第25話 学園生活最後の日

「この学園で学んだことは、私たちのこの先の人生において大いなる糧となるでしょう――」

 卒業生を代表して挨拶をするアルベルトの、しっとりとした低音の美声が講堂に響く。

 本格的な夏に向かい、強さを増す日差しと、どこまでも青い空、そして濃い緑。

 自然と生命の力強さを感じられるよく晴れた日に、ルチアたちは学園を卒業した。


「この休暇中、君たちはアルメリアに行くんだっけ?」

 下級生たちに制服のローブやらタイやらを記念にとねだられ、シャツとパンツのみという軽装になったフリオが、ルチアとアルベルトに問いかけた。艶めく髪が白いシャツの肩を滑る様が婀娜めいて見える。

「そう。今度こそ、月待ち草が咲くのを見てくるよ。この前はまだ水が冷たくて無理だったけど、今度は海にも入れるだろうし。フリオも来たらいいのに。相変わらず、お誘いを受けたご令嬢たちのところを転々とするの?」

 休暇の計画を立てた際に、アルベルトがフリオもアルメリアの別邸に誘ったのだが、フリオは、今回は二人で行っておいで、と誘いを断っていた。


「うん。尚書官になったら、遠方へのお出掛けはそうそうできなくなるだろうからね。最後にしっかり羽を伸ばしてくるよ。せっかく王太子殿下から賜った大型のコーチも、あれ以来使っていないからもったいないしね。あ、来年の夏期休暇は、アルベルトの別邸にお邪魔する予定だから、よろしくね」

「来年同じ時期に休暇が取れれば、だがな。一月以上の長期休暇はこれが最後だからと、羽目を外し過ぎるなよ。あまりご令嬢たちを惑わしてばかりだと、王城でその親たちと働くようになってから苦労するぞ」

「はいはい。わかってますよ」

 笑顔のフリオに、アルベルトが釘を刺す。この日常の一部だった光景も、これからは目にする頻度が減ってしまうのだろう。

 ルチアはその宝物のような光景を瞼に焼きつけるかのように、微笑みを湛えながら二人の様子を見つめていた。


 その夜。卒業パーティーのため、ルチアを寮の前まで迎えに来たアルベルトは、姿を現したルチアを見て息を飲んだ。

「ルチア、すごく綺麗だ。ドレス、とても似合っている」

 ローズピンクに翡翠色のリボンがあしらわれたドレスは、アルベルトから贈られたもの。いつもはおろしているストロベリーブロンドはサイドアップにまとめられ、可憐さのなかに艶やかさが覗く、大人の女性を感じさせる美しさだ。


 ヘアアレンジやメイクは、同室のミアと事前に何度も予行練習をして、お互いにセットし合った。髪にあしらったラインストーンが輝くヘアアクセサリーは、ミアと一緒に選んだお揃いのものだ。

 ミアは今夜、二年間同じAクラスに在籍していた男子生徒からお誘いを受けており、一足先に迎えに来た彼にエスコートされていった。

 お相手はミアもずっと気になっていた彼とあって、きっとそちらも思い出深い夜になることだろう。


「ありがとう…。アルも…すごく素敵だよ」

 率直な褒め言葉に、ルチアは照れくさそうにアルベルトを見上げた。

 アルベルトはその長身を濃藍のタキシードで包み、瑠璃色のタイを締めている。上品な美貌が引き立ち、立っているだけで注目を集めてしまうことは必至だろう。


「綺麗過ぎて、他の男に見せたくないな。パーティーなんてやめて、このまま二人でどこかに行ってしまおうか」

 甘い瞳で見つめられ、ルチアは頬を薔薇色に染める。

「だ、駄目だよアル。フリオも待ってるでしょ?」

「フリオなら令嬢たちに囲まれてるだろうから、心配ないだろう。そんなことよりも僕はルチアを独り占めしたい」

「――あっ…」

 白く細いうなじに唇を寄せられ、ルチアはぴくり、と震えた。あっという間にうなじも桜色に染まっていく。ルチアはぱっと両手でうなじを隠すように覆うと、潤んだ瞳でアルベルトを睨んだ。

「アル、駄目だってば…。パーティーに遅れちゃう」


 アルベルトの瞳が恍惚に揺れ、吸い寄せられるようにルチアに顔を寄せる。目の前に迫ったアルベルトの瞳に魅入られ、ルチアの瞳も揺れる。

「ああ。怒っているルチアも可愛いな。本当にこのまま連れ去ってしまいたい…」

「アル…今は駄目」

「――わかった。今は我慢する」

 流されまいと必死のルチアに、子犬のように濡れた瞳で抗議をされ、アルベルトはすっと姿勢を正し、こほん、と咳払いをした。仕切り直すように大きく息を吐くと、すっとルチアの前にエスコートの腕を差し出す。ルチアもほっとした面持ちでその腕を取った。

「絶対に僕のそばを離れちゃ駄目だよ」

 アルベルトはルチアが自分の腕に添えた手に反対側の手を重ね、ぎゅっと握りしめて笑うと、会場となる学園のホールに向かった。


 パーティー会場では、すでにフリオが女生徒たちに囲まれていた。

 光沢を帯びた銀鼠のタキシード姿が華やかな魅力を引き立て、そこだけ輝いて見えるほどに目立っている。ルチアたちに気づくと、フリオは自身を取り巻く女生徒たちに挨拶をして二人のもとにやってきた。

「ちょっとごめん。皆、また後で一緒に踊ろうね」

 彼女たちのそばを離れる前に、ちゃんと笑顔で流し目をする気遣いを忘れないのがフリオらしい。


「わあ、ルチア、綺麗だね!さすがアルベルトの見立てたドレスだ。よく似合ってる」

「ありがとう。フリオもかっこいいよ。ダンスが始まったら、休む暇がないんじゃない?」

「そうだねー。ダンスを申し込んでくれた子とは、全員と踊ってあげたいからなぁー」

 フリオはしたり顔で前髪を掻き上げ、にっと笑った。やれやれ、という顔でアルベルトが溜息をつく。

「ほどほどにな」

「わかってるって」


 パーティの開催を告げる学園長の挨拶が終わり、乾杯の後にダンスタイムが始まった。

「僕の美しい人、踊っていただけますか?」

 アルベルトが恭しくルチアに手を差し出す。

「喜んで」

 ルチアも微笑んでその手を取った。


 学園一麗しいカップルのダンスは一際目を惹き、周りで踊っている者たちですら、ステップの合間にちらちらと視線を送っている。

 幼い頃から婚約者として一緒にダンスを練習することも多かった二人は、息もぴったりに、流れるようなステップを踏んでいく。

 ルチアの髪がなびき、ドレスの裾が揺れる様子は溜息が出るほどたおやかで美しく、そんなルチアを包み込むような瞳で見つめながら、華麗にリードするアルベルトは優雅で高貴だ。

 まるで二人のところにだけスポットライトが当たっているかのように煌めいていた。


 曲が終わりお辞儀をするなり、二人への賞賛の拍手が起こった。長い拍手が途切れるなり、アルベルトにもルチアにも次々に誘いの声がかかる。皆最後の思い出が欲しいのだろう。

「悪いが、ルチア以外と踊る気はない」

 アルベルトに声をかけた者のなかにはマリアローザもいたが、アルベルトはきっぱりと全員の誘いを断ってしまった。


「もしかして、前に私がアルの身体が他の子に触られてたの嫌だったって言ったせい…?」

 ルチアが小声で不安気に問いかけると、アルベルトは不思議そうな顔をして首を傾げた。

「いや?そもそも僕は最初からルチアとしか踊る気はなかったよ?僕がルチア以外の女性となんて踊ると思う?」

「そ、そっか…。それならいいんだけど」

 当然のように言い切るアルベルトに、ルチアはこっそり安堵する。


 アルベルトがいなくなってしまう前は、あまりに他の女性と関わろうとしないアルベルトを案じ、今後のためにそれでいいのかと悩みもしたが、実際にアルベルトが――正しくはアルベルトの身体にいたミナトだが――他の女性に囲まれている姿を見てしまってからは、自分以外の女性といるところを見るのが怖かったのだ。

 アルベルトと最後の思い出を作りたかった女生徒たちは多かっただろうから、彼女たちには申し訳ない気持ちもあるが、一度この気持ちを知ってしまったら、もう二度と同じ思いはしたくなかった。

『私…余裕ないなぁ…。前よりも欲が深くなっちゃった…』

 ルチアは自分の狭量さを恥じるように、小さく溜息をついた。


「もしかして、僕が他の子と踊るかもって心配した?」

 アルベルトに困ったような顔で覗き込まれ、ルチアは慌てて首を振る。

「ううん!違うの!いや…違わないのかな…。アルのことはもちろん信じてるけど、やっぱり他の子と踊るところは見たくなかったみたい。アルの姿でミナトが他の子たちに囲まれてるのを見て、アルじゃないってわかってても辛かったって話をしたよね。私、それを見て初めて気づいたんだ。アルはずっと、私に嫉妬とかとは無縁な環境を作ってくれてたんだなって。私を嫌な感情から遠ざけていてくれてありがとう。私が子どもだったから、これまでアルの配慮に気づいてなくてごめんね」

 アルベルトはルチアに謝られ、驚いたように目を見開いた。


「今までも、別に無理して他の女性と距離を置いていたわけじゃないよ?僕がルチアとしかいたくなかっただけのことだ。僕が愛していて大切にしたいのは、ルチアだけだ。もちろんルチアを守りたい気持ちはあったけど、それを差し引いても、他の女性と関わらなくていいのなら一切関わりたくない。時間も気持ちも、ルチア以外に割くのはもったいないとすら感じている。そういう自分の正直な気持ちに従ってきただけのことだから、お礼を言われることでも謝られることでもないよ。むしろ、僕の気持ちが重すぎて、ルチアの負担になっていないかが心配だった」

 当然のように言ってのけたアルベルトの顔を見て、今度はルチアが目を見開いたまま固まってしまった。


「え…と…そう…なの?」

「そうだよ。僕の気持ちや性格なんて、ルチアはとっくにわかってるはずでしょ?――でも、そうか。嫉妬したんだ。ルチアに悲しい思いをさせたくはないけど、嫉妬してくれたのはちょっと嬉しいかも。今まで、嫉妬してたのは僕だけだったから」

 アルベルトが少し意地悪な笑みを浮かべ、ルチアの耳元に顔を寄せる。

「ルチアも、他の男となんて踊っちゃ駄目だよ。僕が嫉妬しちゃうから。僕の嫉妬は重いから、ルチアを僕の部屋に閉じ込めて、誰にも会えなくしちゃうかも」

 耳元で囁かれ、ルチアは真っ赤になって耳を押さえた。アルベルトはルチアの反応を見て、嬉しそうに目を細めている。本気なのか冗談なのかわからない。

「おっ、踊らないよ!約束してるからフリオとだけは踊るけど」

「そうだね、フリオは仕方ない。僕がいない間、頑張ってルチアを守ってくれたから、一曲だけ特別に許すよ」

 アルベルトは焦るルチアの頬を愛おしそうに撫でて、くすりと笑った。


 ホール中に灯された魔法灯の灯りが、ほわりと優しく、特別な夜を楽しむ卒業生たちのきらきらとした表情を照らし出している。

 ルチアはその後フリオと一曲踊り、アルベルトとまた数曲踊った。

 途中、パートナーと嬉しそうに踊るミアに手を振り、ほとんど休みなく誘いを受けて踊るフリオに飲み物を差し出し、アルベルトと寄り添って楽し気な皆の顔を眺めた。

 学園生活最後を彩る宴の夜は、眩い思い出と弾ける笑顔とともに更けていった。

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