第21話 取り戻した日常

「こんなとこにいたのか」

 アルベルトに大胆な発言をしてしまった恥ずかしさのあまり、部屋を飛び出して庭園の片隅でしゃがみ込んでいたルチアに、探しに来たカルロが声をかけた。

「お兄様…」

 ルチアはまだ火照ったままの頬を隠すように手のひらで覆い、カルロを見上げる。カルロはそんな妹の様子に笑みを浮かべながら、隣にしゃがみ込んだ。


「アルベルトが戻ってきて、本当によかったな」

 これまでずっと頑張り続けてきた妹を労うように、頭を撫でる。

「うん…。本当に、本当によかった。お兄様、いっぱい助けてくれて、本当にありがとう」

「可愛い妹のためだ。当たり前だろう。それに、俺にできたのはサポートくらいだ。お前が必死に頑張ったから、アルは帰ってこれたんだよ」

「ううん。お兄様が支えてくれたから頑張れた。それに、フリオやジュリアーノさん、ミナトも。皆がいてくれたからだよ」

「ああ、そうだな。皆にもしっかりお礼をしないとな。大事な妹と未来の義弟のために、皆手を尽くしてくれたんだから」


 ルチアはカルロの言葉に頷いた。

 頬の火照りもようやく落ち着いてきて、ルチアはいたずらっ子のような瞳でカルロを見上げる。自分だけが恥ずかしい思いをしてしまったので、兄も巻き込んでやろう、とでも言うように、にこっと笑った。

「アルは…私の婚約者は帰ってきたから、今度はお兄様の番だね。お兄様はこんなに優しくて素敵なのに、どうして運命のお相手には巡り会えないのかな」

「だから、俺のことはいいんだって…。どちらにも気のある素振りなんて見せたこともないのに、勝手に盛り上がってどっちが俺に相応しいかって、夜会で髪引っ掴んで争い合うご令嬢たちを目の当たりにしてみろ。当分婚約者なんて考えられなくなるから」

「わあ…。それはトラウマになるね」

「だろう?だから今は可愛い妹が幸せな花嫁になるところが見られれば、それでいい」

「早く傷が癒えて、私にとってのアルみたいな人が見つかるといいね」

「そうだな」


 冗談を言って笑い合うと、二人はどちらからともなく口を噤んで美しい花が咲き誇る庭園を眺めた。

 アルベルトが事故に遭った後の様々な出来事が自然と思い出される。不安に駆られくじけそうになっても、アルベルトを取り戻せると信じて努力し続けることができたのは、カルロたちがいつもそばで支えてくれたからだ。

『お兄様…本当にありがとう…』

 感謝の思いを、ルチアは再度噛み締めた。


 しばらくそうして風に揺れる花を眺めていたカルロが、立ち上がって伸びをした。

「よし、戻るか。アルベルトが心配するぞ。さっきも追いかけていけない自分が恨めしいって言ってたんだから」

「ふふ、アルったら。恥ずかしがってた私が馬鹿みたいじゃない」

 ルチアも立ち上がると、海からの風が額を撫でた。春めいた日差しがあっても、これ以上外にいては身体が冷えてしまいそうだ。せっかくアルベルトが帰ってきたのに、恥ずかしかったくらいで風邪を引いてしまったらもったいない。


「お前がどれだけ辛い思いをしながら頑張ってきたかは、皆知ってる。人の目なんて気にせず、ずっと会えなかった分を取り戻すくらいいちゃついてこい。フリオたちは俺が連れ出してやるから」

「お兄様ったら、すぐそうやってからかうんだから。――でも、ありがとう」

「ああ」

 仲のいい兄妹は、肩を寄せ合って邸内に戻った。


「ルチア、おかえり」

 部屋に戻ってきたルチアを見て、アルベルトが安堵したように微笑む。

「うん、ただいま」

 ルチアは少し照れた表情を浮かべながら、先程まで座っていたベッドサイドに置かれた椅子に腰掛ける。

「さあ、俺らは下でワインでもいただこう。海の幸をふんだんに使った肴を用意してくれてるらしいから」

「いいなあ。僕も一杯だけ飲んでもいいかな」

「フリオはまだ駄目だ。お前はジュースで我慢しろ」

「ええー。皆ずるいなー」

「ずるくない」

 カルロがフリオたちを追い立てるようにして部屋から出て行く。ドアを閉めながら、ルチアににやりと目配せをしていった。


「お兄様ったら…」

 また少し頬を赤らめながら呟いたルチアの手を、アルベルトが再び握った。

「ルチア。長い間辛い思いをさせてしまって本当にごめん。ルチアが僕のために、どれだけ頑張ってくれたか聞いた。最後に会った時よりも、少し痩せたね。君を守るどころかこんな辛い目に遭わせてしまって、僕は情けない婚約者だな」

 ルチアの細い手首を見て、アルベルトは苦しそうに顔を歪める。

「アルに会えなくなって、本当に寂しくて辛かった。いっぱい泣いたし、眠れない夜もいくつもあった。だけどね、アルに会えなくなってしまったからこそ気づいたことも、本当にたくさんあるの。アルがいつも、どれだけ私を思ってくれていたのか、考えてくれていたのか、アルがいない間もずっと感じることができたよ。私の周りの其処彼処にアルの気配や思い出があったから」

 ルチアはアルベルトの手を両手で包み込む。


「アル、大好き。これからは、またずっと一緒。もう絶対に離れないように、こうやって手を握っていてね」

 アルベルトはルチアを引き寄せ、その柔らかな髪をそっと掻き上げた。

「離すもんか。やっとルチアのもとに帰ってこれた。こうして触れて、抱きしめることができる。これがどんなに幸せなことか」

 熱い思いに瞳を潤ませ、ルチアの唇にそっと自分の唇を重ねる。

「ルチア、愛してる。もう二度と一人にはしないから」

 アルベルトは、こくりと頷いた瑠璃色の瞳に自分の姿が映っていることを確認するように覗き込むと、再び深くキスをした。



 翌日には、アルベルトの両親ベニーニ侯爵夫妻も別邸に到着し、涙を流して息子との再会を喜んだ。

 侯爵が持参したベニーニ侯爵家秘伝の回復薬により、アルベルトはその日のうちに杖をついて邸内を歩き回れるほどに回復。 

 翌々日には、学園があるため一足先に王都に戻るフリオと、同じく仕事のため先に戻るジュリアーノと医師、彼らと一緒に戻ることにしたミナトを見送るために、自らの足で外に出た。

 フリオたちは日が暮れるまでに王都に着けるよう、朝食後すぐの出発を決めた。


「アルの身体が完全に回復したら、私たちも王都に戻るね。そしたら、フリオと一緒に学園を卒業できるように頑張るからね」

「ふざけた噂を払拭するためにも、できる限り早く学園に戻る」

 見送りの際、ぎらりと瞳を光らせたアルベルトに、フリオは苦笑いしながら手を振った。

「二人とも、学園で待ってるよ。アルベルト、学園にはアルベルトの記憶が戻って、ルチアとも円満だってちゃんと広めておくから、とにかく穏便にね」


 ミナトは馬車に乗り込む前に、ルチアの顔をちらりと見た。しかし、その視線に気づいたルチアがにこっと微笑みを返すと、何故か焦ったようにすいっと目を逸らしてしまった。

 その様子を不審に思ったルチアが、ミナトに声を掛ける。

「ミナト?私が見てなくても薬はちゃんと飲んでね?不味くても勝手にやめちゃ駄目だよ。ジュリアーノさんに魂の状態を確認してもらうのも忘れないでね?」

 ミナトの魂の状態はかなり安定してきているが、時折不安定になることがあるため、まだ薬の服用は続いていた。

「お前は俺の母親か。ちゃんと飲むから安心しろ。俺のことなんかより、しっかりアルベルトの面倒見てやれ」

 見当外れのルチアの言葉に、ミナトが少しむっとしたような表情を浮かべた。

「え?うん、もちろんアルにもあの薬は飲んでもらうよ?」

 きょとんとした表情を浮かべたルチアを見て、ミナトが面白くなさそうに溜息をつく。

「まあ、その鈍さがお前だよな…。おっと、アルベルトが怖い顔してるから、もう行くわ。アルベルト、心配するようなことは何もないぞ。この通り俺はまったく意識されてないから」

 ルチアの後ろから美しい顔で凄みを効かせていたアルベルトの視線から逃れるように、ミナトも馬車に乗り込んだ。


「皆、本当にありがとう!道中お気をつけて」

「本当に世話になった。ありがとう」

 馬車が小さくなっていくのを、ルチアはいつまでも手を振って見送った。アルベルトも少しだけ手を振り、馬車が見えなくなってルチアが手を振り終わるまで、その隣で一緒に見送りをした。


「さぁ、アルはリハビリ頑張ろうね。今日は外をお散歩しようか」

 ルチアがアルベルトを見上げると、アルベルトは先程までとは打って変わって柔らかな笑みを浮かべ、ルチアを後ろから抱きしめた。

「ア…アル?」

 すっぽりと包まれるように抱きしめられ、ルチアが頬を染めながら困惑の声を漏らす。

「少しだけ、こうさせて?」

「う、うん…」

 甘えたような声で請われ、ルチアは照れながらも頷く。後ろから回されたアルベルトの腕に、そっと手を添えた。


 アルベルトはしばらくルチアの髪に頬を埋めるようにしてぎゅっと抱きしめていたが、やがて大きく息を吐いて顔を上げた。

「ありがとう。僕はちゃんと帰ってきて、実体を持ってルチアの隣にいるって、実感できた。――ルチアは僕のものだ。誰にも渡さない」

 小声で呟かれた最後の一言は、ルチアの耳には入らなかったようだ。ルチアはアルベルトの腕の中でくるりと向きを変えると、アルベルトの瞳を覗き込んだ。

「うん。アルはここにいる。アルが帰ってきてくれたから、私もアルの腕の中に戻ってこれたよ」

 アルベルトはルチアの言葉に、心底嬉しそうに目を細める。

「そうだね。ルチアの居場所は、ずっと僕の腕の中だよ。もう絶対に離さないし、離してあげないからね」

「ん?うん。私からは、離れたりしないよ?」

『長く離れていたから不安なのかな?アルが前よりも甘えん坊な気がする。何だか可愛い』

 アルベルトの深すぎる愛と独占欲を知ってか知らずか、ルチアは首を傾げながら、どことなく黒さを纏ったアルベルトの美しい笑顔を見上げた。


「さあ、午前中は散歩をして、午後は勉強をしよう。学園の勉強ももちろんだけど、薬の論文も書かないと。僕の調合した薬と、ルチアの調合した薬も比較させてほしいんだ」

 強引に自分を現実に引き戻そうとしているかのように、ルチアから身体を離してアルベルトが言った。穏やかな笑顔を見て、ルチアが安堵の笑みを浮かべる。

「ふふ、いつものアルだ。でもまだ、無理は禁物なんだからね」

「我が家の回復薬はよく効くんだよ?」

「それはもちろん知ってるけど。とにかく無理は駄目」

「はい。仰せのままに」

 二人は笑い合いながら手を繋ぎ、邸内に戻った。


「アルベルトも大丈夫そうだし、俺も邸に戻るよ」

 邸内では、フリオたちを一緒に見送り、一足先に邸内に戻っていたカルロも、帰り支度を進めていた。

「父上たちにも梟は飛ばしたけど、直接アルベルトのことを伝えたいし、今後の仕事のことも父上と話し合っておかないといけないしな。ルチアはもう、アルベルトがいれば心配ないだろうし」

「そっか…帰っちゃうんだね…。ずっと一緒だったから、なんだかちょっと寂しいな」


 アルベルトの事故の連絡を受けてからずっと、カルロが一緒にいてくれた。もともと兄妹仲は良好ではあったが、この一年近くは、これまで過ごしてきたどんな時間よりも、カルロを頼もしく感じ、救われた時間だった。

「お兄様、そばにいてくれて、本当にありがとう。お兄様が支えてくれたから、アルを取り戻せたんだと思う」

 ルチアは少し寂しそうに、帰り支度を進めるカルロの手元を見つめた。そんなルチアの肩を、アルベルトが抱き寄せる。


「カルロ、ありがとう。本当に迷惑をかけた。また改めて礼に伺うが、ファール伯爵夫妻にもよろしく伝えてほしい」

「未来の義弟のためだぞ。そんなの当たり前だろ。そんなことより、ルチアを頼んだぞ。誰よりも頑張ったのはルチアなんだから」

「ああ。もう絶対にルチアを悲しませない。ずっと一緒にいる。今度は僕がルチアを守る」

 強い決意を宿したアルベルトの瞳を見て、カルロは安心したようにぽん、とアルベルトの肩を叩いた。

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