第2話・「俺と結婚しろ」
「……恐れながら、殿下。いかがなされたのでしょうか。ここは救いを求めるものが訪れる場所。そして今は私は一人で祈りを捧げておりました。……何か、あったのでしょうか」
人払いをお願いしているはずなのに現れた第二王子殿下。緊急性のある何かがあったのかもしれない。緊張感を持ってそっと顔を上げれば、困ったように微笑む彼と目が合った。
彼は掲げた右手を見る。包帯が物々しく掌を覆っていた。
「実は、手にひどい火傷を負ってしてしまいまして」
「まあ」
「『聖女の奇跡』で治していただきたいのです。明日、外国の要人をお迎えするのですが……余興で弓矢を披露することになっていまして。困っているんです」
「余興、ですか」
明日の予定か。緊急といえば緊急だが、そんな用事かと内心呆れる。
煌びやかな世界で生きる人はずいぶんと呑気なものだ、と。
聖女不在で荒れるに荒れた我が国。この王家がもう少し民のために尽くしてくれていたのなら、あんなにひどい状況にはならなかったのはずなのにと思う気持ちが偽聖女の私にはあった。
偽者の聖女でも人々を救うことができたんだから、あなたたちももう少し頑張りなさいよ、と。
密かに胸に秘めていた思いが一瞬溢れたが、ニコリと笑顔のテクスチャーを貼り付けて誤魔化した。
「いかがなされましたか? 聖女殿」
「……いえ、申し訳ありません。殿下。率直に申し上げて今すぐに治す、ということは不可能でございます」
「『聖女の奇跡』であれば瞬時に傷は癒えるものと伝え聞いておりますが?」
「あくまでそれは伝聞、伝承での話です。……恐れ入ります。患部を拝見しても?」
殿下は右手を掲げられた。巻かれた白い包帯をそっと解くと、手のひらの中心に大きく抉れるような火傷があった。穴のように抉れている部分の周りの皮膚も真っ赤に爛れている。これは確かに、弓を握るのは厳しいだろう。
(でも、治らない傷ではないわ)
私は腰に巻いたポーチから常備している軟膏を取り出した。
「ちょうどここに私が作った薬がございます。これを患部に塗っていただき……そうですね、一瞬間もすれば爛れた皮膚も元通りになるかと」
「一週間。それでは困ります。明日には弓を引けるようになりたいのですよ」
「申し訳ございません。瞬く間に傷を癒すということは、できなくて……」
「なぜですか?」
第二王子は退く気配を一切見せない。
(……しつこい)
これだけの大火傷が軟膏を塗りさえすれば一週間で治るのだ。『奇跡』と言っても差し支えないことだと思うが。
「……この国の聖女は私一人きりです。一人でも、より多くの人を救うためでございます。このように特別に調合した薬に奇跡の力を込めることで目の前の一人に限らず国中の人をお助けできるように努めているのです。申し訳ございません。たとえ、第二王子殿下お相手でも特別扱いをすることはできません」
「なるほど、『聖女の奇跡』を行使するには力の消耗が激しいと。それゆえに、あなたは奇跡そのものは使わないようにされているのですね?」
しつこいが、物分かりは良い男だ。「左様でございます」と答え、私は再び彼に対してこうべを垂れた。
聖女の私が伝承通りの『聖女の奇跡』、一瞬にして傷つき病める人を救う術を使わない理由はまさに彼が言った通りの理由である――ということにしているのだ。
(だから、そういうことだから、引き下がって)
私は祈る気持ちでそっと瞳を伏せた。
「本当に申し訳ありません。国交に関わること、ことの重大さは世間知らずの私でもお察しいたします。ですが、どうか……ご勘弁を……」
「……今日はもう日暮れだ。私の他にもう人も来ないでしょう」
「……どうか、今日のところはお帰りを……」
「聖女の労働は無償の奉仕と聞きました。どうでしょう、私を治してくだされば報酬を出します。あなたが好きなドレスと宝石を、いくらでも買えるくらいの報酬を」
頭を下げ続ける私にそっと男は長身の背を曲げて、耳元で囁いた。
その時、被っているウィンプルの裾を彼の手によって払われ、思わずギョッとしたが反応は見せないように努めて私は頭を下げたまま、微動だにしなかった。
「いいえ。そんなものはいりません」
「無欲ですね。……困ったな」
「心中お察しいたします。ですが、どうか……」
言葉を繰り返し重ねる私の耳元で、はあと大きなため息がつかれる。
彼が離れたのを察して、ようやく顔を上げると大きく眉を八の字に下げた彼がいた。
「はい。困りました。聖女様は『聖女の奇跡』を使えないんですね」
「……恐れ入ります」
「本当に、使えないんですよね? 『聖女の奇跡』」
彼の言い方に私は「え」という言葉をぐっと飲み込む。動揺を隠し、困ったように微笑んで見せる。今までも似たように詰め寄られたことはあった。けれど、なんとか誤魔化し続けてきた。
だから、大丈夫、大丈夫だと自分に言い聞かせる。
「ごめんなさい。お薬だけはお渡しいたします。どうかそれでご容赦を……」
きっとこの傷はまだ相当痛むだろう。この軟膏は鎮痛作用も強い。自分で言うのもなんだかきっと使ってみれば『奇跡』のように痛みが引くはずだ。
伝承通りの『聖女の奇跡』は使えなくても、みんな私の作った薬を使えば私のことを『聖女』と信じてくれた。私の作る薬はまさに『奇跡』のごとく効くから。
(お願い)
祈る気持ちで私は彼の手を取り、そして痛ましい爛れた皮膚に軟膏を塗った。
「……」
頭上で彼が息を呑む気配がした。きっと、塗った瞬間から痛みは消えてしまったはずだ。苦痛が消え去った驚き、感動。それは『奇跡』というのに支障ないだろう。
頭の中でもう一人の私が「随分驕り高ぶったことを思うのね」と呆れているが、それくらいの気持ちでいなければ『偽者聖女』ではいられないのだからしょうがない。
「すごい。本当によく効くんですね。嘘みたいに痛みが消え去りました」
「よかったです。これを、朝昼晩と塗って患部を保護してください。そうすれば痕も残らず綺麗に治りますよ」
「たしかにこれは……普通ではありませんね。聖女の『奇跡』にふさわしい」
にこ、と微笑み彼を見上げる。穏やかな表情をしているが、内心では心底ほっと胸を撫で下ろしていた。
「コルネリア様」
しかし、続いた彼の声は驚くほど冷たく聞こえるものだった。
「……はっ、思ったとおりだ。アンタ、偽者だろ?」
「……えっ」
さあっと頭のてっぺんから爪先まで、一瞬にして血が冷えたようだった。
さっきまでニコニコと微笑んでいた第二王子が急に据わった眼で見下ろしてきていた。
そして、グッと大きく一歩踏み出して私に近づいてくる。近づかれた分だけ後ずさる。半ば無意識だった。
すぐ間近まで男は迫ってきていた。教会のタイルの床を革靴の底が叩く音が響いていく。後ずさる、けれどすぐに壁に背が当たり、気づけば彼に覆いかぶさられているような体制になっていた。
この距離になってようやく彼の瞳色が菫色と気づく。珍しい目の色だ。きっと明るいところでみれば一層美しかったことだろう。暗がりの中で、その菫色の美しい瞳を彼はゆっくりと窄めた。
「そんな。私は……」
「責任感だけでよくやるよ。荒れ果て尽くしていたこの国で聖女様をやるのは一筋縄じゃなかったろ? まさに『奇跡の人』だよ、アンタは」
「……どうして」
「どうして? だったら『聖女の奇跡』を今からでも使ってみろよ。……はっ、この状況でも多くの民を救うために一人のために奇跡は使えないなんてほざくなら……それはそれで大したもんだが」
「……私が偽者だとして……殿下は私を裁くために、ここへいらしたのですか?」
彼は薄く笑う。色の薄い色彩をした瞳は暗がりの中でも肉食獣を思わせる瞳孔の形がハッキリと見えて、ドキリとする。
「――俺と結婚しろ」
「は、はあ?」
「俺はこの国の第二王子だ。王位継承二番手。でも、第一王子の奴を王座に就かせるわけにはいかねえんだよ。……だが、大聖女のアンタと俺が結婚するってなったら……どうなると思う?」
「……ど、どうなるって」
こう聞いてくるからには――私と結婚すれば王位継承権がひっくり返るぞ、と、そういうことなんだろう。
「やっぱりアンタそこそこ頭の回転いいじゃねえか。助かる」
私の表情だけで察したらしい男はクツクツと喉を鳴らして笑う。
「……私の生まれは貧乏子爵でして……」
「知ってる。生家なんざどうだっていい。今のアンタが『大聖女』って肩書きなことだけが重要だ」
睨む私を、紫の眼は揺らぐことなく真っ直ぐに見つめ離さなかった。
「拒否したらお前、偽者ってバラすよ♡」
男は私の耳に唇を寄せる。低く掠れた声が直に耳朶を揺らす。
「あーあ、この国に聖女なんて存在いやしないって知ったら……みんなどうなるかなあ?」
元・脅威の自殺率2000人超えを叩き出した国の第二王子がニヤリと笑う。
それは、それだけは、絶対にダメだ。
「――く……」
「なあに? 聖女サマ」
「――クソ男!!!!!」
乾いた唇が重なる。男の大きな手のひらが私の後頭部を抑えつけていた。
「……今から俺とお前は婚約者だ、いいな?」
「……ッ、最低……!」
カサついた唇を手の甲で拭いながら、私は男を睨みあげた。
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