♯35 やきもちとアニサキス

「じゃあ水野みずのさん! 私、自分の部門に戻りますから! 私が帰るまでにお刺身お願いしますね~。味の感想はメッセージ送りますから!」


 そう言って愉快犯の江尻えじりさんは自分の部門に戻っていった。ちゃっかり去り際に爆弾も落としていきやがった。


「……白河しらかわさーん?」

「ふんっだ」


 机の上に、ドンッ! といつもの缶コーヒーが置かれる。


 めちゃくちゃ怒ってる……。怒ってるの分かりやすっ。


白河しらかわさんが考えているようなことは何もないからね」

「……」

「ただ刺身を切ってくれって言われただけだよ?」

「……」


 む、無視されてる。

 うわっちゃー、出社早々めちゃくちゃ機嫌が悪くなってしまった。


汐織しおりさん。値下げがあるから無視しないで」

「むぅ、こういうときばっかり名前で呼んでくれるんですから……」

江尻えじりさんはそういう反応見て、楽しんでるだけだよ? 気にしない気にしない」

「昨日は、先に寝ちゃったくせに……」

「へ?」

「夜、メッセージしてたら途中で返信来なくなっちゃいました」

「いやあれは寝落ちしちゃって……」

江尻えじりさんとはメッセージのやり取りはするくせに」

「してない! してない!」

「ふんっだ! 全部50パーセント引きにしてきますから!」

「全部はやめて!」


 そう言って白河しらかわさんが値下げの機械を持って売り場に行ってしまった!




※※※




「ふむ……」


 心配で売り場を見にきたが、相変わらず自分以外の値下げは完璧だ……。


 どうやら全品半額セールは回避できたらしい。


「あれれ~? 喧嘩しちゃったんですか?」

江尻えじりさんは暇なの……?」


 売り場の手直しをしていたら、また江尻えじりさんが俺のところにやってきた。


「あんまりサボっていると行方なめかたさんにチクるからな」

「私、もうタイムカードは押しましたもん」

「……じゃあなんで帰らないの?」

「サンマのお刺身待ちです」

「今やるところ。江尻えじりさんには特別にアニサキスをぶち込んであげるからね」

「えー! よく分からないけどありがとうございます!」

「お礼言っちゃってるし……」


 話せば話すほど馴れ馴れしくなってくるなこいつ……。

 俺もこの子には遠慮しないでいいような気がしてきた。


「はいはい、作ったら青果に持っていくから」

水野みずのさんの切っているところが見たいんですがー」

「普通に邪魔」

「おっ、段々私に遠慮がなくなってきましたね。一歩前進?」

「三歩下がってるんだよ」

「ひどい」


 江尻えじりさんとそんな会話をしていたら、急に背中にゾクッと寒気が走った!


「チーーフーー!」


 振り返ると、いつの間にか白河しらかわさんがいる!


「ど、どうしたの!?」

「あっちの商品は値下げしていいんでしょうかっ!」

「あっ、やっちゃっていいよ」

「分かりましたっ!」


 白河しらかわさんが唇を尖らせながら、値下げに戻っていく。


「あははは~、可愛いですね。白河しらかわさん」

「……いいから早く青果に戻ってくれない?」




※※※




 作業場に戻り、江尻えじりさんのサンマの刺身の準備をする。


 間もなく、白河しらかわさんも売り場の値下げから作業場に戻ってきた。


「なんで江尻えじりさんと仲良くなってるんですか!」


 白河しらかわさんが、即座に抗議をしにやってきた。


「なってない、なってない」

「で、でも……!」

白河しらかわさん、サンマの刺身を切るところは見たことある?」

「は、はい?」

江尻えじりさんには邪魔だから見せないって言ったけど、今からやるから見てみる?」


 余計な心配をしているようだから、はっきり言ってやらないと……。

 このまま空気が悪いのも嫌だし。


「い、いいんですか?」

「包丁使うから、ちょっと離れて見ててね」


 そう言って、売り場から持ってきたサンマをまな板に並べる。


「知ってるかもだけど、三枚おろしは全部の魚に仕えるテクニックだね。手順はカツオだろうが、サバだろうがアジだろうが全部変わらないから」

「そうなんですか?」


 白河しらかわさんが興味深そうに俺のまな板の上を見つめる。


「アニサキスって知ってる? サンマにいる寄生虫のことなんだけど」

「き、寄生虫!?」

「うん、それがいるからサンマのお刺身とかイカのお刺身を作るときは気をつけないといけないんだ」


 アニサキス……、白いうねうねした気持ち悪いやつ。

 寄生虫の一種で、これを取り除くのを忘れて食べちゃうと食中毒になる。


 だから、さっき江尻えじりさんに言った一言は決してお礼を言われるようことではないのだ!


「ちなみにこれを食べて食中毒になると相当痛いらしいよ。俺はなったことないけど」

「痛い!?」

「胃が噛まれているみたいなだっていうね。地獄を見るらしい」

「えぇえええ!?」


 そんな説明をしながらサンマを三枚におろしていく。


 右身と左身と中骨に別れるからおろし。


 元は魚にも料理にも興味がなかった俺は、この仕事をやるまで三枚おろしの意味すら知らなかった。


「それでね、皮を引いてくの。頭のところに包丁で切り込みを入れてから、包丁の背でビッと引くと簡単にできるんだ」

「す、すごい手際ですね」


 サンマの皮を引いて、サクを作る。後は刺身用に切るだけだ。


「と、大体こんな感じ!」

「鮮魚部門の人ってこれを当たり前にやってるんですね……」

「うん、白河しらかわさんには特別に見せたから」

「え?」

「俺、切るの下手くそだからあんまりこういうのを人に見せたくないんだ」


 チーフを名乗っているからには、もちろんひと通りの切り方はできる。


 だが、その一つ一つのクオリティは全くベテラン勢には及ばない。


 専門用語で歩留ぶどまりという言葉がある。


 最初のお魚の重量が100gとすると、今みたいに頭とか皮を落としていってしまうと、最終的に食べられる場所は20gくらいになってしまう。


 この最終的な可食部分を歩留ぶどまりという。


 これは完全に個人の技量に直結するところだ。


 俺が最終的に20gになってしまうとすると、ベテランの小西こにしさんに切ってもらえば30gになったりする。


 こと技術に関しては、三枚おろしは小西こにしさんのほうが上手に切れるし、刺身は山上やまがみさんのほうが綺麗だ。


 ……俺は不器用だから、ひと通りの技術を会得するのにものすごく時間がかかった。


 チーフをやるようになってから、自信がない部分を部門員に見せるのは良くないと思ってずっと隠していた。


 仕事上で誰かに教えるとき以外は、積極的に誰かに見せようとは思わなかった。


「チーフって弱点を見せちゃダメかなぁと思ってたから。だからこういうこと言うのはさんだけが特別」

「……」

「だから、あんまり心配しないでよ」


 俺がそう言うと、白河しらかわさんが申し訳なさそう顔で俯いてしまった。


「す、すみません……私って自分で思ったよりもやきもち焼きみたいで……」

「やきもち?」

「チーフが他の女性と話しているとすごく嫌な気持ちになっちゃって……」

「そっか、じゃあ一緒だね」

「一緒?」

「俺も白河しらかわさんが誰かにセクハラされたりするの絶対に嫌だからさ」

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