第2話 宮城は遠慮を知らなすぎる(2)
◇◇◇
放課後はあっという間にやってくる。
羽美奈たちと別れて、通い慣れた道を歩くと、遅くも早くもなく宮城の家に着く。
部屋に入って、ブラウスの上から二つ目のボタンを外す。
微妙な空気は相変わらずだけれど、慣れてきた。
五千円札を受け取ってベッドを背にして座ると、宮城が麦茶とサイダーが入ったグラスを持ってきてテーブルの上に置く。そして、少し迷ってから私の隣に座った。これまでと比べると少し距離があるけれど、夏休みが終わってから初めて埋まった片側にほっとする。
なにもかも元通りとはいかないが、元通りに近づいてきている。上手くいかないこともあるけれど、それは仕方がない。形だけでも夏休み前と同じようにしていれば、そのうち気持ちもそれに従うはずだ。
宮城がなにも言わずに教科書とプリントをテーブルの上に広げる。やる気があるのかないのかはわからないけれど、大人しくプリントを埋めていく。
私も教科書とノートを開いて、宿題を始める。
昨日、宮城に言った「私と同じ大学受けなよ」という言葉は無責任な言葉だ。行けるわけがないという宮城にそんなことはないと告げたが、今のままでは難しいと思う。
夏休みに入ってから、二人で勉強をした。
宮城が私に「わからないから教えて」という回数は確実に減っている。それでも合格ラインに届くとは思えない。
ただ、今からでも真面目にやれば受かるかもしれない。それには本人のやる気が必要で、私は宮城が同じ大学へ行くと言うなら勉強を教えるつもりはある。けれど、強制はできない。
同じ大学に行ったからといって、なにかあるわけではない。
宮城との終わりの日は決まっていて、私もそれに同意している。
なんとなく同じ大学に宮城がいれば楽しそうだと思っただけだ。
「仙台さん」
宮城の声が聞こえて、私は顔を上げる。
「わかんないところあった?」
「そうじゃなくて。今日のあれ、なに」
やっぱりね。
宮城が二日連続で私を呼び出した理由。
それがなにかは予想していたが、なにもわからない振りをする。
「あれって?」
「廊下で手首、摑んできたじゃん」
「宮城の落とした物拾おうとしただけだけど」
「落とした物拾うだけなら、手首摑んだりする必要ないよね?」
「ちょっと手が当たっただけでしょ、あんなの」
「あれ、当たっただけって言わないと思う」
面倒だ。
口にしたくないことを追及されても困る。
それに、本当のことを言ったら宮城だって困るはずだ。
宮城を友だちに返したくなかったなんて思ったことは、お互いのために黙っておくほうがいい。
「……なんて答えさせたいの? 宮城が言ってほしいこと言ってあげるから、言いなよ」
私は平和的解決に向けた提案をする。
口にしてほしい言葉があるなら、それを言って終わりにしたいと思う。この話を長引かせてもお互いが満足する結果にはならないのだから、適当でもなんでも早く終わらせたほうがいい。けれど、宮城がこんな答えで満足しないことも知っている。
「そういうことしてほしいんじゃない」
「じゃあ、なにしてほしいの」
「摑んだ理由教えてよ」
「宮城に触りたかったから、触っただけ」
摑んだ理由の一端を口にする。
「なにそれ。ちゃんと答えて」
「答えた」
「じゃあ、触りたかった理由ってなに?」
そういうことは聞かないほうがいい。そのほうが平和な時間を過ごせる。
「宮城さ、私が答えないってわかってて聞いてるよね?」
矢継ぎ早にされる質問を途切れさせるために尋ねるが、返事はない。私は仕方なく次の台詞を口にする。
「理由がなくても、触りたくなることくらいあるでしょ」
そう言って、宮城に手を伸ばす。
いつもよりは少し離れているけれど、隣にいる宮城にはすぐに手が届く。頰に触れて、手のひらを押しつける。宮城の顔が不機嫌そうに歪んだけれど、手は離さない。くっついた部分から流れ込んでくる体温が心地良くて、頰から手を滑らせて首筋に触れる。
今、私の宮城への感情は不純だと思う。
「理由もなく触りたくなったりなんてしない」
「そう言うなら宮城は、私に触るときってなにか理由があるんだよね?」
「それは―― 」
宮城が言葉に詰まる。そして、続きを口にするかわりに首筋に触れている私の手を剝いだ。
「仙台さん、わけわかんない。学校でもここでも、変なことばっかりする」
低い声で宮城が言って、視線を落とす。
「私もわけわかんないから。――宮城、早く今日の命令しなよ」
このまま何事もなくいられる自信がない。私は、宮城の前では理性を留めているネジが役に立たないことを知っている。
いつもと同じ形に整えてはいるけれど、私たちはまだ元の形に戻ることができていない。意識して整えた形は、ちょっとした刺激で簡単に崩れてしまう。
このままなにかが起こってしまうよりは、命令されたほうがいい。宮城は当たり障りのない命令しかしないはずだから、今よりはマシな状態になる。
「じゃあ、ピアス開けさせて」
宮城が視線を上げずに口にした〝ピアス〞という単語はあまりにも予想外のもので、思わず聞き返す。
「ピアス?」
「そう。仙台さんの耳にピアス開ける」
昨日、本を読めと言った宮城の耳を触った仕返しなのか、彼女が顔を上げて私の耳たぶを引っ張る。
「絶対に嫌だ」
宮城に向かって断言する。
ピアスのように後に残るものは困る。
宮城はすぐに跡をつけたがるし、実際に私に跡をつけてきた。今まではそれを許してきたけれど、それはその跡がすぐに消えるものだったからだ。
でも、ピアスは違う。
今までと同じように受け入れるわけにはいかない。
「なんで駄目なの?」
「校則違反だから」
遠慮するつもりのない手がふにふにと耳を触り続けていて、私は宮城の腕を摑む。そのまま強く引っ張ると耳たぶをつまんでいた指が素直に離れて、声が未練がましいものに変わる。
「仙台さん、スカート短いし、髪も染めてるし、もう違反してるじゃん」
「これくらいは許容範囲内でしょ」
「仙台さんって、いつもそうだよね」
「そうだよねって?」
「勝手にルール作って、それが当たり前みたいな顔する」
「いいじゃん、ルールくらい作ったって。スカートも髪も先生に怒られない程度にしてるし、怒られないってことは違反ってほどじゃないってことでしょ」
校則はそれほど厳密ではない。文字ではきっちりと決まっているが、その校則を運用する先生は文字ほどきっちりしていない。大体守っていれば怒られることはないし、校則を守っていると見なされる。私はその〝大体の範囲〞に収まるように行動するというルールを作って、それを守っているだけだ。
「そういうのずるい」
「ずるいと思うなら、宮城もやればいい。もう少しスカート短いほうが可愛いよ」
宮城の中途半端な丈のスカートを摑んで少しだけ引っ張ると、怒られない範囲の短さを作る前に手の甲を叩かれた。
「いい、この長さで。そんなことより、今度でいいからピアス開けさせてよ」
「他の命令にしなよ。そういうのルール違反だから」
きっぱりと言い切るが、宮城は諦めそうにない顔をしている。
一言で言えば、納得できない。
おそらく彼女は心の中でそう思っている。
「絶対に開けさせないからね」
ピアスを開けさせるという命令にこだわりがありそうな宮城に、念を押すように告げる。どれだけこだわられても返事は同じだ。大抵の命令は受け入れている私でも、受け入れられないものもある。
「ピアスのどこがルール違反なの?」
「体にずっと残るような傷を作るのはルール違反でしょ。暴力の類似行為。っていうか、どんなピアスつけさせようとしてるわけ? 見せてよ」
宮城の命令を受け入れるつもりはないが、彼女がどんなピアスを用意したのかは気になる。けれど、宮城はピアスを出してくることなく、さっきよりも小さな声で言った。
「まだ用意してないけど、開けていいなら買ってくる」
「買って来なくていいし、私の耳にピアス開ける理由もわかんない」
「……先生が怒るか実験したいだけ。仙台さんもたまには注意されたほうがいいと思う」
宮城が噓か本当かわからない理由をぼそぼそと口にするが、それはあまり面白いものではない。文句を言わずにはいられない理由だ。
「人で実験しようとしないでよ。もう少しマシな理由考えて」
「マシな理由があったらいいの?」
「よくない」
宮城の本音がどこにあるのかはわからないが、ピアスを開けさせろというのは重すぎる命令だと思う。
この先、違う大学に行って、宮城と会うことがなくなってもずっと体に残り続けるようなものはいらない。二人で過ごした時間を私だけ体に刻まれるなんて御免だ。
「じゃあ、ちょっと動かないで」
宮城が嫌な予感しかしない言葉を口にする。
「なにするつもり?」
返事はない。
代わりに手が伸びてくる。
けれど、その手は耳に触れることなく、肩の上に着地する。
宮城が私に痕跡を残したがるのは意図的なことなのか。
目の前にいるのに、彼女がなにを考えているのかよくわからない。この部屋に来たばかりの頃よりも会話の量は増えてはいるけれど、ただ増えただけで、私は宮城という人間を理解できていない。彼女の本心は隠されている。今日もそうだ。用意しているわけでもないピアスをつけさせたいと思う気持ちが、衝動的なものなのか、それともやっと言いだせたものなのか私には判断がつかない。
上辺だけの会話で、お互いの気持ちを近づけることは酷く難しいことに思える。けれど、体の距離をゼロにするのは簡単で、宮城が私の耳に唇をつけた。
黒い髪からシャンプーの柔らかな香りがする。
過去に何度も私に触れている唇は、すんなりと体に馴染む。誰よりも近くに宮城がいることが当たり前のことのように思えてくるけれど、それを受け入れるべきではないと思う理性は残っていた。
「ちょっと、宮城」
肩を押す。
触れ合っている部分から熱が離れて、耳元で声が聞こえる。
「仙台さんピアス開けさせてくれないから、これが代わり」
近すぎる声に宮城の肩を押す手がびくりと震える。
吐き出す息が耳を撫でるようで、くすぐったい。
「大人しくしててよ。傷になるようなことじゃないし、簡単な命令でしょ」
スナック菓子のように軽い声が聞こえて、湿ったものが耳を撫でた。
すぐにそれが舌だとわかる。
ぴたりと押しつけられるそれは生温かく、動くとぞわりとして落ち着かない気分になる。でも、こんなことは過去にもあった。理性に従わなければと思う反面、これくらいの命令は断るほどのものではないと納得しようとしている自分がいる。
二つの選択肢の間で感情がふらふらする。
生温かい舌先に理性が惰性に負け、命令通り大人しくしていると、耳たぶに硬い物が当たる。
たぶん、それは歯で、こういうときはろくな事が起こらない。
「宮城、はなれて」
過去の経験が宮城の肩を押させる。
手に力は込めたが、宮城は動かない。
歯が耳たぶを挟み、強く噛んでくる。
「それ、痛い」
言葉とともに肩を叩くと、耳たぶに歯が刺さる。
ギリギリと力一杯噛まれる。
今日という日が記憶に刻まれるほど痛い。
いや、痛いというよりは熱い。
吹きかかる息も、シャンプーの匂いもわからなくなる。
「痛いってばっ」
バンッと宮城の体を叩くと、ビクッと彼女の体が震えた。
簡単に近づいた距離は簡単に離れる。
「宮城、本気で噛みすぎ。こんなのピアス開けるより酷いじゃん。穴どころか、耳がちぎれるでしょ」
ピアスを開けたことはないが、きっとこんなには痛くないはずだ。宮城はそれくらいの力で私の耳に歯を立てていた。彼女のこの衝動がどこからくるのか私にはわからない。
「そんなに噛んでない」
「噛んでる。ほんと、宮城って馬鹿じゃないの。傷になってるでしょ、こんなの」
耳たぶを触って指先を見る。
血はついていない。
でも、信じられない。
どこからか血が出ているような気がしてテーブルの下に置かれているティッシュを取ろうとすると、ワニのカバーが付いたそれが消える。
「ちょっと、宮城。ティッシュ使いたいし、持ってかないでよ」
私は、ワニを抱えた宮城に文句をぶつける。
「傷になってないから」
彼女は言い訳のように言うと、ティッシュの箱をテーブルの上へ置いた。
命令に従わなかった私の態度が気に入らない。
ワニを奪ったのはそういうことだろうと思う。
衝動的で意味不明な行動。
それは宮城が私によくすることだ。
ただ、彼女は変わった。
こういうとき、昔は私が嫌がることをして面白がっているようにしか見えなかったが、今は違う。楽しさの欠片も感じられない顔をしている。もう少し正確に言うならば、どことなく不安そうに見える。
自分から酷いことをしておいて勝手すぎる。
自業自得だし、私が譲歩する必要はない。
「そういう顔しても駄目だから」
私はテーブルの上に鎮座するワニの背中からティッシュを取って、耳を拭う。
薄っぺらい紙は白いままで、血はついていない。
「いつもと変わらないと思うけど」
宮城がいつもとは少し違う顔で言ってワニを奪おうとするから、その手を叩く。
「変わらないかどうか、鏡見れば」
「見ない」
宮城の表情が曇る。その顔は置き去りにされた子猫のように心細そうに見えて、私のほうがなにか悪いことをしたような気分になってくる。
「――痛いのはなしだからね」
宮城の行為を許容するような言葉が零れ出る。
今の私たちはこういう行為をするべきではないけれど、少しくらいならいい。
そんな風に思いかけているのは、私の意思ではなく宮城のせいだ。全部、宮城が頼りない顔をしているのが悪い。
「いいの?」
「命令でしょ」
宮城のブラウスを引っ張って、命令に従う意思を伝える。
そう、命令だから仕方がない。
ルールの範囲内であれば、私に拒否する権利はないのだ。だから、宮城を受け入れるしかない。
「じゃあ、大人しくしてて」
さっき聞いた言葉がもう一度聞こえ、体温が近づく。
躊躇うように生温かいものが耳に触れ、噛まれた後に残る痛みを舐め取るように這う。歯が触れた部分以上に舌先が押しつけられていく。離れては触れるそれに嫌悪感はない。
歯が耳たぶに当たる。
痛みが蘇って思わず宮城の腕を摑む。
けれど、強く噛まれることはなく、今度は柔らかく噛まれた。どれくらいの強さなら許されるのか試すように、硬い物が耳を挟む。痛みを与えないことに心を砕いているとわかる歯が、緩く優しく触れる。与えられる刺激は小さなもののはずなのに、そこばかりに気持ちがいく。耳に神経が集まっていることがわかって、落ち着かない。
宮城の呼吸を耳元に感じる。
息を吐く音が近すぎて、胸がざわざわする。
そのくせ、宮城が手の届く範囲にいると安心する。
でも、やり過ぎだ。
与えられる刺激は、今の私たちに相応しくないものだ。
宮城は極端すぎる。
痛くなければなんでもいいわけではなく、私は彼女の額を押して体から遠ざける。
「ちょっと、宮城。痛くないけど、ヤバいから」
「それって――」
宮城が言いかけてやめる。そして、珍しく素直に「ごめん」と謝った。
私は小さく息を吸ってゆっくりと吐いてから、ワニを二人の間に置く。背中からティッシュを引き出して、宮城の痕跡を消すように耳を拭う。
「仙台さんって、今みたいなときどんな感じなの?」
宮城がワニの頭を撫でながら、なんでもないことのように聞いてくる。
言いかけた言葉を飲み込んだくせにその意味をなくすような台詞を口にするから、ため息が出そうになる。
「自分で体験してみれば?」
無責任な宮城の耳に手を伸ばす。けれど、大げさなくらい体を引かれて、伸ばした手が耳に触れることはなかった。
「冗談だから」
私は軽く言って、宮城に笑ってみせる。
ただでさえ近い距離をこれ以上縮めても気まずくなるだけだ。
口から出てしまった余計な言葉は、冗談にくるんで捨ててしまえばいい。
そう思っているのに、宮城がやけに真剣な声で言った。
「―― ピアス開けさせてくれるなら、いいよ」
いいよ、というのは宮城に同じことをしてもいいということで、思わず彼女をじっと見る。
耳に穴を開けるという犠牲を払えば、私が今されたことと同じことができる。
それは酷く魅力的な言葉に聞こえて、一瞬迷う。そして、迷った自分に嫌気がさす。
「馬鹿じゃないの。そんなことより、羽美奈が私と宮城が一緒にいるところ見たって」
危うい会話を打ち切って話を変えると、宮城の意識が羽美奈という単語に向かった。
「えっ、それっていつ?」
「映画を観に行った日。羽美奈もあそこにいたみたい。偶然会ったって言っといたけど」
「信じてた?」
「たぶん。まあ、私は信じてなくてもかまわないけど」
「私だって仙台さんと出かけることなんてもうないし、関係ない」
宮城が冷たく言って、ワニの頭を叩く。
私は不機嫌そうな彼女を見ながら、ベッドに寄りかかった。
「ほんとはまた出かけたいと思ってるでしょ」
わざとらしく言うと、即座に答えが返ってくる。
「仙台さんと出かけることはもうないから」
こういうとき、宮城は引っ張ったゴムが元に戻るときのようにさっと引く。あまりに潔く引くから怖くなる。誰にでもそうなのか、私にだけそうなのかわからないから、そ
れ以上なにも言えなくなる。近づきたくなったら人の気持ちなんてお構いなしに近づいてきて、気がすんだら私を遠ざけるのは酷いと思う。
「二人で行くところもないしね」
言いたいことはこんなことではないけれど、他に言葉は見つからない。私はため息を一つついてから、宮城にワニを投げつけた。
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試し読みは以上です。
続きは2023年12月20日(水)発売
『週に一度クラスメイトを買う話 3 ~ふたりの時間、言い訳の五千円~』
でお楽しみください!
※本ページ内の文章は制作中のものです。実際の商品と一部異なる場合があります。
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週に一度クラスメイトを買う話 ~ふたりの時間、言い訳の五千円~【増量試し読み】 羽田宇佐/ファンタジア文庫 @fantasia
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