第8話 縋れない背中

 ミナトが退院する朝、ベニーニ侯爵とともにルチアも病院に向かった。

 対外的にはアルベルトのふりをすることになっているミナトは、今日一日ベニーニ侯爵家のタウンハウスに滞在し、明朝ルチアたちとともに学園寮に向かう。学園寮ではフリオが、校舎はルチアも一緒に、他の生徒が戻る前に、一通り案内することになっていた。


「ただでさえアルベルトを巻き込み、こんな前代未聞の事態を引き起こしてしまっているのに、勝手な要請をして申し訳ないと、第一王子殿下自ら頭を下げられてね…。どうやらこの件に関しては、側近たちが先走ったらしい。しかし、一度お受けした以上、こちらも最善を尽くすより他ない。奔放過ぎる第二王子殿下を王太子の座に就かせるわけにもいかないしな」

 先日、ベニーニ侯爵のもとに第一王子が直接謝罪に訪れたらしい。

 ベニーニ侯爵家としても、異世界人であるミナトにアルベルトの代わりが務まるとは到底思えないだろうが、国の将来を考え要請をのむことにしたようだ。苦渋の決断だったことだろう。

 第一王子側は今回のことで、ベニーニ侯爵家に大きな借りを作ってしまったことになる。アルベルトに関しては、研究所を挙げて力を尽くすと約束がなされたそうだ。


 要請をのんだとはいえ、ミナトの行いによりアルベルトに悪評が立ってしまい、魂が戻った後のアルベルトが身に覚えのない誹りを受けることは避けたい。

「貴族としての最低限のルールやマナーなどは、ミナトにも押さえておいてもらわねばならない。ルチア、すまないが、今日はフリオとともに学園生活についてミナトにいろいろ教えてやってくれないだろうか」

 ベニーニ侯爵に請われ、ルチアは病院からそのままベニーニ家のタウンハウスに同行した。


「お前、本当にアルベルトのことが好きだったんだな。これだけ嫌な目に遭わされても俺に付き添うのは、アルベルトのためだろ?」

 馬車を降り、少し距離を取りながら後ろをついて歩いていたルチアに、ミナトがいつもの棘のある口調で語りかけた。

「だった、じゃなくて、今もこれからも好きなの。アルは最愛の婚約者だよ」

 ルチアは迷いのない口調で答え、にっこりと笑った。ルチアの笑顔を見たミナトが、ふん、と面白くなさそうに鼻を鳴らす。

 まったく違う世界にたった一人。ミナトの孤独を思うと、どれだけ毒を吐かれても悪態をつかれても、少しでも心を許せる友人は必要だろうと案じてしまう。


「ご苦労なことだ。でも、そんなことを言ってたって、どうせこれから先も会えないとなれば、すぐ他に目移りするんだろ。女なんて皆そうだ。ああ、それとも、この顔をしていれば、中身は別人でも構わないのか。驚くほど綺麗な顔してるもんな、こいつ」

 ルチアのアルベルトへの気持ちが変わる前提で話しているような物言いをするミナトを、ルチアは真っ直ぐに見つめ返し、断言する。

「アルの外見だってもちろん好きだけど、それ以上にアルという人格を私は丸ごと愛しているの。アルがどんな姿をしていても関係ない。私にはアルしかいないよ」

「どうだかな」

 ミナトがルチアの曇りのない視線を避けるように目を逸らした。


「それに、これから先も会えないなんてことには絶対にならない。私が必ずアルを取り戻すから」

 ルチアはきっぱりと決意を口にする。そうすることで、改めて自分にも覚悟を決めさせるかのように。最近、ふとしたことですぐに不安になってしまう自分を奮い立たせるために、あえて前向きな発言をするようにしている。弱さに支配されないための、自分なりの儀式のようなものだ。

「そうかよ。まあ、せいぜい頑張るんだな」

 ミナトは吐き捨てるように言って、さっさとルチアに背を向け、邸に向かい歩いて行ってしまった。

 ミナトが女性に対して抱く不信感には、相当根深いものがありそうだ。


 ミナトのいた世界がどんな場所で、そこでミナトがどう暮らしていたのかは、時折気が向いたようにルチアの質問に応じるミナトから聞いた。

 ミナトのいた世界には、ルチアたちの世界と同じく宇宙があったという。

 その中の惑星のひとつである”藍”に、ミナトが暮らす国、暁はあるのだそうだ。王都があるのは夕星という都市で、ミナトは夕星にある、小さな工場の一工員だったらしい。


 一度だけ、ミナトが自分の身の上話をぽつりと漏らしたことがあった。カルロの話から、家族の話に話題が及んだ時だ。

 ミナトの両親は幼い頃他界し、兄弟もおらず天涯孤独だったようだが、婚約者がいたと言っていた。だが、婚約者はミナトを裏切り、ミナトを捨てて去っていった。それが、ミナトが召喚される一月ほど前の出来事だったそうだ。

 人は、特に女は信用できない、と吐き捨てるように言ったミナトの顔は辛そうに歪んでいた。


 婚約者という存在は、ミナトにとって裏切りの象徴も同然なのだろう。だからこそ、ルチアがアルベルトの婚約者だと聞いた時、わざとあんな下品な視線や言葉を投げてよこしたのかもしれない。

 信じていた人に裏切られたことが、今の人を寄せ付けない態度に繋がっていると考えると、納得がいく気がした。


 最も”藍”とこの世界が違う点は、藍には魔法が存在しないということだ。

 ミナトは魔力を持たない。医師たちが魔法を使って治療を行っている様子に、ミナトは最初かなり驚いていた。

 だが、藍には魔法が存在しない代わりに、技術水準が高く、魔法と同じような治療ができる医療機器や薬があるそうだ。ミナトが持っていた、未知の物質でできた板状のものも、遠く離れた相手とも通信ができる機械だと聞いた。


 ルチアはこの世界とのあまりの違いに、とても信じられない気持ちでいっぱいだった。

 魔力がないなんて、どうやって生活しているのだろう。ジュリアーノから、ミナトには魔力がないと聞いてはいたが、まさかミナトの世界に魔法自体が存在しないとは思わなかった。

「魔法がない暮らしって想像がつかないけど、そんな機械があるなら、きっと便利なんだよね?」

「少なくとも普段の生活で不便さを感じることはほとんどなかった。俺にとっては、魔法なんて非科学的なものに満ちている、この世界の方が驚きだ」


 この世界では、生まれた時から人は皆、魔力を持っていて、日常生活のなかで魔力を使いながら生きている。力の強さに個人差はあれど、まったく魔力がないという話は聞いたことがない。

 当然、すべての道具が魔力を持っていることを前提として作られており、魔力がなければ、何をするにもかなりの困難を強いられることだろう。

 ミナトは、その違いを身をもって体験しているのだ。突然、未知の力に満ちた世界に飛ばされてきてしまった不安は計り知れない。


「お前、本当にお人好しだな。ただでさえアルベルトの作っていた魔法薬とやらを再現しなきゃならないとかで、忙しいんだろうに。俺にまで構っている暇はないだろう」

 病院に顔を出す度にミナトに呆れられたが、いくらアルベルトのために忙しい身の上であろうと、ミナトを放っておくこともできないと思っていた。

『ミナトの魂もミナトの身体に帰れるように、そして元の世界に戻れるよう、その術を探らないと…』

 自分がどんなに不安や寂しさに打ちのめされていようと、どれだけの困難を背負っていようと、目の前に困っている人がいれば手を差し伸べてしまう、それがルチアだ。


『でも、まずはアルの研究を辿って、魔法薬を作らなきゃ。まだ私はスタートにすら立てていない』

 絶対に成し遂げると何度心に誓っても、それと同じだけ不安が押し寄せる。本当に、そんなことを自分ができるのだろうか。けれど、成し遂げない限り、アルベルトは戻ってこない。ミナトだって、元の世界に帰ることができない。


 目の前を歩く背中をじっと見つめる。

 すらりと背が高く、細身なのにしなやかな筋肉で覆われているアルベルトの背中。

 愛しい背中がすぐ手に届くところにあるのに、今その中にあるのは別人の魂。アルベルトはそこにはいない。

『私…本当にいつもアルに支えてもらっていたんだな。アルがいないと、寂しくてどうしたらいいかわからなくなるよ…』


 アルベルトと話がしたかった。これまでのことをすべて話して、あの優しい声で声を掛けてほしかった。励ましてもらいたかった。温かな手で、頑張っていると頭を撫でてもらいたかった。

『アル…会いたいな…。すごく、会いたいよ…。どうしてアルがここにいないんだろう…』

 ぎゅっと唇を噛みしめ、涙を堪える。これまで何千、何万回と心の中で唱え、今にも口をついて出てしまいそうになる言葉を、広い背中に後ろから抱きついてしまいたい衝動を、またぐっと飲み込んだ。

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