に尋ねる。

「そう、病院行っててね」

「病院?どっか悪いのかい?」

「ただの火傷だよ。まぁ一応女だしな。痕が残らないように薬もらいに行ったんだよ」

「一応ってひでえ父ちゃんだな」

笑いながら、片多は再び作業に戻った。

リオが不在のため、幸雄が麦茶を配りに回った。

イツキの居場所が分からなかったが、いつもリオが外に出ているのを思い出し、同じように外に出てみると、物置のトタン屋根の下にしゃがむイツキが見えた。

「お疲れさん!今日はおっさんがお茶運びで悪いな!」

笑いながら麦茶を手渡し、イツキは煙草を咥えながら会釈して受け取った。

「懐かしいな」

イツキの横で幸雄が大きく深呼吸する。

「何してんすか」

「副流煙。俺も昔は吸ってたんだよ」

遠い目をして昔を思い出す幸雄を見て、トントンと煙草の箱を指で叩き器用に一本だけ取り出すと、イツキはそのまま箱を幸雄に差し出した。

「マジで?」

どこか嬉しそうに驚く幸雄に、イツキはニヤリと口角を上げる。

幸雄が煙草をやめてもう10年は経つ。以前肺炎を患った時に、医者に「生きたいなら煙草はやめろ」と言われたからだ。

たまにはね…と、幸雄が煙草を咥えると、イツキがライターで火をつけた。

「おおー、ヤニクラヤニクラ」

久し振りの感覚と、いつもはあまり関わることができないイツキとこうやって煙草を吸えることが嬉しく、幸雄は嬉しそうに笑った。

「昔は1日に何箱も吸ってたけど、今や煙草も高級品になっちまったよなぁ」

寒空の下、二つの煙が登っていく。

「リオさん、手大丈夫ですか?」

短くなった煙草の火を消し、飲み終わった缶コーヒーの中に入れるとイツキは尋ねた。

「大丈夫大丈夫!昨日は帰ってくるなり泣き出して何事かと思ったんだけどな。軟膏もらって帰ってきたってさっきLINE来てたよ」

涙の理由に心当たりのあるイツキが、ばつが悪そうに麦茶を飲みこむ。

「まぁすぐ出てくると思うからよろしくな。仕事でなんかあったらリオにでも言ってよ。歳が近い方が相談しやすいだろ」

地面で火を消すと幸雄は立ち上がり持ち場に戻った。午後の仕事の確認をしようと思いファイルを広げた瞬間ある疑問が浮かんだ。

「俺、リオの火傷が手だって言ったっけな…」

片多と話していた時、確かにイツキは近くにいたが幸雄はただ「火傷」としか言っていなかったはずだ。

しかし、自分が忘れているだけで手を火傷したと言っていたかもしれない。歳のせいで最近物忘れも多々ある。

「気のせいか」

特に気に留めず幸雄はファイルをめくった。


月末締めに追われる頃には、リオの手は痛みも赤みも引きすっかりよくなっていた。

少し色素沈着して茶色くなってる部分もあるが、そこも薬を塗り続けていれば肌のターンオーバーと共に時期に消える、と皮膚科医に言われている。

パソコンを睨みながら電卓を叩き、必死に勤務時間の計算をした。

あれからイツキと顔を合わせるのが気まずく、工場出勤の日はなるべく自分の仕事に没頭していた。幸い事務作業が忙しい月末。やるべきことはたくさんある。

昼休憩の際も、麦茶を置いては逃げるように戻る、を繰り返していた。

何故あの時「好きです」なんて伝えてしまったのか。自分でもいまだに分からない。

心配そうに、でもどこか面倒臭そうに自分の手当てをしてくれるイツキを見て、好きと言う感情が突然溢れてしまったのだ。

明日は定休日で、コーヒーショップのシフトも入れていない。

気分転換に久し振りに映画でも観ようと決め、再び電卓を叩いた。


今日はまた幸雄が蕎麦の出前を頼んだ。温かい蕎麦と天ぷらが人数分届く。

あれからリオは茄子の天ぷらを別で注文するのをやめている。いつどこで見られているか分からないからだ。

「茄子天いいのか?」

と不思議そうに聞く幸雄には「ダイエット中だから」と適当な嘘をついて誤魔化した。

昼休憩になり、イツキは相変わらずすぐに姿を消す。気が重いが仕方なく外に出ると、少し離れたところから声をかけた。

「今日またお父さんがお蕎麦頼みました。離れにあるので食べに来てください」

伝えるだけ伝え、踵を返し離れに戻ろうとした時だ。

「ねぇ」

後ろから、相変わらず怠そうなイツキの声がし、足を止め振り向いた。

「明日何してんの」

「え?明日ですか?明日は…1日休みなので家で映画を観ようと思ってます」

「どっか行く?」

「えっ!?」

全く想像していなかった言葉に驚き、思わず大きな声が出てしまい、慌てて口を手で塞ぐ。

「一緒に出掛けるってことですか?」

「嫌ならいいけど」

イツキが吐き出した煙が長く揺蕩い、冷たい空気に消える。

上着を着ずに出てきたが、不思議と寒さは感じていなかった。

「嫌じゃないです。行きます行かせてください」

妙に前のめりな返事にイツキは少し笑う。

「12時にここに迎えくるから」

そう言ってリオの横を通り過ぎ、離れに向かっていった。

勝手に告白し、忘れてくださいと一方的に伝え、その上それからずっと逃げていたが、嫌われてはいないようでリオは少し安堵した。

あの時のイツキの驚いた瞳、そしてその後少し悲しそうに視線を落とした表情が心に引っかかり、リオは思い出す度、どうしても辛くなっていたのだった。

安心していたのも束の間、明日一体何を話せばいいか、初めてのイツキと2人だけの時間に耐えられるか、心配になった。

「やば…緊張してきた…」

冷たい風が頬を撫で身震いした。上着を着ていなかったことを思い出す。温かい蕎麦を食べて体を温めよう。

午後もやるべき仕事はたくさんあるが、果たしてちゃんと仕事モードに頭を切り替えられるだろうか。幾つもの不安を抱え、リオは離れに戻った。


翌朝、いつになく早起きをし洗面所で髪を整えるリオは、鏡越しにニヤリと笑っている育美と目が合った。

「デートでしょ」

「えっ?そんなんじゃないよ。友達と出かけるの」

「そんなに気合い入れて遊びに行く友達、あんたにいたっけ」

「ねぇ失礼なんだけど!」

ヘアアイロンのスイッチを切り、部屋に戻る。

後ろで「楽しんできてねー」と笑う育美の声が聞こえた。

昨晩入念なファッションチェックにより決まった洋服を身につけ、もう一度メイクを再確認。

恐らくイツキは自分の顔なんて凝視しないだろうと分かっているが、一応…だ。

「よしっ」

待ち合わせの10分前、小さく気合を入れて家を出る。

幸雄と育美はリビングで寛いでいた。これなら待ち合わせしている場面を見られる心配はないだろう。

自宅を出て工場を抜けると、一台の黒い車が止まっていた。まだ10分前だというのに車に寄りかかり、煙草を吸っているイツキが見える。

「おはようございます!お待たせしました!」

慌てて駆け寄ると、何も言わずに助手席のドアを開けるだけ開けてくれた。

太めのジーンズに黒いパーカー。髪型も、いつも通り掻き上げただけの無造作なスタイル。シルエット的には普段と何も変わらないが、片方の耳にピアスが光っていた。

「お邪魔します」と助手席に乗り込むと、少し遅れてイツキが乗り込み、ダッシュボードに置いてあった眼鏡をかけた。

「視力悪いんですか?」

「運転するときだけね。昼食った?」

眼鏡姿の横顔に見惚れる隙は全くくれないようだ。

「あ、まだです。田島さんは?」

「俺もまだ。何食いたい?」

「うーん…パンとか?」

「パン"とか“って何?パンでいいのね」

呆れたように笑われ、急いでリオは駐車場のあるパン屋を携帯で検索した。

イツキの運転はとても心地よかった。車の運転は性格が出ると言うが、見た目の鋭さとは違いきっと優しい性格なのだろう、と助手席でリオは思う。

初めて行くパン屋だったが、駐車場も広くテラス席もあり可愛らしい店だ。

スムーズに駐車をし、さっさと店内に入っていくイツキを追いかける。

イツキがトレイとトングを持ち「どれ?」と言った。

王道のパンから変わり種の惣菜パンなどがあり目移りする。自分で具材をカスタム出来るコッペパンもあった。

「えっと…えっと…」

綺麗に陳列されているパンをきょろきょろと見るリオをよそに、イツキは塩パンとカレーパンをトレイに取る。

「決まった?」

振り向き、問いかける声が優しい。

リオはクリームの入ったメロンパンとチーズの練り込まれたパンを「これと、これ」と指差した。

4つのパンが乗ったトレイをレジへ持って行き、一緒にホットのカフェラテも注文した。イツキが財布を出すタイミングでリオも財布を出したが、手で払い除けられる。

「ありがとうございます」

そう言って、せめてもの気遣いで会計が済んだパンが乗ったトレイを持ち、席へと向かった。

昼時だったが平日だからか空席が目立っている。

「いただきます」

手を合わせ、メロンパンに齧り付く。中にメロン風味のクリームが入っていて、非常に美味しかった。口いっぱいに広がる甘さを堪能しながら、イツキを見ると、特に表情も変えずカレーパンを頬張っていた。

「イツキくん」

咀嚼が一瞬止まり、目だけでリオを見た。

「…って呼んでいいですか」

「勝手にすれば」

なんとなく想像ができていた返しにリオは笑い、ホットコーヒーを飲んだ。甘くなっていた口に、程よい苦味が広がる。

「てか敬語もやめたら?そっちのが年上でしょ」

「年上なの気付いてました?」

「前に幸雄さんが言ってたから」

「仕事のときは敬語の方がいいかな、と思って」

ふーん、と興味なさそうに頷く。

リオが次のチーズパンに手を伸ばした頃には、もうイツキの皿は空になっていた。

「お腹いっぱいになりました?」

「なったよ」

「イツキくんって少食?」

「少食っていうかあんま食に興味がない」

「ですよね…」

だったら何に興味があるのだろうか疑問が浮かんだが、聞くことはできなかった。

ーー大切なものを作らないようにしてるんだ。

あの時のイツキの顔が思い浮かぶから。

きっと聞いても「ない」と言われるのも目に見えている。

「こっからどこ行く?」

「えっ?あぁ、どうしましょう…」

気の抜けた返事をするリオに、呆れたようにイツキは笑う。

「じゃ適当に走るから思いついたら言って」

「はい」

残りのコーヒーを一気に流し込み店を出た。

再び運転する車に乗り込み、イツキはあてもなく走り始めた。免許もなく、道路にも詳しくないリオは一体今どこを走ってるのか分からなかったが、高速道路だということはうっすら分かる。

昨晩はイツキとどんな話をしようか、会話が途切れたらどうしようか不安だったが、いざ車に乗って2人きりになると、不思議と気まずい雰囲気にはならなかった。

車が走る音でかき消されない程度の音量で音楽が聞こえ、窓を駆け抜けていく景色と合っている。

「あ、行きたいとこ思い出した」

高速道路の景色を眺めていて、リオはひとつ思い出した。

「どこ?」

「サービスエリア!」

「どこの?」

「え?どこでもいいんですけど、面白そうなところ」

リオの無茶な振りに、少し頭を悩ませたがイツキはすぐに到着地点を頭の中で設定したようだった。

そこから30分ほど車内で過ごした。何となく頭に浮かんだことをリオは呟き、それに対してイツキが興味なさそうな相槌を打つ、という会話が何ターンかあった。

「煙草、吸いたくなる頃ですよね?」

「着いたら行ってくる」

「はーい」

眼鏡をかけている横顔を見て、リオは満足したように笑う。

真っ直ぐ走り続けていた車が少し斜めに入り、サービスエリアに到着したのだと気付く。広い駐車場の空いているスペースに駐車し外へ出た。冬の澄んだ空気が美味しく感じる。

「吸ってくるから、適当に見てて」

イツキが煙草を持って喫煙所に向かった。ショッピングモールのようなサービスエリアにリオは心躍らせ土産物のコーナーを見て歩いた。

屋台から漂う香ばしい香りが鼻をくすぐる。焼き鳥やたこ焼きが次々に誘惑をしてくる。

「なんか食う?」

いつの間にか戻ってきたイツキに後ろから声をかけられた。

「あのチーズ入ってるやつ買おうかな。イツキくんは?さっき奢ってもらったからここは私が出します」

軽く頷くイツキを見てリオは2本チーズハットクを購入した。「はい」と渡し、2人で齧り付く。よく伸びるチーズに怪訝な顔をしながら食べるイツキが妙に面白く、リオは嬉しそうに笑う。

今この瞬間、イツキが時折見せるあの寂しげな表情は見えなかった。それがとても嬉しかったのだ。出来ればいつもこうやって、思いっきり感情を出すわけではないが、少し楽しそうにしてほしい。美味しいものを食べると心が満たされるように、いつも心が温かくあってほしい。

しばらくサービスエリア内を探索し、冷えた体を温めるためにホットコーヒーを買った頃には日が暮れ始めていた。

「そろそろ帰る?」

本当はもっと一緒にいたかったが、リオは頷いた。

来た道を戻り、あっという間に見慣れた道に辿り着いた。渋滞しててほしかった…と内心思ったが、黙っておく。

自宅の近くに着き、待ち合わせと同じ場所で車が停車する。もうすっかり夜になっていた。

「今日はありがとうございました」

「お疲れ」

相変わらず淡白な返事だ。

2人っきりの空間から出たくなくて、わざとゆっくり身支度をした。

「また、明日」

明日また会えると言うのに、寂しさを感じながら車を出てドアを閉めた。ハンドルを握る指を少し上げて「じゃ」とサインを送るイツキに会釈し、背中を向けて自宅に戻る。

後ろで車がゆっくり発車する音が聞こえた。


デートと呼べるかはわからないが、一度二人で出掛けた仲だというのにイツキの態度は初めて会った時と何も変化はしなかった。

仕事中は、他の従業員に話しかけられれば答える、程度。表情も特に変わらない。時々綻んだ表情が見れればラッキー、だった。

幸い幸雄の工場には、本質を見極められる従業員が多い。いくら無愛想でも皆イツキが悪い人間ではない…むしろ仕事もでき、周りが見えていて助け合えるいい奴、と高評価だった。だからリアクションが薄くても皆イツキによく喋りかけている。

「田島くんの溶接は本当丁寧だなぁ。目痛くならないか?」

「田島くん、うちの奥さんが作ったクッキー置いとくから食べてね!」

「田島くん、細いけどちゃんと食べてるか?無理しすぎるなよ」

この全てにイツキは会釈ひとつで済ます。

距離を縮めたくないのだろう、とリオは思っていた。触れてはいけない何かが、イツキをそうさせるのだろう。


冷たい雨が降っている。工場内は機械の熱で熱気を保っているが、一歩外に出るだけで肩がすくむくらい寒かった。

急須で淹れた温かい緑茶を持って外に出る。雨水が湯呑みに入らないよう、屋根の下を渡りながらイツキの元へ向かった。

「お疲れ様」

雨も降りこんなにも冷え込んでると言うのに、イツキは作業着の袖を捲っている。

「寒くない?」

「さっきまで火使ってたから丁度いい」

「そんなイツキくんに熱々の緑茶をどうぞ」

「一服して寒くなってきたから丁度いい」

2人して小さく笑った。自分に対しては少し柔らかくなった気がする。その考えが自意識過剰ではないことをリオは願う。

「今度の休みいつ?」

イツキが煙を吐きながら訪ね、雨粒の中を煙が縫うように逃げていく。

「次の定休日」

リオは心の中でガッツポーズをしながらも、平然を装った声で答えた。

イツキには言えないが、いつ誘われても大丈夫なように工場の定休日にはコーヒーショップのシフトを絶対に入れないようにしている。

しかし、期待外れの休日を何度も過ごした。youtubeを見ながらビールとポテトチップスを嗜んでいたら1日が終わった日もあったし、幸雄と一緒にホラー映画を叫びながら観た日もあった。

「どっか行く?」

待ち侘びていた言葉にリオの笑顔が弾ける。

「うん!あ、私ねイツキくんと行きたいお店あるんだ」

「どこ?」

「焼き鳥屋さん。焼き鳥好き?」

「好き」

「お酒飲める?」

「飲めるよ」

「じゃあ絶対気に入ってくれると思う!」

キラキラとした表情で話を進めるリオを、イツキは目を細め笑いながら眺めた。

「じゃあ17時くらいでいい?」

「うん、駅前の店だからオブジェの前ね」

イツキが煙草を胸ポケットに入れ、空になった湯呑みを持ちその場を立つ。まだ降り止まない雨が屋根に溜まり、ポタポタと一気にイツキの肩を濡らした。薄暗い色の作業着を黒く染め、掻き上げた前髪に雫となって付いた。

「待ってイツキくん」

リオはポケットからハンカチを出すと、濡れたイツキの肩と前髪を軽く拭う。

驚いたように目を丸くするイツキに、リオは不思議そうに首を傾げた。

「どうしたの?」

「いや…」

「あ、湯呑み下げとくよ」

「あぁ」

気の抜けた返事をするイツキを残し、リオは離れに戻る。

全員分揃った湯呑みをトレイに乗せ、自宅のキッチンで鼻歌混じりで洗っていると、幸雄が「これもよろしく」と空の弁当箱をシンクに置いた。

「おっけー」

「お、何だ?何かいいことあったのか?」

あからさまに機嫌のいいリオに「不気味だな」と幸雄は驚く。

「何でもないよーん」

誤魔化せていないことは分かっていたが特に気にせず、幸雄の弁当箱をスポンジで擦った。


その日も生憎の天気の中、傘を差しリオは駅前へ向かった。傘でカバーしきれなかった雨が肩を濡らし、MA-1を雨粒が滑り落ちるが、レインブーツはきゅっきゅっと軽快な音を立てている。

駅にある謎の形のオブジェは地元では定番の待ち合わせスポットになっている。雨のせいか人気は少ないが、ちらほらといる人の中遠くからでもイツキはすぐに見つけられた。

「また先越されちゃった」

「暇だったから」

片手でビニール傘を持ち、片手をダウンジャケットのポケットに突っ込んでいる。どのくらい待たせてしまったのだろうか。

「ごめん、寒かったよね。行こうか!」

リオが先頭を歩き、駅前の商店街の小道に入る。

狭い通りだが小料理店や小さな居酒屋が密集していて、至る所から食欲を誘う香りが漂ってきた。

「ここ」

通りの一番奥に提灯がかかっている店がある。リオがイツキを連れてきたかった店だ。

「こんばんはー」

ガラガラと昔ながらの横開きのドアを開けると、中から威勢のいい声で「いらっしゃい」と聞こえた。外の寒さを忘れるくらい、店内は焼き場の熱気で溢れ一気に体が温まった。

「リオちゃん、奥のテーブル空いてるよ!」

「ありがとうございます」

通された2人掛けのテーブル席に座る。

「激渋だね」

イツキが店内を見渡しながら呟いた。

「でしょ。お父さんとか片多さんとかとよく来るんだ。焼き鳥すっごく美味しいんだよ。イツキくんこういう店来る?」

「俺も小洒落た店よりこういう店の方が好きだよ」

「そっか、良かった」

頼んだ生ビールが運ばれてきて「乾杯」とグラスを軽くぶつけた。

「イツキくんお酒は結構飲む?」

「たまにね。そっちは?」

「私は毎日飲んでるよ。お父さんの晩酌に付き合ってるって感じ」

リオが店長にお任せで頼んだ焼き鳥の盛り合わせが運ばれてきた。炭火で焼かれた香ばしい匂いが鼻口をくすぐる。

「幸雄さんと仲良いよね」

2本ずつ丁寧に並べられた5種類の串の中から鶏皮を選び、口に運びながらイツキが話す。

「仲良いのかな。まぁ仕事でも家でも一緒だからね。この間なんて一緒にきゃーきゃー言いながらホラー映画見ちゃった」

リオもイツキに釣られて鶏皮を選んだ。口に残る油っぽさをビールで流し込むのが最高に美味い。

「イツキくんは?家族と仲良いの?」

「俺んとこはぐちゃぐちゃだから」

次の串を取ろうと思った手が止まった。強く言われたわけではない。声のトーンも特にいつもと変わらない。だけど何となく、これ以上は聞かないほうがいいだろう、とリオの中のセンサーが発動した。

「そっか。まぁ家族の形は家族の数だけあるからね」

少し残ったビールを喉の奥へ流し込むと、次の串に手を伸ばした。


盛り合わせを一通り食べたあとは、気に入ったものをそれぞれまた追加し、リオのおすすめのレバーや、卵黄につけて食べる鶏つくねも2本ずつ頼んだ。

「イツキくん、意外とよく食べれるんだね」

「まぁそこそこには食うよ」

あとここの焼き鳥が美味い。と店を褒められ、リオは自分が作って出しているわけでもないのに鼻高々だった。

いつの間にか無口なイツキとの会話に気まずさは感じなくなっていた。時々自分が一方的に喋っている時間もあるが、それでもイツキは相槌を打ったり笑ったりはしてくれる。

たまにだがイツキから話を振ってくれるタイミングもあり、そんなときリオはすごく幸せを感じた。

「どう?お腹いっぱいになった?」

皿が全て空になり、ビールジョッキもお互い空いた。

「なったよ」

「良かった!私もお腹いっぱい」

「しっかりラーメンまで食ってたもんな」

焼き鳥をたらふく食べたあとリオは〆に鶏出汁ラーメンを食べていた。ここの店に来ると必ず食べる一品で、イツキにも食べるか聞いたが「俺はいいや」と断られてしまった。

「ここにくると食べずにはいられないの…」

アルコールのせいか恥ずかしさのせいかリオの顔が赤くなる。以前もイツキに茄子の天ぷらについて詰められたことを思い出した。

イツキが笑いながらテーブルの淵に掛かっていた伝票を取り、レジへ向かった。

「あ、待って。ここは私が連れてきたかったお店だから私に払わせて」

リオが財布から札を出そうとするが、また手で払い除けられる。

「待って、せめて端数を…」

「いつも来てもらってるから端数はまけるよ」

小銭を探っていると、今度は店長が笑いながらリオを見た。

「また2人でおいで」

ニヤニヤと笑っている店主に、妙な気まずさを覚えながら2人で頭を下げ店を出る。

まだ降り続ける雨の中、傘を開いた。

「送ってくよ」

商店街を抜けたところで、先を歩いていたリオを追い越し、イツキが振り向きながら言った。

「え、でも、雨も降ってるし」

断るリオの声が聞こえているのか聞こえていないのか、イツキはさっさと先を歩く。置いていかれないように小走りでついていった。

傘を差しながら前を歩くイツキの片手が空いている。

リオが勢いで告白して以来、少しずつイツキと出掛けるようにはなったが、付き合うという流れになった訳ではない。

あの時「忘れて」と言ったのはリオだが、イツキの気持ちがどうなのかは、未だに分からないものだった。

車通りが少なく、歩道に余裕ができる道に入った。それまで前後に並んで歩いていたが、リオは少し歩みを早めイツキの隣に出ると、空いてる手に自分の手を重ね、繋いだ。

2人の歩みが一瞬止まる。イツキは一瞬驚いた目をしたが、その後照れたように視線を伏せた。

「手、濡れるよ」

「大丈夫」

二つの傘の間から、二本の手がはみ出し歩き出す。

バイト帰り、両手をポケットに突っ込みマフラーをぐるぐると首に巻き、冷たい空気に極力肌が触れないよう必死に自宅を目指し帰る自分が嘘のようだ。

繋いだ手に雨が打ちつけ、2人の袖は濡れていると言うのに不思議と冷たさは感じない。このまま、あと1時間だって2時間だって歩き続けられそうな気がした。

「ここでいいよ」

自宅近くになり、リオが名残惜しそうに繋いでいた手を離した。

「今日はありがとう。今度は私に奢らせてね」

傘の下で小さく手を振り、イツキに背中を向け自宅に向かう。

「リオ」

初めてイツキの声がリオの名前を呼んだ。

驚きながら振り向くと、イツキは開いたままの傘を下ろしなから近付き、リオに口付けた。

あんなに傘を打ち付け煩かったはずの雨の音が消え、一瞬静寂に包まれる。

ゆっくり唇が離された。傘を下ろしたままのイツキに雨が降り注ぐ。

「濡れるよ」

リオは笑ってバッグからハンカチを取り出すと、濡れたイツキの前髪と肩を拭いた。

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