第6話 お仕事は身支度から
着替えろと怒鳴られて、思わず侍従の控室に駆け込んでしまった私。しかしそこではたと我に返る。着替えろと言われても私は下女だ。こんなところに着替えなんてあるはずがない。しかしすぐに出て行く気にはなれず、私はしかたなく形だけはと部屋に備え付けの衣装棚を開けて中を覗き込んだ。
……て、あれ? もしかしてこれって、着替あるかも……?
棚の中には数着の衣装が仕舞われていた。どれも上等の生地を使った仕立てのいい服ばかりだ。大きさや装飾から考えて同年代の少年侍従が着る服だろう。広げてみると少し大きいが十分着れそうなサイズ感だ。
……って、待て。待て待て待て、私ーーー!!!
思わず命令に従っていた自分に私は喝を入れる。うっかり身に染み付いたサラリーマンの習性で、何となく上司っぽい人の命令に従いかけてしまっていたが、ちょっと待て私。
今の私は下女だ。いくら迫力満点で命令されたからといって、このまま素直に着替えていいはずがない。ちゃんと
「何をぐずぐずしている、早くしなさい!」
「は、はいっ! ただいまーーー!!」
ううっ、この雰囲気。とてもじゃないけど逆らえないよ。し、しかたない。とりあえず着替えていって、事情は道中に説明しよう。そうだ、それしかない。
いくら勘違いされているとはいえ、さすがに朝議とやらにまで一緒に行くのはまずいだろう。というか白蓮様だって絶対途中で何かおかしいと気づくはずだ。決して私が騙そうとしたわけではない。それは天地天明に誓って本当だ。完全に巻き込まれ事故なのだ。だから情状酌量の余地はあると私は自分に言い聞かせた。時間を稼ぎなんとか到着前に事情を説明するのだ。
私は混乱しつつも白蓮様の迫力に圧され、見つけた少年侍従の衣装に手早く着替える。着てみると予想通り少し大きめだが普通に着れる。上着が裾広がりの長衣なので体型があまり影響しないのだろう。むしろ使われている生地も仕立もとても上等なので、下女のお仕着せとは比べものにならないほど着心地がいい。
長衣の下には白いシャツのようなものを、下衣には細身のズボンの様なものを履く。靴はそのままだ。私は思わずその場でくるりと一回転して窓硝子に映った姿を確認した。ちらりと見ただけだが結構いい感じになったような……。
「早く来い!」
「す、すみませんっ、ただいま!」
私は慌てて執務室に戻る。白蓮様は私の片付けた書類を確認しているところだった。私はそこではじめて白蓮様の後ろ姿を見た。すらりと背の高い若々しい背中。やはりどう歳上に見積もっても三十代だ。しかし私の視線は年齢よりももっと気になるもに釘付けになった。白蓮様の広い背中に優雅に
ほ、本物の銀髪!? ほげえぇ、はじめて見た……。
見惚れていると、白蓮様が肩越しに書類を投げてくる。
「これを持て」
私の整理した書類の山から、さらにより分けた書類の束をぽんぽんと私に投げつける。
「会計関連の書類はどこだ?」
「あ、あの、こちらの山にあります。隣が設備関連で……」
「ああ、分かった。そら、これもだ」
「は、はい」
「今月の事案件数の資料は?」
「あの、それはここに……」
「当然だが、筆記具は持っただろうな?」
「は、はひっ、すぐに!」
私は小卓に置いていた予備の筆記具を慌てて手に取る。
「行くぞ」
大股で歩き出した白蓮様を、大荷物を抱えた私は小走りで追いかける。外にでると空は雲一つない晴天。眩しい朝日の下を爽やかな風が吹き抜けてゆく。前の世界だとゴールデンウィークごろの気候に近いだろうか。この世界でもそろそろ春が終わり初夏が近い。
私は胸一杯に爽やかな空気を吸い込んだ。こんなに明るい太陽の下を堂々と歩いたのはいつぶりだろうか。この世界に来てからは常に仕事に追われていて空を見上げる余裕もなかった。だから余計にこの眩しさが目に沁みる。歩調に合わせてゆらゆらと揺れる白蓮様の長い銀髪も、澄んだ太陽の光をきらきらと反射して銀細工のように美しく眩しい。急に開けた明るい視界と白蓮様の輝く銀髪に目が眩み、私の足は思わずとまる。本当に綺麗だ。驚くほどさらさらで、しかもちょっと近づくだけでもの凄くいい匂いがする。
「早く来い」
「すっ、すみません!!」
はっと正気に返った私は、慌てて離れてしまった白蓮様の背中を追いかける。白蓮様は背が高いから一歩も大きい。後を追いかける私はひたすら小走りだ。
来る時は
「あ、あの白蓮様、この後の朝議ですが、その……」
「ああ、今朝は朝議の控えを頼む」
「え? は、はぁ……」
ち、違うの! 仕事を引き受けてどうするのよ私!!
でも私に話す隙を与えずに、白蓮様はどんどんと話を進める。
「今日の予定だが、朝議の後はそのまま
「え、えっと……」
「聞いていたか」
「は、はいっ! 聞いていました。あのそれで白蓮様、私は、その……」
「其方は奥宮の宴には同行せずともよい。そのまま執務室に残って翌日の朝議の準備と薬種局での商談のまとめを頼む。どうせ昼食でも頼まれ事があるだろうからそちらの準備を。私も宴から戻り次第──」
ううっ、どうしよう! 全然話ができないよ。ていうか、そうこうしている間に多分朝議の間とやらに到着しちゃってるんですけれどっ!!
白蓮様は一切の躊躇なく朝議の間に入っていく。さすがにこのまま一緒に入るのはマズイと私が入り口付近でまごまごしていると、どんと背後から人がぶつかってきた。とっさに書類を離すまいと両手に力をこめる。が、
あうう……入っちゃったよう……。
顔を上げると部屋の様子が見える。大きな長方形に机が組まれたまさに会議室という感じの部屋だ。各院長にさらに数人のお付きの人々、会議の運営、雑用係の少年たちと、朝議の間はすでにごった返している。
方々で交わされる会話は囁き声程度なのだろうが、これだけの数集まるとまるで蝉が鳴いているような騒々しさだ。白蓮様はというと、迷わず窓側の前列の端の席に着こうとしているところだった。迷いのない足取りからしてどうやらそこが白蓮様の定位置らしい。
「失礼、大丈夫だったかな?」
しゃがみ込んでいると後ろから声をかけられた。振り向くと優しげな微笑みを浮かべた男性が私を見下ろしている。掻きあげた前髪はゆるく波打つ明るい茶色。細面の優男という表現がとにかくしっくりとくる、少々軽い雰囲気を漂わせたい三十過ぎの男性だ。当然のように差し伸べられた手があまりにもスマートだったので、私は何も考えずにその手をとってしまった。斜め後ろに控えていた部下らしき男性の微妙な表情を見た瞬間、しまったと気づいたが時すでに遅し。男性はそのまま私を引き起こすと、裾の埃を払い丁寧に衣服を整えてくれた。が、後ろに控える部下の視線が痛い。
まずい、この方、絶対に偉い人だ……。
「怪我はない?」
「は、はい、大丈夫です。ありがとうございました」
私は深々と頭を下げる。
「ぶつかったのは私の方だ、悪かったね。大事がなくてよかったよ」
男性は引き起こしたまま、何気なく握っていた私の手を見る。
「おや」
男性はそのまま私の全身を見回して首を傾げた。柔和な微笑みの表情のまま、金色に近い茶色の瞳が一瞬で射抜くような鋭い光を帯びる。ぶるりと身震いした私の背中に鳥肌が立った。心の奥まで見透かされているような冷徹で鋭い眼光。柔和な表情との落差が余計に恐ろしい。
ひえぇぇ! こ、怖いよー!! 後ろ暗いことがあるから余計に怖いーー!!
「うーん、君はどうして──」
「おい
青い顔で固まった私をぐいっと押しのけて、間に割り込んできたのは白蓮様。さらに掴まれた腕をぐいっと後ろに引かれると、私の視界は白蓮様の背中で埋め尽くされた。そこでようやく詰めていた息が吐ける。
「おや、
男性がにやりと唇の端を歪めると白蓮様は鼻を鳴らす。
「
「ふうん、桂君不在なのか」
弦と呼ばれた男性は顎に指を絡ませながら私の方を見る。雰囲気はチャラい優男なのに、視線の奥の光は触れれば切れるように鋭く冷めている。私は思わず首を縮め白蓮様の背中の後ろで縮こまった。
「ねえ、君名前は?」
「え……」
「おい弦。お前はいつも私の話を聞いていないな。口説くのは他所でやれと言ったはずだ」
「いいじゃないか、名前くらい。ねえ君、教えてくれるかな?」
男性が白蓮様の肩越しににこりとこちらを覗く。私は一層縮こまり下を向いた。
「ああ、こういう時は私から名乗るべきだな。私は
人事院長! ううぅ、やっぱり……。
私は内心で頭を抱える。見た目完全にチャラい優男なのに院長! それも人事院長っ!! 返事をしないでいられるわけがない……。
「……み、
私から出たのは蚊の鳴くような声。そして本名。
自分のバカバカバカ! どうして偽名を言わないの!! ううっ……、でもやってみればわかるけど、咄嗟に偽名なんて思いつかないよ! スパイ訓練も受けていない元サラリーマンには絶対無理!!
「ふむ、澪君か」
男性は再び顎に指を絡ませて何やら考え込む。
「弦邑様、そろそろお時間が」
後ろに控えていたお供の人がそっと声をかける。見回せばすでにほとんどの席が埋まっている。皆、興味の無い振りをしつつ、ちらちらとこちらの様子を伺っている。
「仕方ない。では澪君、またお会いしましょう」
再びにこりと上品に微笑むと、弦邑様は自分の席に向かって移動する。ただ歩いているだけなのに見惚れるほど優雅だ。きっと生まれながらにというやつなのだろう。自分があまりにも場違いなところに来てしまったのだと実感した私は眩暈に襲われる。
「澪、ぼんやりするな」
「はい」
ぼんやりしていたところを軽く肩を叩かれて、正気づいた私は慌てて白蓮様の後を追いかける。あれ、白蓮様もしかして今、私の名前呼んでくれた?
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