本命童貞のスパイ盟主は、光の溺愛男に進化する
保志見祐花
じゃあ、説明するよ
1-1 ああ、煩い
季節は七月。
ノースブルク諸侯同盟・オリオン領西の端。ウエストエッジという街の片隅で、今。まさに一人の女性が、スパイの毒牙に罹ろうとしていた。
「……よくさあ。”名は体を表す”っていうけど、あれ、幻想に近いと思うんだよね〜。親が願ったように子が育つのであれば、苦労はない」
愚痴っぽく語るこの女性。
名はミリア・リリ・マキシマム。24歳。着付師だ。
店の軒先でガタついたテーブルでやさぐれ気味に肉のない串を放るミリアに、よそ行きの笑顔を返す男が一人。
「…………そうかな? 俺は君によく似合ってると思うよ」
「そうかなー? わたし、別に人を許したいとか思わないよ? 恨み持ったら一生許さないし、一生苦しみながら死に絶えて欲しいと思っている~」
「……はは、恐ろしいな」
「綺麗に生きたいとか思わないもん。綺麗事じゃないのよ〜、世の中~」
「────フッ! 随分正直なんだな? 気に入った」
「あらま。それはどーも♡ ありがとうざんす〜♪」
やさぐれミリアに、
今の名を『エリック・マーティン』。
本名『エルヴィス・ディン・オリオン』。
このオリオン領の主であり、スパイとモデルの仕事も抱える副業盟主だ。
つまりこいつが、毒牙をかけようとしている張本人である。
母親譲りの彫刻美麗フェイスを武器に。
絶対的な自信と『女など容易い』の思惑を底に。
エリックはその緩い癖毛を耳にかけ、藍よりも深い瞳に
「…………なあ、ミリア」
「おっと。いきなり呼び捨てですか。なんでしょう? おにーさん」
甘い甘い声で絡めとる。
安飯屋の軒先、香ばしいスモークすらも材料にして。
「…………実は、さっき君の職場に顔を出したんだ」
「ビスティーに? なんで?」
「…………君と、話したくて」
「わたし?」
「────そう。君と」
出すのは興味。
君が気になるという空気。
それを出された瞬間、女は皆そわそわと浮足立つと、彼は知っていた。
じぃっと返る彼女の瞳に、もう一押し。
「……君に惹かれたんだ。もっと君の話を聞きたい。なあ、どうだろう? 一緒に食事でも行かないか?」
「…………しょくじ。」
「──そう。君と、二人で。ゆっくりと」
「……いまたべてる……」
「………………」
ポリッ……
こっくん。
ざわざわざわ……
完全硬直である。
ちょっと脳が追い付かない。
しかしミリアはもう一度、
「いま、たべている。………え。どうしよ。もうお腹いっぱいなんだけど、あ、まって? 吐き出してきたらいい?」
「ちょ。ちょっと待って」
「ううううん、ごめん~。おにーさんは二軒目行けるかもしれないけど、わたしはもう入らないっすね……」
「……いや。まって」
「っていうか駄目だ! 今おひるで中抜けで!」
「……えーと、待ってください」
先ほどまでの色気をどこへやら。
思わず待ったの手を出し、メンタルを立て直そうとする
──さて、一体どうして
彼の狙いは何なのか。
彼女は何故声をかけられたのか。
それは、ほんの少し前。
彼らの出会いまで遡る。
※
彼は、息をついた。
……またか、と言わんばかりに目を伏せ、肺の奥から。
────『ならない!』
耳に届いた女の声。
目を向けた先、揉めている男と女。
どっかりと腰掛けていたそこから、わずかに背を浮かせ、手の内で新聞を折り畳む。
『他へお回りください!』
石畳の上、足を組み もう一度。
『……行かないって言ってるでしょ!』
届く声に投げる視線は、冷ややかなもの。
白い壁も眩しい家々の前、色とりどりの服や果実が花を添える、賑やかな通り沿い。彼・エリックは思った。『ああ、収まる気配がないな』と。
そして彼は立ち上がる。
ぎゅっと踏みしめたブーツで石畳を鳴らして、こつ、こつ、こつと、ゆっくりと。
★
彼女は困っていた。
吹き抜ける風も気持ちよく、夏の訪れを感じさせる、よく晴れたある日の午後。
先週よりやや強く降り注ぐ日の光。商店が立ち並ぶ通り沿い、赤茶けた屋根が青空に映える。
ノースブルク諸侯同盟・オリオン領西の端。
ウエストエッジの一画で、過ぎゆく雑踏のちらちらとした視線を受けまくる女性がひとり。彼女の名前は『ミリア・リリ・マキシマム』。この物語の女主人公だ。
女主人公のミリアだが、彼女はピンチだった。
「いいだろ? その荷物もってやるって!」
「い、いやあ。大丈夫です~、ありがと~」
さっきからこの繰り返し。足を止めてしまったのが運の尽き。
彼女の足元、ペタンコ靴のかかとがコツンと音を立てて、背中に感じるのは壁の硬さだ。町娘仕様のふんわりスカートが、壁で潰れカスれた音を立てる。
ピンチだ。ピンチである。
覆うように覗き込むナンパに向かって渾身の引き笑い。軽くあしらえるかと思っていただけに、想定外もいいところだ。
(……困った……!)
胸の内で呟きながら、胸元まで伸びた深く濃いブラウンの髪を巻き込み、両腕で抱えた紙袋をぎゅっと掴んで、目線を投げた。
そのはちみつ色の瞳で見つめるのは、男の向こう側。通りを歩く見知らぬ人々。
覆われるように追い詰められているとはいえ、全く見えないわけではない。誰かが助けてくれるかもしれない。
─────しかし。
ちらり、ちらり、ひそひそ、……ふっ……
皆、目は寄越すが──……素早く反らして足早に過ぎていく。
(…………せ、世間って冷たい…………)
『厄介ごとはごめんだ』と言わんばかりに去りゆく民衆に、ささやかな悲しみをこぼすミリア。
傍から見れば乙女の危機なのだが、こんな時に助けに入ってくれる英傑~など、所詮は夢の世界の話だ。
(……どーしよこれ……)
そんな状況に、ミリアは苦々しく呟いた。ウエストを締めている幅広のコルセットベルトに関係なく、胃がぎゅうっと縮む思いだ。
なんとか逃げる算段を立てるが、もう壁際に追いやられているし、ナンパ男の腕は思いっきり壁をドンしているし。顔は近いし、腕は太いし、なんか臭いし、どう考えても逃げられる状況ではない。
この間にも、ナンパな男は今も自分を囲みながら「ちょっとだけ」だとか「いいだろほら」とか、御託を並べている。
──それが、逆効果だということに気づかずに。
「…………」
ミリアはすぅっと目を伏せた。
────選ぶしかないのかもしれない。
ここで男に食われるか。
それとも────抗うか。
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