22 燦然と輝く明星になったという証明

 土煙が舞う。俺の下には倒れたムトの姿。

「やった……?」

「はー、油断した。まさかはじめて数年のガキに足元取られるとは思わなんだ」

 ムトは俺を押し返して立ち上がり、体についた土をはらう。わざと負けるような男ではないことは俺が一番知っていた。この男はどんなに俺が技術不足だろうと、取り組みの場で手加減なんてしてくれるはずもなかったからだ。

 だからこそ、勝利の実感は湧いてこなかった。越えるべき壁が高すぎると思っていたのに、突然踏み越えられたのだから。

「おい、一度の勝利でそんなんになってどうする」

 ぼーっとして立ち上がれない俺の頭を、ムトが軽く叩く。

「ワシも負ける時はある。勝機を見逃さなかったことは褒めてやるが、一度の勝利で緩むような男に育てた覚えはないぞ」

「あ、ご、ごめんなさい」

「謝ることじゃねぇ。次から気をつけろ。それと、どうやら飯の時間だ。それと、少し話があるからマワシは外しとけ」

 ぐいとムトが親指で小屋を指す。確かに良い匂いが漂ってきていた。

 泉の水で泥を洗い落とし、マワシをいつものように干す。そのまま俺は普段着に着替えた。ゆったりと余裕を持たせた羽織のような服で、しばらく前にムトが仕入れてきてくれたものだ。

 下にズボンを履けばこれから先俺が森から出ることになっても街を歩くことができ、マワシをつけたままでも着ることができる服である。前を閉じることもできるが、シャツを着て上から羽織る方がまだ見た目的に変態感は薄れる……と思っている。

 下を露出しておくわけにもいかないので、俺はズボンも履いた。この時間からマワシを外すことなんてずっとなかったことだから、あまりにも違和感がある。

 どうせ後で脱ぐことになるのだからと、羽織の下にシャツは着なかった。

 着替えた俺は小屋に戻り、慣れた手つきでミーナの食事の準備を手伝う。

「ええっ!? すごいじゃないの!」

 大きな鍋を煮込みながら今日の報告をついでにしておくと、ミーナは驚いた様子でこちらを見てきた。

「偶然勝てただけだよ」

「それでもすごいことよ。弟子が師匠から一本とるなんて、普通はできないから。それくらいヤマトくんには才能があって、努力もしたってことだしね」

 朝食を作り終えるまで、ミーナはそんな調子でずっと俺のことを褒めてくれていた。嬉しくもあり、そこまで褒められて恥ずかしくもある。

 料理が完成し、テーブルに朝食を並べて食べ始めてからも、ミーナがずっとその話を続けるものだから、ムトも辟易したのかやめろと嗜めていた。

「そうだ、ヤマト。今日はお前、休め。明日は最終稽古だ」

 突然口を開いたムトは、そう呟く。

「最終稽古……ってことは」

「そうだ。お前はアレに勝てる。そうワシが判断した。明日はその本番だ」

 アレ。あの真っ赤なドラゴンのことだ。定期的にアクションを起こさないか見回りに行って知っている。あれから子供も生まれ、ムトが言っていた通り少しゆったりとした緩慢な動きになっていた。

 だが、それでもその圧は強い。今の俺で勝てるかは半々といったところだろうか。

 咀嚼しながらムトは続ける。

「お前がアレに勝てたら、これからはここで稽古することはないだろうな」

「……え?」

「お前はワシと暮らすことが目的じゃない。バインハルト侯爵の命令でワシを訪ね、強くなること、そして魔王を倒すことが目的だったはずだ。それならば、最終稽古が終わればここから出ていくのも当然だろう?」

「でも、そんなこと言われても突然で何も準備も……」

「準備するようなほどお前に何かを渡した記憶はない。お前もそろそろワシに勝てるとそう思っていたのなら、ワシに勝った先にあるものが何か予想がつかなかったわけでもないよな?」

 言葉に詰まる。確かに考えたことはあった。そろそろ終わりだろうと。俺の今の全力なら、時折見せるムトの油断をつけば勝てるかもしれないと。ただ、それはもっと先のことだと思っていたし、それが終わればまださらに稽古が続くと思っていた。

 ミーナを見れば、彼女もまた悲しそうな顔をしているが口を閉じて何も言わない。彼女もわかってはいたようだ。

「……わかりました。よろしくお願いします」

「よろしい。今日は一日、体を休めておけ」

 朝食を平げたムトは何も言わずに外に出ていく。それを追いかけることはできなかった。

「ムトさんもね、ああは言ってるけど結構臆病だから、ヤマトくんが居なくなることは嫌なんだよ」

 二人だけが残ったテーブルで、ミーナが口を開いた。

「でもさ、弟子の成長を祝わない親方が居る?」

「……いないね」

「でしょ? ヤマトくんはムトさんにそう思わせるほど成長したんだよ。ムトさんも生半可な覚悟であんなこと言ったわけじゃないんだから、君もそれに応えるように努力した方がいいんじゃないかな?」

 さっきの悲しそうな顔を掻き消し、ミーナは明るく普段と同じように振る舞っている。

「ありがと。俺、なんか勘違いしてたかも」

 そうだ。ここはゴールじゃない。俺のスタート地点なんだ。

 夢が叶ったことで何かを勘違いしていたが、俺は今から魔王を倒すために外に出なければいけないんだ。

 嫌かと聞かれれば、もちろん嫌である。誰かもわからない男に死んだと思ったら突然呼ばれ、魔王を倒せと命じられたのだ。そんなもの嫌に決まってる。

 ただ、数年前からなんとなく思っていた。ここまで幸せにしてもらったなら、魔王を倒すとまではいかずともあの男の命令を聞く程度はした方がいいのではないかと。

 ここでまんじりとムトに相撲を教わることは俺にとっての幸せそのものだったが、それが永遠に続くわけではない。ならば、その先を考えておくべきなのは当然のことだ。

「じゃ、今日は私が全部片付けておくから、ヤマトくんはちゃんと体を休めるように。ね?」

 俺はありがとと呟いて二階に上がった。ベッドを買おうかという話もあったが、ずっと気に入って時折自分で入れ替えたりもした干し草のベッドに寝転ぶ。もう見慣れた天井を見つめながら、ここ数年のことを思い出し始めた。

 外ではムトが一人で何かをしている音がする。日常が変わることの不安感で少し涙が溢れてくる。ああ、このまま時間が止まれば良いのに。

 そんなことを思っていても、無慈悲に時間は進んでいく。これまでの思い出を思い返しているうちに窓の外はもう日が落ちかけていた。

 生きてきた中で初めて“生活”と言うものができた数年間は、俺の成長とともに終わりを迎え始めていた。

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