第1話

 春にはサクラが咲き乱れ、夏にはセミが泣き喚く。秋には色鮮やかにおめかししていた山々が、冬には寒そうに白い服を着ている。これはそんな国の物語。

 春を告げる鳥の声が響きわたる、今日も平穏そのもののリーホック村で、一人奔走する孤児。彼女こそ、この物語の主人公であり、この村で唯一の異質と言える存在だろう。彼女は今日の夕食にありつくため、山菜をカゴに放り投げている。そんな顔の左半分を包帯で隠している彼女、クレイス・サイノーティスに近づく不穏な三つの影がある。


「うわぁ!! ちょっ、ちょっ!!」

 何かが唸る声に、恐る恐る後ろを振り向いた私は、山菜を入れたカゴに気にかける余裕もなく、叫びながら目の前の茂みに飛び込む。

『なぁにやってるの。ほんと鈍臭いんだからぁ…』

 茂みから飛び出してきた私に、花を眺めていたレイは呆れ顔。

 何やってるのって言われてもね? 私は何もしてないよ! あっちが突然襲って来たの!!

 私は一心不乱に山を駆け降りる。私にどうしろと!? このまま村に駆け込むこともできないのに…! 苦悩する私の横に並ぶように、レイがスーッと飛んできたかと思うと、何かを思いついたのかパッと顔を輝かせる。

『ねえ? レイがもらっていい?』

 そっか! いつも通り、レイに任せちゃえば…!

 そう。何を隠そう、目をキラキラさせて飛んでいる彼女は、人間じゃないんです。でも……。いや確かに、今私が頷いたら、いつもみたく一瞬で片付けてくれるんだろうけど……。

「ダメ! 私がやるっ」

 でもこれも、私が成長できるチャンスだよね。私の剣はかざりじゃないし。剣は実戦経験こそが成長に必要だって、レイが言ってたし。と、気持ちを奮い立たせた私は、山から駆け下りる足を止める。イノシシが三頭、大きめのが並んで突進してくる。物置に落ちてたボロい剣を携えて……いや待って、明らかに大きさがおかしいんだけど? え? 私の知ってるサイズの三倍……、四倍以上ない?! 私より大きいって、バグでしょ!!

「やっぱりムリ!!」

 また全速力で走り出す私に、レイは呆れ顔。

『えぇ〜? イクジナシ〜』

 だって、だって! あんなのに敵うわけないじゃん! 私みたいなひよっ子なんかさ! 三頭の……、私なんかより断然大きいイノシシが三頭もだよ!? が、私と睨めっこしながらこっちに近づいてくるんだよ!? 怖いったら! ……レイのわからずや!!

 ジト目で私を見てくる彼女。あることに気づいて目を輝かせる。

『じゃあもらっていいってことだよねっ!』

「どうぞ!!」

 うんよし。こうなったら人任せ。

 彼女は一つ、舌なめずりをすると……、

『なぁんだ。つまんないの』

 不満そうな声。追ってくる足音が止む。

「おっ、と、と、と…」

 駆けていた足を止めて振り返れば、口を尖らして三頭のイノシシの上をずん取っているレイがいた。

 やったぁ。思わぬ夕食ゲットぉ。

『もっと楽しませてくれるかと期待したのに』

 レイは手のひらでナイフを踊らせている。

 五、六歳くらいの見た目のレイの手は、私の半分くらい。そんな手に収まるナイフももちろん小さいわけで……。すごいよね。きっと急所を的確に刺してるんだ。私はそんな急所の場所なんてわかんないけど。もっと勉強しなきゃかぁ…。

「それにしてもこんなでっかいイノシシなんて初めて見たかも。なんでかな?」

 気を取り直して、イノシシを仰ぎ見る。三つ積み上げると余計圧倒的。

『え? クレイスまだこれがただのイノシシだと思ってるの?』

「え? 違うの?」

『【邪霞ジャカ】見えてるよね?』

 レイの怪訝な顔に、思わず顔の左に手をやる。ちゃんと、ついてる。

 右の目じゃ、レイの言う【邪霞】、黒い霧は見えないんだよ。左目だったら見えるけど……今、見えないようにしてるから、ねぇ?

「つまりこのイノシシは邪霞に汚染されてるってこと?」

『そうゆうこと。見ればわかるでしょ?』

 だからわかんないって。「邪霞に汚染」って言葉だってレイが言うのを聞いたことがあるだけで、どう言う状態のことか知らないし。まぁ言っても無駄だろうから言わないけど。

 ……さぁて、これ持ち帰れるかなぁ。家までは結構あるし、全部は食べきれないから売りたいし……と後退り。いやぁ、相当大きいよなぁ。だって、逆光でレイが真っく……っ!?

「うわぁ!?」

 足元に落ちていた何かが、私が踏んだ瞬間に転がって、私はマヌケにもバランスを崩して背中から倒れてしまう。

『いたそぉ』

 レイがクスクスと楽しそうに笑う。転んだ人を笑うなんて…!

 はぁ……と大の字のまま大きなため息。反転した世界。砂利道を挟んだ柵の向こうに広がる牧場では、牛が呑気に草を食んでいる。さっきの緊迫事態が起こったのが同じ世界だとは思えない……。

 と、いうか。砂利が頭に刺さって痛い! 打った背中も痛いし! 麓まで下りて来ちゃったとか、また山登ってカゴ取りに行くのは面倒だし! こんなとこに木の棒転がしておいたやつも、イノシシも、ゆるさーん!!

 あぁ……イノシシかぁ。どう食べよう? 鍋もいいし〜、焼くのも、揚げるのもいいなぁ……。

 左側からザクザクと足音が聞こえて、私は首を倒す。親子だ。お母さんと男の子で手を繋いで、楽しそうに会話をしてる。

『ねぇクレイス〜。これどーするの〜?』

 レイが何か言ってる……。私はただボーと二人を眺めていた。

 あ。男の子がこっちに気づいた。

「おかあさんみてみて。黒いお姉……」

「シッ。関わっちゃいけません」

 男の子が道に転がっていた私を指差したことで私を見つけたお母さんは、笑顔を消して明らかに歩く速度を上げる。男の子の方は……、お母さんに引きずられるまま、私はガン見をしてくる。私はそんな男の子にちょっと手を振ってみて、すぐに下ろした。お母さんがギロリと私を睨んだから。

 ……そんな軽蔑視しなくてもいいじゃない。私はあなたたちの名前も知らないのに…。

 ふとそんな反応をしてくる理由を思い当たって、私は左の顔を触る。……あらら、だからか。外れやがって。包帯が緩んでいる。顔を触った手が地肌に触れた。あぁあ、私もお姉ちゃんみたいに光属性の魔法が得意だったらよかったんだけど。そしたら包帯なんてなくても、幻覚魔法でこの【呪い】を隠せるのに。

『また逃げられてやんの』

 なんでか楽しそうなレイの言葉にムッとしながら、よいしょっと起き上がる。親子の姿はもう見えない。逃げ足が速いことで。

「……うわ。ほんと真っ黒」

 包帯の隙間から見たイノシシ。真っ黒な霧はイノシシを覆って、輪郭さえも隠してる。

 邪霞に汚染されたせいでこのイノシシは大きいってレイは言ってたけど……そんなことができるなんて【邪霞】ってすごいんだね。【邪霞】については、見えるから存在は知ってるけど、それだけなんだよね。それがどこからやってきて、どういう効果を持ってるかとか、なんも知らない。レイも教えてくれないし。汚染っていうくらいだし悪いものではあると思うんだけど……。

『ねえクレイス〜。その痣見られて〜、知らない人に逃げられた感想はどうですか〜? もう何回目?』

「ちょっと黙っててよ」

 クスクスとおちゃらけるレイは本当に楽しそうで、私は思うより先に言葉を発する。

 さっきのお母さんの反応は正しいよ。正しいし、そんな反応ばかり見てきたから、私も慣れてはいる。……でもやっぱり全く傷つかない、なんて無理なんだ。

 異様な痣を持つ私は、避けられて当然なのはわかってる。「親殺し」なんて噂があれば尚更だしね。でも、裁判だってして、しっかり無罪になってるのにね。

 嫌な気持ちをホッと全て吐き出して、不機嫌に口を尖らせて浮かんでいるレイに微笑んだ。

「ねえ、一応聞いとくんだけどさ」

『なに!レイ、怒ってるんだけど!』

「邪霞に汚染されたものって、食べたら人体に害があったりする?」

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