竜使いの民 〜竜征杯と黒い竜〜
城 龍太郎
第一章 竜に乗る少年
第1話 少年は笑われる
空を飛ぶのは何よりも楽しかった。
街の喧騒から離れ、風を切って、自由に飛び回るのだ。もちろん人間が空を飛べるわけはなく、そのピンク色の鱗肌の背中に乗っているだけではあるのだが、それでも彼は相棒であり親友ともいえるその竜を深く信頼しており、どこまでも飛んで行けるのだという万能感さえあった。さらに高度を上げれば、飛び交う鳥たちの背中を見下ろしながら、近づいてくるひんやりとした雲を肌で感じ、そこは厳かな聖堂の雰囲気にも近しい神聖さがあり、彼の心を落ち着けさせてくれる。嫌なことがあったときもこうして飛んでいれば、どれもすっと消えていった。
オレンジ色に染まった空とは反対の方から白い月が昇ってきた頃、目下には明かりの灯りだした街灯やレンガ造りの建物が立ち並ぶ街が見えてきていた。
さらに街に近づくにつれて、彼の乗っているものとはまた別に、多方面からその翼をはためかせて帰ってくる竜の姿が見える。獰猛な顔つきのものもいれば賢そうなものもいたが、共通しているのはその大きな口には轡を嵌め、背中には手綱を握った人間が乗っていることであった。個体によっては積み荷も載せていた。そのうちの緑色で長いしっぽに小包を巻き付けた竜が近づいてくると、そこに乗っていた男が手をあげる。
「よう、クロード」
「お疲れ様です。ラッフェルさん」
クロードは軽く頭を下げる。
「お前も今帰りか。だいぶ遅かったな」
ラッフェルがそう言うのは、クロードの行き先が彼とは違って近い場所であったからだ。
「届け先の家の方が留守にしていたので、向こうの詰所に預けに行っていたんです」
「そんなの適当に家の前にでもほっぽっておけばいいだろ」
「そんなことをしたら、荷物が盗まれてしまうかもしれないじゃないですか」
「それはいなかった向こうの落ち度さ」
もし仮にそうなれば自分が持ち逃げしたと思われるのではないかと言い返そうともしたが、それぞれの竜が降下していくところだったので止めた。どちらも人が乗っていることに慣れているが、ラッフェルの乗る竜が角度をつけて勢いよく降りるのに対して、クロードの方はとても滑らかな動作で、風圧は軽く、ヴェールに包まれるようにふんわりと風を感じさせながらゆっくりと下降する。そうして背の高い大きな煙突が目印の建物の玄関口の前に降り立った。
「ただいま戻りました」
営業時間中であれば開けっ放しになっているはずの引き戸を開けて詰所に入ると、すでに戻ってきていた配達員たちが、受付の奥にあるいくつかの大きなテーブルを囲み、酒の入った木のジョッキを片手に騒いでいた。
クロードはそのまま茶色の肩掛け鞄と勇ましく飛翔する竜を操る人間の姿が描かれた意匠が入った帽子を受付のカウンターに置くと、鞄から領収書を取り出し、それを受付の横の棚にある箱の口に差し込む。それから鞄の中から今日行った街で受け取った別の人宛ての小包と手紙も取り出して、大きな棚に幾つも置かれた包みの横に宛名の書かれた面を前にして置いておく。そして明日の配達場所を確認するためにきっちりとした文字で埋め尽くされているカレンダーをちらりと見てから、「お疲れ様です」と小声で言ってひっそりと詰所から去ろうとした。
しかし彼が引き戸に手をかける直前、外からガラリと開けられ、香ばしい匂いと共に彼の目の前にほくほくの芋とまだじゅわじゅわと音を立てている分厚いベーコンが入った大皿が現れ、危うくそれにぶつかりかけた。
「おい、持ってきたぞ」
それは近場にある飲食店のものであり、配達員の誰かが仕事終わりにこうして詰所に持ってきては飲みのつまみにするのが恒例となっている。わざわざそうするのも、この大人数で店に押しかければ席がほとんど埋まってしまうからであろう。
「よっ、待ってました」
「おせえぞ、もう先に飲んじまっているぜ」
「悪い悪い。持ってくる途中で厩舎の前を通った時に、竜どもがせがんできやがってな。うるさかったから一皿やっちまって買い直してきたんだよ」
「おいおい、前にも言っただろ。厩舎は避けて通ってこいって」
「そうだったか? まあいいじゃねえか、あいつらが働いてくれているおかげで俺たちもこうして飯にありつけているわけだしな。おっ、クロードじゃねえか。どうした、こんなところに突っ立って。腹が減って待ちきれなかったのか」
目の前で立っていたのだから当然と言えば当然であったが、クロードに話が飛んでくる。
「いえ、もう帰るところです。あいつも外につないで待たせているので」
「おいおい、そんなつれないこと言うなよ。一日の仕事終わりに飲む酒が一番うめえんだぞ」
「いや、僕は飲めないから」
「俺がお前の歳の頃には、ビールやウイスキーを毎晩浴びるほど飲んでたぜ。当時は飲みすぎて吐くことも多かったがな。それに、もっと食わねえといつまで経ってもでかくなれねえぞ」
「背は伸びているよ」
実際のところ、クロードにはやや遅めの成長期が来ていたが、思ったよりも背が伸びないことに悩んでもいた。
「いいからちょっとは付き合えって」
結局、クロードは引きずられるようにして詰所の奥に連れていかれる。
「まだいけるだろ、クロード。酒なら余るほどあるからな」
「もう限界だよ」
エールやらラガーやらをジョッキで五杯ぐらい飲んでから、さらに数える間もなく配達員たちは次々とクロードのジョッキにあふれんばかりに注いだので、何杯飲んだかもう分からない。
「おまえが俺の頃はなあ」
「それを言うなら、俺がお前の頃はでしょ」
「うるせえ、いちいち細かいことを気にしてんじゃねえよ」
いよいよ周りの配達員たちも本格的に酔っぱらってきたのがその酒臭い息と赤ら顔から分かり、だる絡みがさらに悪化して手に負えなくなっていたが、クロードはそこからさらに追い打ちをかけられる。
「そういや、まだ目指しているのか。あれ」
クロードはあれが指すものを瞬時に察し、すぐにでもこの場から逃げ出したかったが時すでに遅く、案の定「おっ、また熱く語ってくれるのか?」と別の話をしていた他の配達員たちまでも聞きつけてくる。
「何のことを言っているのか、さっぱり分からないけど」
「とぼけんなって。竜征杯に憧れる気持ちは分からないわけでもねえよ。でもまあ、おまえぐらいの歳になってもまだ言っている奴は見たことなかったけどな」
「いやいや、さすがに竜使いであっても普通の人間ならそんな大それたことは考えもしないだろ。あのレースは名家が面子をかけて挑むものだぜ。速くて屈強な竜と乗り手たちがこぞって参加するんだ。俺たちみたいなちょっとばかし竜に乗れるだけの奴が優勝するなんて、天と地がひっくり返りでもしないと無理なことさ」
それが真っ当な反応なだけに、クロードは何も言い返すことは出来ない。まだ配達員になって間もない頃、こうして無理やり飲まされた際に、うっかり口を滑らせてしまったのだ。それ以来ずっとその話は彼らの酒の肴にされており、最近になってようやく飽きてくれたかと思いきや、またこうしてぶり返されてしまった。
「帰りが遅くなったのも飛ぶ練習をしていたからだろ。竜征杯でもあの街の近くを通るもんな」
先ほど詰所に帰る際に出会ったラッフェルが口を挟んでくる。
「違うって」
否定しながらもそれが図星であるのは誰の目から見えても明らかであり、周りはドッと沸き、ゲラゲラ笑い出す。
「まさかまだ本当に出るつもりだったとはな。いやはや、御見それ致したぜ」
「そんな夢見がちな子どものまんまだから、女遊びの一つもしねえでやんのか」
「いやいや、毎日べったり肌を重ねてるじゃねえか。ちっちゃくて華奢なお姫様によ」
「確かにあれはお姫様だな、ちげえねえ。とても運び屋の竜とは思えねえよ。あの滑らかな肌と驚くほど綺麗な流線形を描く背中といい、見世物小屋かなんかで働かせた方がよっぽど稼げそうなもんだ」
「えっ、おまえ。そういう趣味があるのかよ。そそるのは分からないでもないけどよお」
「いやいや、俺の趣味じゃねえよ。そういうお前の方がやばいんじゃねえか」
好き放題にしかも下品なことまで言われてさすがにムッとしたクロードは「荷物はちゃんと運べているし、身体が小さい分、路地の奥まで入れたりして、細かな動きが上手いんだ」とせめても言い返すが、それを聞いた配達員たちはさらに腹を捩じらせて笑い転げる。
「あの竜でレースになんか出場したら、二人とも死んじまうんじゃねえか。毎回、重傷者が何人も出て、ゴールまで辿り着けるのは数人しかいないだろ。あれは審判や観客の見えないところでの蹴落とし合いのせいなんだぜ。だから優勝を狙う奴らは、皆自分の配下の家や協力してくれそうな竜使いたちを集めて隊列を組むんだ、自分の身を守るためにな」
「それぐらい分かっているよ」
「いや、おまえは分かってない。今回は国王選挙の年なんだぞ。奴らは本気で挑んでくる。国王自ら出場することはないが、王子や選挙に立候補する奴らの息子や親類どもが必ず出てくるし、そこで問われるのは竜を乗りこなす能力よりもむしろ政治力さ。レースで勝てるように根回しも出来ない奴らに国を任せられるかって話だ。逆に言えば、レースで他の家をねじ伏せて勝てば、選挙において大きなアドバンテージとなる。実際、選挙がある年はほとんどの場合、レースで優勝した人間の家の主が当選している。今の国王だって昔竜征杯で優勝したんだ。だからこそ、俺たち竜使いの民の王として相応しい。だからな、俺たちみたいな大して金も地位も人脈もない人間が割って入る隙なんて、微塵もありゃしねえのさ」
今言われたこともクロードは当然知っていたが、選挙のあった年のレースはまだ一度も見たことがないので口をつぐむしかなかった。
「まあまあ、そんなに言ってやるなよ。夢を見るぐらい、別に良いじゃねえか。俺だってアイーナちゃんと結婚するのを夢見てるぜ」
アイーナとは先ほど彼が持ってきた食べ物を出している飲食店の看板娘のことだ。長い金髪に愛らしい顔で別嬪だとこの辺りでは有名で、名家の御曹司からも結婚の申し出があったと聞くほどだ。
「あはは。それはこいつが竜征杯で優勝するぐらい無理な話だな」
「そいつは言いすぎだろ。俺にもチャンスはあるはずだ。さっきも俺が行ったら笑顔だったぜ」
「そりゃあ俺たちが毎日金を落としてくれる良い客だからだろうな」
そこでまた配達員たちは笑い声をあげる。そんな彼らをよそにクロードは一人黙って外に出て行くのだった。
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