プロローグ

 あと一時間もしないうちに、たいに立つ生のれい様をられる……っ!

 そう考えるだけで口元がにやけるのをおさえられない。いやむしろ、あふれる幸福感のままにおどり出したい! 天へ向かって「ありがとうございます!」とさけびたいっ!

 いや、しないけど。日曜日の昼過ぎ、人通りの多い川べりの駅前の道でそんなことをしたら、通報案件だし。

 身体からだの中で抑えきれないしようどうき出すように、はぁっ、とぶくろに包まれた指先に息をきかける。ついでに口元もかくせるし。

 でもでもっ、今にも叫び出したい衝動が抑えられないっ!

 私は心の中で、待ち合わせの相手であり、私に玲様の存在を教えてくれた親友のみっちゃんに語りかける。

 みっちゃん、来る日も来る日も、チケットが当選しますようにって、二人で空にいのったがあったねっ! チケットが取れたってわかった時の感動は、昨日のことのように思い出せるよ! だいじよう! 舞台の原作になった小説は、そらんじられるほど読み込んで来たよっ! 私、こんなに暗記が楽しかったこと、人生で初めてっ!

 ほんともう、し活を教えてくれたみっちゃんには感謝しかないよっ! 心の友と書いてしんゆうだよっ!

 早く来ないかなぁ……。いや、今日が楽しみすぎて、早めに来ちゃったのは私だけど。

 ああっ! 舞台に立つ玲様ってどんな感じなんだろう!? 「テレビとは全然ちがうんだよ! 舞台の空気っていうのは!」って、みっちゃんは力説してたけど……。

 ……ん? ということは……。私、これから玲様とおんなじ劇場の空気吸うの? あこがれの玲様を生で初めて見られるだけじゃなくて?

 考えたたん、ぱくんっ! と心臓がねる。

 え。無理。無理無理無理っ!

 私なんかが玲様と同じ空気を吸っちゃうなんて、そんなのおそれ多すぎる……っ!

 そうだっ! なんか袋っ! 玲様が呼吸した劇場の空気を持って帰って真空パックできる入れ物……っ!

 求めるものを売っているお店がないかと、おろおろと駅前の通りを見回した私の視線が、今だけは会いたくなかった顔をひとみの中に見つける。あわてて回れ右して、背後に流れる川の水面を見ているふりをしようとしたけど、あちらも同時に私に気づいていたらしい。

! あなた、こんなところで何してるの!?」

 りつけるようにキツい口調に、びくびくとり返る。

「お、お母さん……」

 カツカツとくつおとも高く私に歩み寄ってきたのは、かっちりとしたツーピースにコートを羽織ったお母さんと、つかれ切った顔をマフラーにうずめているお兄ちゃんだ。

 いやだ。お母さんとお兄ちゃんには言いたくない。私のことは鹿にされてもいいけど、玲様とみっちゃんだけはだれにも馬鹿にされたくない。

「お、お母さん達はどうしたの? これから予備校の面談?」

 きようだと思いながら質問に質問で返す。お兄ちゃんが勉強以外の用事で外出しているわけないってわかっているのに。

 毎日おそくまで勉強しているからだろう。うっすらと目の下にくまがあるお兄ちゃんの顔は、血の気がなくて下手へたしたらたおれそうだ。

 寒い中、大変だよね。入試までもうすぐだもんね、無理しないでね。

 おうえんの言葉を口にするより早く、お母さんが顔をしかめて口を開く。

「そうよ。共通テストまでもう間がないのに、この子ったらいまだに判定が悪いんだから」

 お母さんのかたの辺りに、黒いもやき出す。お母さんの一歩後ろで無言でくちびるみしめたお兄ちゃんからも、黒い靄がただよい始めた。

 小さいころから、私にはなぜか人の負の感情が黒い靄になって見えた。まるでからみつくへびみたいにうねる黒い靄は、今にもきばいて私に飛びかかってきそうで……。

「た、大変だね……」

 身体がふるえそうになるのを感じながら、いたわりの言葉を口にすると、お母さんがいらたしげに目を細めた。

「そういうあなたはこんなところで何をしているの!? お兄ちゃんは日曜日でもしっかり勉強しているっていうのに、ふらふらと遊び歩いて……っ!」

 お母さんが顔をしかめると同時に、吹き出す靄がさらに黒く、くなっていく。

「どうせその大荷物も勉強道具じゃないんでしょう!? 見せてみなさいっ!」

「だ、だめっ! この中には、本当に大事なものが入ってるんだから……っ!」

 肩からかけたかばんばされたお母さんの手を反射的に振りはらい、ぎゅっと鞄をかかえ込む。

 舞台の後でみっちゃんといっぱい語ろうって、原作になった本とか玲様の写真集とか、へたくそだけどみっちゃんとそれぞれ作った玲様のあみぐるみとか……っ!

「きょ、今日は舞台に行くの! お、推し様の舞台に……っ!」

 言っちゃダメだ。頭のかたすみで理性が叫ぶ。でも言葉は勝手に飛び出していた。

「推し? 何なの、それ? どうせくだらないモノなんでしょう?」

 まゆをひそめたお母さんが、冷ややかに吐き捨てる。

「く、くだらなくなんかないよっ! 私の生きるかてなんだからっ!」

 私の言葉に、お母さんがあつにとられたように目を見開く。かと思うと、すぐに目にいかりが満ちた。同時に、お母さんから黒い靄がおそいかからんばかりに立ち上る。

「子どものくせに、生きる糧だなんて何を馬鹿なことを言ってるの!? だからいつまでも成績が悪いままなのよ! 貸しなさいっ! そんなもの捨ててあげるわっ!」

「だ、だめっ!」

 お母さんの手と黒い靄、両方からげるように身をよじる。鞄をうばわれまいと抱え込んだ肩に、強いしようげきが走る。ぐらりとかしいだ身体が、川べりのさくえた。

「あ……っ」

 だめっ! 鞄をらしちゃ……っ!

 反射的に強く鞄をきしめる。ぼうぜんとしたお母さんの顔がやけにゆっくり見えたかと思うと、どぷんっ! と川に身体がしずんだ。

 身を切るような冷たさに、いつしゆんで意識が飛びそうになる。ごぽごぽとにごった音が耳の中で聞こえる。落ちたひように飲んでしまった水が、体内から私をこおらせる。

 泳がなきゃ。でも鞄を放せない。何より川の流れが速い。

 私、このまま死んじゃうの? 玲様にも会えないままで?

 嫌だっ! 玲様に会えたら死んでもいい! むしろ死んじゃう! なんて思ってたけど、玲様に会う前に死ぬなんて……っ! 死ぬんだったら玲様を拝んで呼吸困難になって死にたいっ!

 推し様の晴れ姿をこの目で見るまで死ねない! のに……っ!


    ● ● ●


 このまま、夢をかなえられないままおぼれ死ぬなんて、嫌……っ!

「ほんぎゃぁ~っ!」

 叫ぶと同時に、世界が光で満ちる。

「お生まれになりました! おじようさまでございます!」

 私を抱き上げて叫ぶ誰かの声。

「まあっ! では予言どおり聖女なのね! どんな子なの!? 早く顔を見せて!」

 私、この声を知ってる。ずっと私が生まれるのを待ち望んでいてくれた人。

「いや……。どうか落ち着いて聞いてくれ。この子は聖女じゃない……。まさか、我がサランレッドこうしやく家から、じやしんの色を宿したくろかみ黒目のむすめが生まれるなんて……っ!」

 男の人のじゆうに満ちた低い声に、女の人の叫びが重なる。

うそっ! 嘘よ嘘っ! 予言では、公爵家に特別な聖女が生まれると! わたくしが聖女の母となるはずなのに……っ! 赤ちゃんを! わたくしのエリシアを見せてっ!」

「奥様! 落ち着いてくださいませ! ご出産されたばかりですのに、そんなに興奮されては……っ!」

 にわかに周囲がさわがしくなる。

 聖女って何? 私はこれから玲様のたいに行って……。

 あたたかなお湯につけられた私の意識がとろんとほどける。

 ああでも今は、疲れてねむりたい……。



 ほそ絵理、きようねん十七。

 し様の晴れ姿を見られなかったとなげきながら川に流され、次に目覚めた時。

 私はアルスデウス王国の公爵令嬢、エリシア・サランレッドとして生まれ変わっていた。

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