不思議の国

ある

私が殺した魔法使い

きっと何者にもなれはしないのだろう。と悟ったのは、高校生になる頃だった。夢を追いかけたところで、上には上がいて、理想と妄想だけでは生活が出来ないと諦めがついたのだ。


現実味のある夢を持とう。と決意したのは、ほぼ同じくらいの時期だった。教師、介護士、司書、学芸員、好きなものや必要とされているものを考えた。


結局、どれにもなれはしなかった。


幼い頃、あれだけ「夢を持て」と言ってきた大人たちは、中学に上がる頃には「現実を見ろ」と手のひら返し。


ぬいぐるみや絵本は、押し入れの奥に仕舞いこまれ、代わりに増える、参考書や自己啓発本。


淡くパステルカラーで彩られていた子供部屋は、いつしか、黒や白、茶色で彩られた大人な勉強部屋へと姿を変え、愛らしさより、実用性を重視するようになった。


これが普通で、一番正しい在り方だと、誰かに教えられたことは無いが、自らがそう感じていた。


今も実用性を重視した空間で、勉強机に向かい、『これで完璧!面接合格法』なんて本を読んでいる。


「無様だな。期待外れだった」


誰か声に、振り向くと猫のぬいぐるみが二足歩行で立っていた。


「アリスの見込みは外れたな。こんなのアリスの人生よりつまらないじゃないか」


猫は、続けて言った。


時計を見ると、真夜中の十二時を過ぎた所だった。


「何も覚えていないのも頷ける。まぁいい。今日は、最期のお茶会だ。お前がいなければ始まらない」


猫は、不機嫌そうな中に、諦めを滲ませた声音で言うと、消えてしまった。


私は……あの猫を知っている。そんな気がするが、何も思い出せない。


なんとなくモヤモヤする思考の中で、本に意識を戻そうと瞬きをした。



目を開けると、幼い頃の自室の真ん中に私は立っていた。パステルカラーで彩られ、夢と希望しかないような空間。

おかしい。さっきまで勉強机に向かっていたはずなのに。


「早かったな。何にも覚えていないくせに」


私の目の前に、さっきの猫が二足歩行で現れた。


「今日は、魔法使いの最期の夜だ。もう時間がない。早く着替えろ」


猫は、ピンク色のクローゼットを指差して言うと、「先に行く。着替えたら早く来い」と言い残して四足歩行でペット用の出入り口から、部屋を出て行った。


「来いってどこによ」


「可哀そう……あんなに大切にしていたことも忘れてしまったのね」


私の独り言に、窓辺のプランターに咲いた紫色のパンジーの花が返した。昔から、パンジーは嫌いだった。花の模様が顔みたいで薄気味悪い。


「あら、あたし達のことを綺麗で憧れるなんて言っていたのに、なぁにその顔」 


赤色のパンジーが言った。


「美しいものを忘れて育ってしまったのよ。仕方がないわ。それより、早く着替えて行きなさいよ。そっちの方が大事だわ」


黄色のパンジーが、他のパンジーを宥めるように、私を急かすようにそう言った。


私は、ピンク色のクローゼットの中に、一着だけ仕舞われていた、パステルブルーのワンピースを手に取った。


幼い頃の私が好んで身に着けていた色だ。ポケットにはパステルピンクのユニコーンのアップリケがついている。随分幼稚なデザインだ。


この年齢でこんな服を着るなんて、恥ずかしすぎてとてもできない。


別に今着ている服だって、パジャマというわけではない。昼間に参考書を買いに外に出たので、今のトレンドをある程度押さえた服装だ。


「どうしたの?貴女、そんな服好きだったじゃない」


「大きくなっても、おばあちゃんになっても、そんな服を着ていたいって言っていたでしょう」


紫色のパンジーと赤色のパンジーが、見透かしたように、責めるようにそう言った。


「大人になるという事は、すべてを捨ててしまう事。アリスがそう言っていたわ。貴女も大人になってしまったのね」


黄色のパンジーは、悲しそうに言った。


「貴方、そのお洋服気に入らないの?」


気に入らない。と言う訳ではない。ただ、普通に考え、可笑しいだろう。


「気に入らない訳じゃないけど、普通じゃないから。こんな服をこの年で着るなんて」


私は、普通で在りたいのだ。


「そんな風だから、アタシたちは消えてしまうのね。よく分かった」


「貴方はきっと、後悔するわ。」


 紫色のパンジーと赤色のパンジーは、顰め面のまま、話さなくなった。


「きっと、貴方は忘れているだけよ。思い出せないかもしれないけれど、それもどうしようもないことだわ。その服のままでいいから、行きなさい。扉は開かれている」


黄色のパンジーは、言いたいことだけを言うとそのまま話さなくなった。


私が、この空間からもとに戻るためには、進まなければならないらしい。


服は着替えず、扉に手をかけ、力を入れて押すと、重たい扉が木の軋む音共に開いた。


外に出て、扉が閉まる瞬間、振り返ると部屋の中で、パンジー達は茶色く枯れ、愛らしかったワンピースは汚い布切れとなっていた。



外に出ると、真っ白な兎が、驚いた顔でこちらを見ていた。両手でアンティークなティーポットを大事そうに抱えている。


「君は、あの子なのかい?」


兎は、驚き過ぎて眼球が零れ落ちるのではないかと思うほど目を見開いていた。


カチャッと陶器の擦れる音がして、ティーポットから顔を出した茶色の鼠は、大きな欠伸をして「大人になったんだね」とだけ言うと、またティーポットに戻ってしまった。


「そうか、大人になったんだね。だから、彼からの贈り物も受け取らなかったんだね」


 兎は、肩を落としてそう言った。


大人になることを強要される現実と、大人になることが悪いかのように言われるこの世界の違いに頭がおかしくなりそうだ。


「うん。でも、君は素敵になったね。アリスの言った通りだ」


兎は、今度は嬉しそうにそう言った。目には、涙が浮かんでいるように見えた。


アリス。


最初に出会った猫も、さっきのパンジー達も、この兎も、すべてのものが言っていた名前。

きっと、この世界は、そのアリスのものなのだろう。所謂『不思議の国』という事だ。


「さぁ、お茶会に遅れてしまう。一緒に行こう。ピーターと待ち合わせしているんだ」


兎は、私が何も言わない事を気にも留めないで、話を続ける。


「私は行かないと行けないの?早く帰りたいんだけど。明日、面接だし」


私の声は、酷く冷めていた。


「君は、行かなければならないんだよ。それが、君が初めてここへ来た時から決められていた、ルールだから」


兎は、先ほどまでの穏やかさが嘘のような冷たい声でそう言った。


カチャッと音がして、再び鼠がティーポットから顔を出した。


「君が忘れてしまったものは、この世界と共に消える。今日が最期だ」


鼠は、言葉にはしなかったが「だから、我慢して付き合え」という事らしい。


「わかった」


私の言葉に満足したのか、鼠はティーポットの中へ戻った。兎は、私と鼠入りティーポットを交互に見て苦笑した。


「幾つになっても変わらないものもあるじゃないか」 


兎は、心底楽しそうに笑っていた。


くしゃっとした兎の笑い顔を、何処かで見たことがあるような気がした。


私は、何か大切なことを忘れているのだろう。忘れても生きてはいける、それでも大切な、何かを。


兎は、部屋から森の中へと続いている、舗装された道を進み始めた。



ピーターは、空を飛んでいた。飛ぶというより、浮かぶという表現が正しいのかもしれない。


「やぁ、ピーター。お茶会へ行こう」


兎は、特に驚いた様子もなく、声をかけていた。


「何で人間が空を飛んでいるの……」


「それは、子どもだからさ」


私の呟きを拾ったのは、兎でも、ピーターでもなく、ティーポットの中の鼠だった。


「相も変わらず仲良しなんだね。君と鼠はずっと」


いつの間にか私の隣に降り立っていたピーターは、面白そうに言った。


「今回のお茶会は遅れちゃまずいんだ。早く行こう」


兎は、まだ森の奥へと続いている舗装された道を進み始めた。ピーターは、意を決したような顔をして兎の後へ続いた。


「これが、最期か」


溜息交じりに呟いたピーターの言葉に、兎は言葉を返さなかった。



兎の後をついて行くと、真っ白な病院のような建物にたどり着いた。


「魔法使いの家だよ」


兎は、私を見つめて言った。


「魔法使い……」


ピーターは、何故か涙声で言った。


「遅かった割に、着替えてないんだな」


何処からか現れた猫は、不機嫌そうに言った。


「まぁいいか。来い、魔法使いがお前を待っている」


猫は、不機嫌そうなまま、ペットドアを潜り、魔法使いの家の中へ行っていく。私は、猫の後に続いて、魔法使いの元へ続く扉を開き、廊下を歩いた。


その後ろに、ティーポットを持った兎と、ピーターが続いた。


外観は病院のように無機質なのに、内装は木が多く使われ、煙突があり、温かみのある空間だった。


「魔法使い、アリス。君らが会いたがっていた、この子を連れてきたよ」


猫の声は驚くほど優しく、慈愛に満ちていた。


「覚えているかい?」


ベッドに横たわる年老いた魔法使いは、今にも消えてしまいそうな声で言った。


「きっと、覚えていないわよね。大丈夫よ。それが、大人になるという事だから」


艶やかなドレスを纏ったアリスは、優しさに諦めを混ぜた声音で言った。


「アリス、貴方が、アリス?」


「えぇ、アリスよ。不思議の国を救えなかったアリス。大人になってしまったウェンディでもあるかもしれない」


アリスは、そう言いながら、ベッドに横たわる年老いた魔法使いの手を握っていた。


「ワンピースは、気に入らなかったのか」


年老いた魔法使いは、悲し気な声音で言った。


「ごめんなさい。今の年齢では、あの服は着られないの」


私の答えに、アリスは溜息を吐いた。


私は、大人になってしまったのだ。それが普通で、正しくて、当たり前だと思っていたが、ここでは違うらしい。


「アリス、大丈夫か」


猫が、アリスの足元に擦り寄った。


アリスは、猫を見つめて「えぇ」とだけ答えた。


「君は、とても聡明だ。だから大丈夫だよ」


年老いた魔法使いが、こちらを見て目を細めて微笑んだ。


私は、同じような言葉を何処かで聞いたことがあることを思い出した。



まだ、私が世界に生まれる前の話。


「君は、とても聡明だ。将来が楽しみだ」


毎夜開かれていたお茶会で、年老いた魔法使いが私にそう言った。


昼間は、魔法使いと空を飛び、何が入っているか分からない鍋をかき混ぜ、夜になれば、お茶を飲みながら沢山の話をした。


人間と魔法使い、そして魔法使いを訪ねてくる動物や、精霊たちいて、パステルカラーで描かれた、水彩画のような、暖かな世界だった。


私はそこで、沢山の非現実を学び、沢山の夢を持ち、希望に抱かれ、世界に生まれるべく準備をしていた。


お茶会には不釣り合いな、艶やかなドレスを纏ったアリスはまだ何も知らない私に言っていた。


「貴女は、ショートケーキのイチゴみたいなものなの。可愛くて、愛されていて。失われてはいけないもの。私のようになっては駄目よ」


と。


大人だったアリスは、沢山の現実を知っていた。


私は、こうなるべきではなかった。

学びは何も活かせずこうなってしまったのは失敗だ。

全てを思い出し他と同時に意識が遠のく感じがした。


最期に見た魔法使いはとても悲しそう顔をしていた。



目が冷めると私は机に突っ伏していた。

何故か涙が止まらない。


忘れ去っていたこの世界に産まれる前のこと。

人間ではなく、夢や希望、愛されるものとして魔法使いの元にいた時のこと。


私が消してしまったあの世界。

私が夢を見れたなら、私が忘れなかったならこんなことにはなれなかった。


「ねぇ、アリス。私はいったい何処で誤ってしまったの?」


ーきっと最初から、全てがー


自分しかいない部屋に、彼女の声が聞こえた気がした。



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