ノアの箱庭
滄 未泥
ノアの箱庭
ノアの箱庭、と呼ばれる場所を知っているだろうか。特別有名な話ではないから知らなくても無理はない。けれども、とある人々の間ではまことしやかに噂されていることだ。
とある人々、がどういう人たちかって? それは君、ノアという言葉に聞き覚えがあればわかるんじゃないかな。ほら、「ノアの方舟」ってやつさ。彼らはナニモノにも変え難い望み、すなわち助けを求めている。ノアの方舟ならぬノアの箱庭に行くことができればそれを叶えられる、助けてもらえるって話さ。興味深いだろ。
え? ノアの箱庭がどこにあるかって? それがね、それはどこにでもあってどこにもないらしいんだ。おかしな話だろ。
一番尤もらしい噂だと箱庭につながる扉はいくつかの条件で目の前にポツンと現れるらしい。
まず、見事な満月の日じゃないとダメなんだ。それもやわらかな霧雨の降るひとりきりの夜でなくては。運が良ければ、水の滴が様々なものを撫で叩く音の中に彼女、いや彼、いやどちらだろう、そんな番人の声を聞くことができる。それを頼りに進めば扉が見つかるはずだ。その扉の大きさはまちまちで、見た目なんてもっと様々だ。だからこれだ、と声高に宣言することはできない。けれど一目でわかるらしいよ、それが箱庭への道だって。
でもそれからが問題なんだ。扉を見つけても正しい方法で開けないと箱庭には辿り着けない。それがどうにもはっきりしなくてね。扉を見つける条件はかなりの正確性が期待できそうなんだが、開け方に関してはさっぱりさ。お手上げ、ってやつだね。じゃあ、先人たちがどうやって扉を開けたんだってそう思うよなぁ。ところがどうしたことか、その扉を開ける資格があれば自然とその開け方が分かるんだと。扉の前に立った時、自然と。
……あれ? その顔、君もしかして箱庭に行きたいのかい? と、すると君にもあるんだ、叶えたいナニカってやつが。へぇ、面白いな。頑張ってみるといい。そしてなにか掴めたら是非教えてくれよ。不思議な話ってやつは好物なんだ。
そう告げた男は瞬きのうちに消えていた。それが確か、ずっと前の話。
忘れかけていた記憶が掘り起こされたのは走馬灯ということなのだろうか。けれども別に
霧雨の降る夜。九々利の鼓膜を打った歌。引き寄せられるように動く足。突如として地面から生えたように目の前に現れた古家。その玄関に位置する扉を九々利は導かれるようにその手で叩いていた。
扉を三度叩く。
呼び鈴を三度鳴らす。
もう一度扉を三度叩く。
九々利はもちろん、何かを思って、あるいは何かを思い出してそうしたわけではない。何か確信を持って、この奇妙とも言える呼びかけをしたわけではない。あえていうのであれば、やはり導かれたのだ。かつて会ったはずの男の言葉を借りるとするのならば、九々利はその資格を持っていたのだ。扉を開ける資格を。その場所に足を踏み入れる資格を。
そうして開け放した先。そこにはこの世の物とは思えないほど豊かで美しく、穏やかで怪しい庭が広がっていた。命の輝きを空間に差し出すように咲く花々。そこに在ることだけに意味を見出したように力強く根付く木々。高みを目指して隙なく絡まる蔓。加えて、異質を醸すテーブルと椅子。人影。
大きく息をする。人影をその目に映し、疑問と困惑で頭がいっぱいになった九々利には、手を離した扉が姿形もなく消え去ってしまったことに気づく余裕すらない。しゅるりしゅるりと植物がまるで生きているように扉を隠したことなど、知る由もなかった。
椅子に座り、胸の前で腕を組んだままのシルエットを落とす人影が緩やかに瞼を持ち上げ、九々利を捉える。動く。話す。
「やあ、いらっしゃい。ここは箱庭。いつの日か人知れずに生まれ、育ち、息づいていた。いや、生まれたというと少し違うかな。正しく言えば造られたんだ。誰とも知らぬ人に、人では無いかもしれない誰かに。そして僕はここの唯一の住人にして、番人。ノアだよ」
首元に刺繍の入った白いシャツにループタイ、焦茶を基礎にベージュの太さの違う線が直角に交差したベスト。肌の色はどこか血の気のないように思える。長くはなく、かといって短すぎない髪。片側をかきあげるように耳にかけたその色はミルクを僅かに混ぜた紅茶の水色だった。
九々利の耳に届いた鈴鳴りの声は間違いなくその人のものだろう。ただ、九々利はその人を「人」と形容することを少し躊躇った。彼の感じた違和感は、性別というものさえも感じさせない風貌からのものでもあったし、生きていることを疑わざるを得ない雰囲気からでもあった。加えて、紡がれたこの言葉。
理解の範疇を越えているのだ、なにもかもが。
とはいっても、九々利にその人に人かどうかを問うほどの思い切りも無遠慮さも備わってはいない。そもそも反射が追いつかない。だから彼は唯一彼の聴覚が正確に捉え、思考が追いついた二文字だけをたどたどしく呟いた。
「の、あ」、と。
その人は、ノアは、緩やかに微笑む。満足だとでも言うように。アイスグリーンの瞳がなだらかな弧を描く。まるでそれだけ分かれば十分だとでも言いたげに。
「そう、ノアだ。君が求め、君に与えたいと思ったから僕は今、ここで君と出会っている」
ノアの箱庭という言葉に聞き覚えはないかい? とそうノアは九々利に尋ねた。九々利がその名前に聞き覚えが無いといえば嘘になる。はるか遠くの、もういつのことか明確に思い出せないくらい過去の記の中で九々利はその言葉を聞いていた。とある、まるで見知らぬ男から。
九々利が拙く頷くと、ノアはそれに応えるように徐に立ち上がった。足元の草木を揺らすことのないようにしているのではないかと思うほどゆっくりとした動きは九々利の視線を釘付けにし、そして立ち上がる仕草のまま自然に下ろされた腕の下に目を向けさせ、ほんの一瞬呼吸を忘れさせた。
「それ、は」
微かに震える指先に意識を割くこともできずに、そしてそれが行儀に欠いている行為だと理解することもできずに、九々利はノアを指さした。それも仕方のないことだろう。九々利の指の先には、或いは視線の照準の先には、あるべきはずの肉体はない。ただぽっかりと、まるでないことが当たり前のような様子で、握り締めた手と同じくらいの大きさで穴が存在しているばかりだった。
「それは……生きて?」
生きているようにみえる、いや、実際目の前で息をしているものの身体には左胸に穴が空いている。つまり、生命維持に必要不可欠なものが入っていないのだと九々利はそのとき理解してしまった。
「うん、生きているよ。少なくとも僕は自分が生きているのだと自覚している。そう思いながら、存在している」
信じたくないことに、現実だとは到底思えないことに、ノアの身体には心臓がなかった。
九々利の疑問はもっともだとでも言うようにノアはゆるく首を左右に振ると、青白い指先が胸の輪郭をそっと辿った。
中にはもちろん、何も無い。在ることを特筆するとすれば、空気だけが。
「確かに、君たちの感覚だと僕は生きているとは思えないのかな。でも僕は僕自身の思考を動かし、僕自身の意思で行動している。感情も自由に持てる。これは生きているってことじゃないかな?」
「……」
九々利は何も言えない。返す言葉も、そもそも形作るべき思考もない。ただ、目の前のノアという存在は生きているのだとそう実感した。肌で感じた。それだけだった。
「分かってもらえたみたいで嬉しいよ」
こくりと頷き、ノアはこれ見よがしに指を擦り合わせた。パチリと小さく、けれども九々利の鼓膜をしっかりと揺らす。その僅かな振動に寄せられた衝撃にコンマ数秒目を閉じる。視界を取り戻した瞬間、彼の目の前にはノアが腰掛けていた椅子とは別にもう一脚の椅子が現れていた。
「ほら、座りなよ。僕と少し話をしよう」
久しぶりの客人だ、とそう嬉しそうに言ったノアに九々利は促されるままにふらふらと彼ら――すなわち、ノアと二脚の椅子とひとつの机のあるところまで歩み寄った。そうして恐る恐る指示された椅子に腰をかける。というのも、九々利にはどうしてもこの椅子が、もしくは机が、意思を伴って動き出さないとは断言できなかったのだ。ノアの異質さを目の当たりにしてしまったから。実のところ九々利はもうすでに無意識の領域でこの場所が彼自身が抱える当たり前の通用する場所ではないと悟っていたのだが、このときようやく彼は意識的にそのことを脳に文字として思い浮かべた。それが行動となって表れた、ということだった。
「さて、話をしよう。この場所のことも、僕のことも、君のことも、全部話そう。大丈夫。ここには君と僕以外誰もいない。今のところは、だけどね」
アイスグリーンの瞳が九々利の薄く茶色がかった黒い目を見つめる。その視線がどこまでも深く見通しているような気がして、けれどもどうしても目を逸らすことができなくて、九々利は逸る心臓を抑えるように深く息をする。それを緊張と呼ぶべきなのか、もしくは気圧されていると考えるべきなのか。曖昧な感情はネガティブなものであることだけが確かだった。
よってもたらされた閉塞感。もはや手馴れてしまったが、それでもほんのりと喉を締め付けられているようなそれは苦しいばかりだ。九々利は自分でも知らないうちに自分の喉元を浅く爪痕が残るくらいの力で引っ掻いていた。
「まずはここのことかな。さっきも言った通り、ここは箱庭。いつか遠い過去にどことも知れぬ場所に生まれ、望む誰かのために現れる。そういう場所」
「……ノアの、箱庭」
「ふふ、そうとも言われているね。けれど、僕はただの番人にすぎない。箱庭には保有者がいないんだ。だから正確には僕の箱庭、とは言えないかな」
楽し気にそう零したノアは力を抜いて背を丸めると行儀悪く机に頬杖をついた。掌のうえに自身の顎を預け、非常に興味深いものを見るように眦を緩める。細い指は揃えられておらず、頼りなさすら感じる小さな顎や薄い唇を緩やかに撫でていた。それがどうにも艶めかしいものに思えて、九々利はそっと目線を外す。けれどもそれもノアにはすっかりお見通しのようで、ノアはほのかに声を洩らしながら笑っていた。
「君は、えっとなんて言ったかな」
些か不機嫌になった九々利の様子を悟ったのだろう。ノアは軽く咳払いすると、分かりやすく誤魔化すために九々利にそう尋ねた。しかし、九々利にも特別この場を険悪にする意思はない。ふっと息をつき、ざっくばらんに伸びた前髪の隙間からノアを窺う。目に少しだけ批判を乗せつつも、九々利は黙り込むことを選ばなかった。
「九々利」
九々利の声が象ったのは簡素というよりも淡泊という表現が似合う返事だったが、ノアは不満を抱くどころかむしろ嬉しそうに何度も九々利の名を口の中で転がすように呼ぶ。新しいおもちゃを手に入れた子供のようなふるまいは名前を聞いただけの反応としては違和感を覚えるものではあったが、九々利の訝(いぶか)しむような目に気が付いたノアがいくぶん恥ずかしそうに目線を下げながら「言ったと思うけれど、九々利は久々のお客さんなんだ。だから、うん、なんというかね」とそう言ったことでとりあえずその感覚は拭われた。
「久しぶりって、誰も来ない間ノアはここでひとりなのか?」
口に出そうとした違和感が消えた代わりに九々利の声が作り出したのはそんな問いだった。やはり不遜とも言える言い回しではあったがノアはそのことを気にする様子はない。ノアはアイスグリーンの瞳をするりと上に動かして数秒黙り込むと、頬杖を解いて両腕を組むように机の上に置いた。そうして九々利のことをじっと見つめる。
「そうだね。前のお客さんがここを出て、九々利がここに来るまで僕は独りと言えば独りだったよ」
あっけらかんとした声。
「独りといえば、って?」
「うーん、なんていうのかな。この場所は九々利や他のお客さんが想像するような性質を時間に対して持っていなくて。扉が開いてお客さんが来るまで止まっているんだ。あるいは、眠っているとも言い換えられるかな。とにかく僕は物理的にはきっと独りと言えるものなんだろうけれど、精神的には独りではないかな。眠っている時に外部に対してそれほど意識を避けないだろう?」
だから孤独感というものはあまり感じないかな、とそういっそ茶化すように告げたノアに九々利はそうかとため息にも似た息を漏らすばかりだ。それ以外に示すべき反応が見つけられなかったとも表せる。
「俺なら、耐えられない」
ポツリと呟いたそれがすべてだ。ノアが当たり前のように発した内容は九々利にとっては当たり前であってほしくないものだった。九々利の手が無意識に彼の腕を摩る。さざめいた気持ちを咄嗟に押さえつけたかった。それだけのための行動だ。つまるところ気休めだ。
自分の他におおよそ生き物と分類すべきものがいない空間で意識を手放すことは恐ろしい。九々利はそれを知っている。
無機質な物体に素知らぬうちに取り込まれてしまうのではないかとどうしようもない不安に呑まれてしまう恐ろしさを知っている。けれども尽きた体力では耐えることもままならなくて、いつの間にか放り出してしまった意識を取り戻し、目を覚ました瞬間にひどい安堵と行き場のない苦しみに苛まれることを知っている。そして、そんなものを味わうことを九々利はもう耐えらないのだと自覚している。
ノアは九々利の深層から溢れ出た言葉とその表情に何かしらを察したらしい。すうっと瞼を伏せ、自分の手の甲をゆるりと一度撫でると穏やかに笑った。長い睫毛の影が僅かに揺れる。
「――僕が目覚めるのは誰かが扉を開いた時。だから本当に寂しさなんて欠片もないんだ」
それに、とそんな言葉の輪郭を象る声色はひどく柔らかい。
「寝てばかりいるからさ、記憶力には自信があって。ここを訪れた子たちのことをずっとちゃんとはっきりと覚えていられる。それはほんとうに、嬉しいと思うよ。……忘れないから、大切にしていられる」
「大切に、」
「うん、そう。僕はあの子たちと出会ったことを、話したことを、あの子たちが何を捨てても叶えたかった望みを忘れない。そうすることはきっとあの子たちを大切にすることと同じことなんだって、そう思っているんだ」
そうだ、九々利の前に来た子の話をしよう。
話を切り換えられたようで地続きの言葉を吐いたノアはずっと真っすぐに九々利のことを見ている。だから九々利はノアの口から紡がれるはずの続きの言葉にそっと耳を
「九々利の前に来た子は九々利よりも少し歳上の子だったよ。白髪と灰青の瞳が綺麗な子だったね」
「……そっか」
「でも九々利や他の子と違って、どこか不思議な雰囲気の子だったなぁ。名前を聞いても答えなくて、好きに呼んでってそれだけ。なんでもたったひとりと決めた子がいて、その子以外にはもう呼ばれたくないんだとそう言っていたよ。時折、誰かを探すみたいに遠くを見ていたから、その探している子がその子だったんじゃないかな」
「たったひとり、か」
「上書きされたら忘れちゃうからって」
「……」
「そう、だからちゃんと、ずっと、覚えていられるだけ僕は大丈夫なんだ」
ノアが大きく息を吐き出す。薄く頼りない肩の上下が、左胸の穴の僅かな収縮が、九々利の目に妙にゆっくりと映った。その姿は明らかに人間とはいえない。それどころか生き物であるとも断言しがたい。
「それに僕はまだ、ここから出られないからね」
滑らかな呼吸に見えるが心臓のないノアのそれが成す意味を九々利は理解することができていない。けれどもほんの一時間にも満たないこの時間の中で九々利にはその穴に埋まる何かが明確に見えているように思え始めている。そこまでも生きているように、思えている。
「それじゃあ、君の話をしようか。九々利」
九々利はもう、ノアにすべてを晒して、受け入れてもらいたいという欲求を持っていた。生き物でいて生き物でないノアにならば、誰にも吐き出したことのない九々利の心中を見せても許されるのではないか、と。
それを見透かしたようにノアは言葉を吐いた。
「俺の話を、」
「うん、九々利の話を、だよ。僕は君の話を最後まで聞くし、否定もしない。さっきも言ったように僕は記憶力がいいほうだから、九々利の話をずっと大切に抱えていられる。九々利がそれを僕に話すことで捨てたって、それが蔑ろにされることは絶対にない」
きゅう、と心臓が締め付けられたような気がした。九々利が自分の中に隠しこんだはずの感情すら、ノアは見通してみせる。だからこそ、九々利はノアに全てを話してしまいたいという自分の欲求を肯定することができた。表面だけを見てその裏側を知ってしまえるひとに、何を隠しても仕方がない。
「聞いてくれるのか、ノア」
「もちろん」
九々利はゆるやかに頭を左右に振る。それは拒絶でも疑いでもない。敢えて言うのであれば、迷いを振り切ったというのだろう。しっかりと息を吸って、吐く。一度目を閉じて、開く。
「俺は、」
口火を切った。
九々利の言葉は淀みなく繰り出される。それは九々利が見ないようにしてそれでも彼から離れることのなかった彼の過去そのものだった。
九々利の十数年ほどの人生の記憶の大半を示すのは殺風景な白い背景だ。命が生まれ死んでいくというのにその場所はいつだって無機質さを隠せていない。いや、無感情でなければならなかったのかもしれない。生死というものを一日に片手で足りない数を付き合い、そして休みもない。それに一々感情を付き纏わせてしまえば、一年としないうちにその場所は足場を失ってしまうのだろう。
だから無機質で無感情で、そう在ることが正解なのだ。
白い天井で白い壁で白いカーテンで白いシーツ。白ばかりの場所。それが九々利の居場所だ。九々利はこの世に生を受けてからずっとそこに居る。
理由なんてものはずっと明らかだった。九々利がこの世でひとりでまともに息をすることすら困難な欠陥を持っていたから。それだけだ。
九々利の身体に用意されて埋め込まれている呼吸器官は、たかだか九々利ひとりの全身に十分な酸素を回すことができない。先天性の疾患というやつだった。九々利の親は九々利の自意識がはっきりしたころにはもうずっと九々利に謝りつづけていたから、正直なところ九々利の記憶の中で両親が心の底から笑っている光景は数えるほどもない。
九々利には誰が悪いわけでもないということは分かっていた。というよりも誰を責めてもどうしようもないことを理解せざるを得なかった。ただ運が悪かったのだとそう思って、ベッドの上に寝ころんだままモニターに繋がれた自分の心臓のリズムを鼓膜に刻むばかりだ。
それでも理解は納得を生むわけじゃない。
九々利はずっと自分の身体を恨んでいた。満足に呼吸もできないくせにまるで一人前のいきもののような顔で存在していることが嫌で仕方がなかった。立って数歩も歩かないうちに肩で息をするどころか、両足の膝を着いてしまう。そんな状態だから、いわゆる外の空気というものは全て病室の大きいとは言えない窓から取り込んだものばかり。変化は身体に悪いと、そればかり。しかし、変化のない日々はつまらない。面白さを感じない人生に九々利はどうしても価値を見出せなかった。
このままでは自分はなにもできないままなのではないかという恐れすら。
なにかを成しえたい。誰かの為になりたい。自分の命の終わりになにか、胸を張って自分の功績といえるものが欲しい。
承認欲求だとか自己顕示欲だとか、多分そんな名前がつくもの。それはずっとずっと九々利の胸の中で燻り続けている。
けれどそのことを九々利は誰にだって話すことができなかった。九々利の身体がどうにかひとりで立って歩けるようになっても、一日中寝転んでいなくてもいいようになっても、変わらず心の中に寝転がり続けるそれらは九々利の口から転がり出ることはない。ただ純粋に九々利の身体が外の世界に多少耐えきれるようになったことを喜ぶ両親に、九々利のことを気にし続ける彼らに、未だなお足りないものがあるだなんて口が裂けても言えなかった。他の人よりも至らない臓器なんかにではなくもっと違うものが足りないなんて、「生きているだけでいい」とそう言う彼らには言えない。
それらが叶わないくらいならば死んでいるも同然だなんて、到底言えるはずがなかったのだ。
結局、語ることができるものなんてそれくらいだ。自分の中に隠しこんだと大層なことを言っておいて、九々利の中にしまい込まれたものなんてそんなもの。けれど九々利にとっては禁句と位置付けられるほどのことだ。助けられたくせに、たくさんの人の力を借りたくせに、それでやっと生きられているくせに、その命に価値がないと思えてしまうなんて。
「そっか、そうだったんだね、九々利」
ノアは長くも短くもない九々利の話をただ黙って聞いてくれた。否定はもちろん、肯定すらもしない。本当に、聞き入れただけ。けれど、それが九々利にとっては嬉しいことで。九々利の懺悔をまるっきりそのまま聞いたノアの姿はまるで信心深く尽くす神父や牧師の素振りだった。
「多分、俺は誰かに求められてみたかったんだ。誰でもなく、俺を」
その言葉がどれだけ九々利の内心を掻き混ぜていようともノアは何食わぬ顔でいる。たびたびふわりと胸の穴を辿るように撫でながら。
「そっかぁ。それが九々利の望みなんだね」
なにもかもを受け入れる笑みでただそう言ったノアは、また大きく息を吐く。そして九々利が机の上に無造作を形にして投げ出していた手にノアはその細く薄い手の片方を静かに重ねる。その手は九々利のものよりも明らかに冷たい。くり貫かれた心臓のことを考えれば体温があることの方が異常であるのだけれども、人として生きるには低すぎるささやかなぬくもりは確かにそこにある。
「ここに来る子はみんな、どうしようもなく叶えたい望みがあるんだ。九々利も、白髪のあの子も、他のみんなだって」
「叶えたい、望み。……そう、なんだろうな」
九々利は小さく頷く。重ねられた手をそっと裏返して、冷えたてのひらに指紋を残すように指先をゆるやかに押し付けた。繋いでいるというにはあまにもゆるやかなそれはノアを捕らえるようにも、ノアに縋るようにも思えた。
「ノアが叶えてくれるのか?」
その言葉にノアは頷きも首を左右に振ることもしなかった。九々利がこの箱庭に来てから初めて見る表情を浮かべている。常駐していた穏やかな笑みを崩して、ノアは困ったように眉を下げて九々利を見ていた。数回、音もなく唇を動かし、赤く艶めかしい舌で軽く舐めて濡らす。
「僕が、そうだね、僕が叶えるとも言えるんだろうね。けれど、」
一概に僕が叶えてあげられる、とも言えないんだ。ノアは申し訳なさそうにそう呟いた。九々利の手に触れたままの手はそのままに、面積なんてものはそれほどないノアの青白い掌が左胸の穴を覆い隠す。それは今更になって自分の心臓が無いことを九々利から見えないようにしたがったようだった。
「……望みには、対価が生じる」
自身の欠落を塞ぐ手に力が籠められてノアが身に纏っている服に深く皺が刻まれる。その手が微かに震えていることに九々利は気が付いていた。
「――対価」
三音。九々利の喉から咄嗟に飛び出たのはそれだけだ。それだけをノアは聞き逃すことなく捉えている。
「九々利には対価を払う覚悟があるかい?」
アイスグリーンの瞳には感情はなく、ただ静かな光だけが灯っている。誤魔化しも嘘も許さないとでもいうように。ノアに見つめられた九々利は息を潜めるように空気を飲む。それでもその眼光に負けるわけにはいかなかった。詰まった息を吐きだすように音を発する。
「対価って、なんだ」
実のところ九々利はもう何を求められているのかを察している。「まだ出られない」というノアの言葉。明らかな欠落のあるノアの身体。淀みなく紡がれていた言葉が揺らぎ詰まる様子。それでもわざわざ九々利が言葉にしたのは仮定を確信たらしめるものが欲しかったからだった。
「……もう、分かっているくせに」
ノアは九々利の指先を感じているてのひらを動かすと、やわらかく九々利の手を握りこんだ。触れている部分から九々利のぬくもりがノアの肌を温めていたためにノアの手は九々利の手に触れ始めたときよりもいささか温かくなっている。それは生命の受け渡しのように思えた。
「僕の身体はみんなが受け渡してくれた対価でできている。この手も、この足も、この眼も、全部もとは僕のものじゃない。箱庭を訪れた『なにを差し置いても叶えたい願い』を持つ子たちが対価として差し出したものが時間を経て僕に馴染んだんだ」
つまるところ、とそこまで言ってノアはひとつ息を吐いた。それから自分を落ち着けるように二、三度深呼吸をする。
「僕はここを訪れる子たちが本当に縋りたかった神様みたいな存在では決してないんだよ」
九々利は一連の行為を、告白を、黙ったまま見つめていた。ほんの数分前、ノアが九々利の話を聞くときにそうであったように。ノアの後悔や懺悔ともとれる吐露をただ静かに聞いていた。
「九々利の前に来てくれた白髪のあの子は、あの子自身のたったひとりにもう一度だけ会いたいという願いを叶えようとした。僕はそれを受け入れた。けれど、僕はあの子がちゃんと望んだとおりになったのかを知らない。ただ、対価として差し出されたものをいつも通り受け取った」
僕は九々利の願いが叶うという保証はできないんだ、とノアは念押しするようにそう言う。左胸の穴を塞いでいた手が耳の後ろを通って、ノア自身の後頭部を撫でる。それだけで九々利はその白髪の子がノアに何を対価として差し出したのか分かったような気がした。それを対価にしたというのなら、その子はもう生きてはいないのだろう。
「君は、それでも願いを叶えたいとそう望むのかい?」
ノアの質問は体裁こそ尋ねるものであったが、実質は警告だった。アイスグリーンの瞳にはもはや光すらも宿っておらず、けれども虚ろとも言い難い。九々利が踏み込んでいくことを制止するような、見守っているだけのような、そんな視線。気が付けば九々利の体温が移っていたはずのノアの手はすっかり冷え切っている。豊かなほどあった表情も影も形も無く、これまで確かに存在していた生を感じさせる要素を失ったノアに、九々利は数回心臓が鼓動を打つ時間だけ怯んだ。けれどもそれだけだ。
次の瞬間、九々利は握りこまれていた指を自然に解いていた。ノアの手の輪郭を撫でるように手を滑らせると滑らかに指を軽く絡ませる。それは九々利を突き放そうとするノアに対する反論であり、これ以上離れさせまいとする九々利の意思表示だった。
一ミリにも満たない指紋が滑らかなノアの肌にほんの僅か引っ掛かる。九々利の指先がノアの頼りない手の甲にほんの僅か、沈み込む。
「俺はこの願いが叶うなら、それでいい」
芯の通った声が空気を揺らす。ノアは躊躇うように視線を左右に泳がせると、鬱々しく目を伏せた。
「でも、九々利。君はもう分かっているはずだろう。君が対価として捧げるのは僕に足りない、たった一つ。この左胸を埋めるものだって」
往生際が悪い、と九々利は思った。
この場所にいる時間がノアよりも圧倒的に短く、そして普段生きている世界の非常識に値する箱庭への理解が無いに等しい九々利にすらもう察しがついているのだ。そもそも箱庭の番人を名乗ったノアが知らないはずがないだろう。この箱庭――ノアの箱庭を訪れることができるものは、すなわち箱庭に入る資格とは、抱えた望みの為に何を差し出すことも厭わないということだ、と。
提示された条件がなんであれ、それが揺らぐようなら九々利は箱庭には入れなかったはずだし、そもそも扉を見つけることだって出来なかったはずだ。きっとノアに会うことなんてなかったのだろう。だから、ここに今、九々利が居て、ノアと視線を交えているそのこと自体が九々利の答えだった。
「ノア」
内に秘めた真剣も必死も、懇願も、それら全部を乗せた九々利の声がそんなふうに目の前の存在を呼んだ。ノアの身体が一瞬強張るのが傍目にも分かる。それでも、九々利はノアから目を離さないし、手も緩めない。
数秒か、あるいは数分か。どれほどの沈黙が場を制していたのだろう。沈黙を破ったのは、静止した場を動かしたのは、ノアの手だった。
九々利と繋いだ手を覆うようにもう一方の手を重ね合わせる。その手はやはりひやりとしていたが、密かなぬくもりがあった。
「九々利は、それでいいんだね?」
ノアの目は九々利を見てはいない。触れ合った指先をただ寂しそうに見ている。
「いいよ」
だから九々利はノアの視界のなかに唯一入っている自分の手とノアの両手を自由な手でそっと包んだ。アイスグリーンの瞳が九々利の手の動きを追って、それから導かれたように九々利の両目を見る。
「俺のこの、欠陥品みたいなものでノアが埋まるのなら、それでいい。ノアのその空白を埋められるのが俺なら、それがいい。俺が、ノアのために何かできるというのなら、それは」
そこで九々利の言葉が一瞬、音もなく空に消える。なにかふさわしい言葉が他にあるような、けれどそれがどうしても自分の中に見つけられないようなもどかしさが九々利の心中を満たしていた。
逡巡。
けれどもそれは、すぐに断ち切られる。
「九々利」
一歩踏み出しきれないノアの揺らいだ声に九々利は腕を引かれるように言葉を紡いでいた。それが自分の内心を示すのに最も適切であるとは胸を張れないけれど、決して嘘ではない。誤魔化しなんてものもない。ただ、感じたままに、思ったままに、本心を。
「俺は、それが嬉しい」
そうだ。九々利は嬉しかった。この箱庭にずっとひとりで眠りながら生き続けるノアの足りないものを埋められることが。それで、「まだ」を口にしたノアの
ノアはそっと目を見張る。零れ落ちそうな瞳がきらりと光を反射して美しく輝く。僅かに濡れた睫毛が小さく水を弾いていた。
「そっか」
そっか、とノアは繰り返す。九々利の言葉を噛み締めるように微かに頷くと、触れた手はそのままにそっと立ち上がった。
「九々利の願い、僕が聞き届けた」
鈴鳴りの声。青白い肌。整った容貌。アイスグリーンの瞳。
まるで九々利がこの場所を訪れた時のような感覚。なんとも言い表しがたい力を九々利は肌に感じている。けれど、どこか安心している。
九々利は自分の片手とノアの両手を包んでいた手を静かに離すと、ノアの左胸に触れた。彼の掌の感覚はノアの鼓動を掴まない。
「対価が払われるのは君の願いが叶ったとき、もしくは君の命が途絶えたとき。僕は前者であればいいなと思っているよ」
ノアの言葉が九々利の鼓膜を揺らしたのを合図に九々利の意識は少しずつ混濁していく。立つことすらままならない九々利の手をノアは優しく引いて、いつの間にか表れていた扉の前へと彼を導いた。
「それじゃあ、九々利。お別れだ。願わくば、君のこの先があたたかな光で満ちていることを」
意識は、途絶える。
目を覚ました時、九々利の心臓はまだきちんと身体に埋め込まれていた。胸に当てた手は確かな鼓動をとくりとくりと感じている。
ノアはかつて箱庭を訪れた子の願いが叶ったかどうかは分からないとそう言った。ならば九々利の願いはまだ叶ったとはいえないということなのだろう。この鼓動が失われるとき、その時が願いが叶った瞬間になる。
だから、九々利は生きなくてはならない。彼の願いが叶うその日まで。
*
どくん、と強い衝撃が身体を襲う。数秒遅れて、いっそ熱いと思うほどのぬくもり。少し制御しづらい全身を無理矢理動かして持ち上げた右手が感じたのは存在だった。
ずっと、そこにあった穴が埋められている。
ノアはゆっくりと目を開ける。目に映った肌が仄明るくなっていて、血流があることを示していた。
ああ、とそう零す。落胆にも歓喜にも聞こえるそれに返る声はない。ただ音もなくノアの背後に扉が出現しただけだった。
深い深呼吸を何度か繰り返して、ノアは滑らかに立ち上がった。そして、扉の前に歩み寄る。
扉を三度叩く。
扉の上の鐘を三度鳴らす。
もう一度扉を三度叩く。
がちゃりと鍵が開くような音がして手をかけていたドアノブが不自然に軽くなった。
扉が、開く。
眩いばかりの光にノアは足を踏み入れながら小さくなにかを呟いた。
ノアの箱庭 滄 未泥 @Ikuri_241
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます