【試し読み】黄泉平良坂骨組堂

黄鱗きいろ

第一章 異界に流れ着いた少年

第1話 異界流れ

 誰かが見送っている。


 遠くへと去っていく自分を。


 寂しそうな顔で見送っている。


 行かないでほしい。


 泣くのをぐっと堪えたその瞳は、雄弁にそう語っていて。


 だけど、両親に手を引かれた自分は立ち止まれない。


 それは、上名木家の当主が都会へと出奔した日。


 自分があの子を見た最後の日。


 もうあの子の顔は思い出せないけれど。


 あの子はまだ――あそこにいるのだろうか。




       *




 ――どこかに流されている。それが最初に取り戻した感覚だった。


 流されているというからには川なのだろうか。少なくともプールではない気がする。もっと寒々しくて、どこか安心する場所だ。


 水温はひどく冷たい。だけど、不思議と「寒い」とは感じなかった。


 自分の体温はもう下がりきって、水の流れに溶けていくような。そもそも、全身が水に沈んでいるというのに息苦しさもない。


『ここはどこなのか』


 ――どこだっていい。


『自分は誰なのか』


 ――そんなことどうだっていい。


 次々と浮かぶ疑問が、清らかな水の流れに押し流されて、穏やかな眠りの向こうへと消えていく。


 溶けていく。


 自分が自分であったという事実が、それを証明する痛みや苦しみが。


 今なお燻っていたはずの執着が。


 代わりに訪れるのは安らぎ。全てを癒やす安穏たる時間。


 ぼんやりとした思考の中、体が水に溶けていく。


 ――最後に、ふと疑問が頭をよぎる。


『どうして、自分はここにいるのか』


 そこに思い至った途端、腕に抱えた大切な存在を思い出し――少年の意識は急に現実へと引き戻された。




「うえっ、げほげほっ……」


 川岸に打ち上げられ、えずきながら水を吐き出す少年。彼が身にまとう大仰な巫女服はずっしりと水を吸い、起き上がろうとする動きを阻む。


「なに、が……」


 ぜえぜえと荒い息のまま顔を上げた彼の目の前に広がっていたのは、全く見覚えのない場所だった。


 屋外であることは確かだが、とにかく薄暗い。


 視界一面に広がる森は鬱蒼と生い茂り、空は落ちてきそうなほど重く立ちこめた灰色の雲に覆われている。


 足下を見ると人形が一つ落ちていた。


 人形は、ちょうど赤ん坊ぐらいのサイズで、髪は白い。一目見た瞬間、それがとても大事なものだということは思い出し、少年は慌てて人形を拾い上げた。


 少年が倒れていたのは開けた川縁だったが、一歩でも森に足を踏み入れようものなら、頭上を覆い隠そうとする木々の枝葉によってさらに暗い道を進むことになるだろう。


 一陣の寒々しい風が吹き抜けたが、鳥の一匹も飛び立つことなく枝が揺れるばかりだ。


 背後を流れる大きな川には不気味なほど澄んだ水が流れている。のぞき込んでみると、やけに痩せた子供の顔が映り込んだ。


 年は十代後半。ざんばらに乱れた黒い髪は肩ほどで切られたおかっぱであり、巫女服を着ていることもあって少女にも見えるが、顔つきは少年だ。


 見た目の年齢からすると学生だろうか。


 記憶をたどろうとすると、自分は高校に通っていた気もするし、通っていなかった気もする。混乱している記憶のまま、少年は川をのぞき込み続ける。


 ふと川の中に魚どころか虫も水草もないことに気づき、その不気味さに少年は慌てて川から距離を取った。


「っ、いだっ」


 なぜか裸足だった足の裏に川岸の真っ白な小石が突き刺さる。よくよく見ると小石はひとつひとつが歪な形をしており、まるで何か硬いものが粉々に砕けたもののようだった。


「なんなのさ、ここ……」


 小さくつぶやきながら、少年は腕の中の人形をきつく抱きしめる。


 何も知らない人が見れば不気味な印象を受ける人形だが、これは大切な人形だ。絶対に、なくしてはいけないものだ。


 混乱する頭でもそれだけははっきりとわかっていて、少年は人形を抱く腕に再度力を込めた。


「――そこの娘」


「へっ!?」


 突然人の声がして、少年は飛び上がりそうなほど驚く。


 慌てて振り向くと、そこに立っていたのは墨のように黒い和服をまとったやけに冷たい雰囲気の男だった。白く長いその髪は後ろで緩く結ばれており、ほの暗い赤色をした目は少年を射貫いている。


かえるのか、くのか」


「……へ?」


 端的すぎる問いかけに、雛は目を丸くして聞き返す。しかし、白髪の男は微動だにせずに繰り返した。


「返るのか逝くのか。答えろ、娘」


「ええ、いきなり何……っていうか誰?」


「知らずとも立ち去れる。留まらずに済むのであればそのほうがいい」


「言ってる意味が一ミリもわかんないんだけど……」


「理解する必要はない。選べ、娘」


 会話が全く成立しない。


 警戒を強めた少年は、男をにらみつけたまま声を張り上げた。


「っていうか、娘娘って、俺は女じゃない! 男だ!」


 そこに来て初めて男は、妙にぎこちない動きでこてんと首をかしげた。


「巫女装束は生娘きむすめが着るものだ」


「きむす……? む、難しい言葉使うなよ! 巫女服着てるのが男じゃ悪いか! 好きで着てるわけでもないし!」


「では娘ではなく童子どうじか」


「童子ってなんだよ、難しい言葉使うなー!」


 苛立ちで地団駄を踏み、少年は男を指さして叫ぶ。


「大体、俺の名前は「娘」とか「童子」とかじゃなくて――」


 大口を開けて少年は言葉を続けようとする。しかし、それを物理的に遮ったのは、いつの間にか目の前まで近づいていた男の手だった。


「名乗るな」


 手のひらで口を覆われ少年は思わず硬直する。その手の温度が人間にあるまじき冷たさだったことも、少年の動きを奪う一因となっていた。


「名乗らず決めろ。返るか、逝くか」


 男はそう繰り返すと、今度は少年が身にまとっている巫女服の襟の後ろを掴んで彼を宙にぶらさげた。


 上背のある男に対して、少年は華奢な体格だ。簡単に体は浮かび上がり、まるで親猫に首の後ろを噛まれた子猫のように少年はぶらんと持ち上げられる。


 男はそのまま川に歩み寄ると、彼の体を川の真上に吊り下げた。


 そこにきてようやくハッと正気に戻った少年はじたばたと体を動かし始める。


「な、何するのさっ、離せっ」


 男は非人間的な仕草で再び首をかしげた。


「川に落ちて逝くのが望みか?」


 すうっと全身から血の気が引く思いがして、少年は縮こまった。


「バカバカやっぱり離すな! 地面にそっと下ろせバカ!」


「俺は馬鹿ではないが」


「うるさいバカ!」


 危機的状況だというのに妙に間の抜けた会話を二人は繰り広げる。その時、ふと聞き覚えのない声が二人のやりとりを遮った。


「おやおや。いたいけな子供相手になんて物騒なことをしているんです形代かたしろさま。俺は悲しいですよ」

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