第5話 父親
「咲ちゃん、就職で帰ってくるって」と、妻が嬉しそうに報告をしてきた。
娘は目に入れても痛く無いとはよく言ったものだ。私も例に漏れず親バカの一人であったのだが、娘が中学に入学し思春期を迎えると次第に会話する機会が少なくなっていた。それでも「洗濯物は別にして」だの「臭い汚いあっち行って」と言われないだけマシかと思っていた娘が中学2年の夏、珍しく私に声をかけたきたのが「お父さん、そのエレキギター弾いてもいい?」と言う意外なものだった。
私は大学時代に軽音サークルに入った流れでバンドをしており、その唯一の名残として個人的に思い入れのあるエレキギターを一本だけ所持していた。娘は前々からそのギターが気になっていたらしい。
その日から、私のギターはギタースタンドごと娘の部屋に移動し娘の所有物となった。と言ってもギターなんてものは、挫折するのに1ヶ月とは掛からないものなので直ぐに返しにくるかと思っていたがしばらく経ってもその兆しは無く、妻に聞くと「一生懸命弾いてるみたいよ」と意外な言葉が返ってきた。そこで私は妻と話し合い、娘の15歳の誕生日に合わせてエレキギターを買ってやることにしたのだった。
当初は妻と3人で楽器屋に行こうとしたのだが、妻が気を利かせたのか私と娘の2人で一番街通りにある楽器屋に向かう。
「お父さんのあのギターはいつどこで買ったの?」
車の中でラジオがCMになったタイミングに娘が尋ねてきた。
「お父さんが大学生の時に東京の楽器屋で買ったんじゃなかったかな?」
「お父さんって東京にいたんだっけ。」
「大学が向こうだったからね。」
「お父さんは頭良いの?」
「ん?」
「大学。良いとこだったの?お父さんが行ってた大学って。」
「どうだろな。」
再び沈黙が流れる。
「どのギターが良いとかって調べてきたのか?」
「うん。一応。TLタイプのギターって分かる?」
「ああ、知ってるよ。」
「咲はあの形がいいなぁと思うんだよね。」
「形で選ぶのか?」
「うん。」
「そっか。」
「そんなに高いの選ばないからね。」
「ん?」
「値段。そんなに高いの選ばないから安心してね。」
「値段かぁ。」
中学3年生がしょーもないことを心配するんだなと心の中で笑った。
「まぁ実際に見て決めよう。」
「うん。」
大通りの市営の駐車場に車を入れ娘と2人、歩いて楽器屋に向かう。そういえばこうして最後に2人で外出したのはいつだったろうか。記憶も朧げである。目当ての楽器屋までは歩いて5分も掛からずに着いた。
「お父さん先入って。」
さっきまでの足取りの軽さはどこへやらで、店の前まで来て急に弱気になったようだ。こう言うところは相変わらず子供だなと安心する。
仕方が無いので私が先導し店に入る。「いらっしゃい」と口髭を蓄えた店主であろう年季の入ったエプロンをした初老の店員と若い店員がこちらに目を配り声をかけてくる。店内には他にも常連なのか店の雰囲気に馴染んだ数名の客が居た。
私は娘と付かず離れずの距離を保ち、付き添いとしての役割に徹する。娘は一通りの楽器を見て回るとお目当てのTLタイプのギターが並べてあるコーナーに足を止め、じっくりと品定めを始めた。
「良かったら音も出せるので、声をかけてくださいね。」
口髭の店員が娘に声を掛けてくる。娘は「はい」と店員に届くか届かないかの声量で返事をし、変わらず楽器の品定めを続けている。
「お父さん。」
こちらを振り返り、娘が声をかけてきた。
「決まったか?」
「ううん。まだだけど、これとこっちのだったらどっちが良いと思う?」
娘は気になるギターを2本に絞ったらしく私に提示をしてきた。一本は海外メーカーの日本向けラインで9万円ほど、もう一本は私の知らないメーカーの6万5千円ほどのギターだった。
「お父さんはそっちのメーカーは知らないなぁ。」
「知らないの?日本のメーカーで割と有名だよ?」
今の楽器事情には、私より娘の方が詳しいらしい。
「咲が気になる方でいいよ。お金のことは心配しないで。」
何十万何百万のものをリクエストされるかの心配はなかったものの、10万円は超えるかなと覚悟していたので正直なところ少し肩透かしを食らっている。店内に並べられている楽器を見るに、私の知らないメーカーの高いギターもあるにはあるものの値段的にはエントリークラスのギターの比率が多いように感じた。これは時代なのだろうか?
「これ弾いてみたい。」
「うん。店員さんに声かけてみたら?」
「でも恥ずかしいし。」
「お父さんが声かけてこようか?」
「うーん。」
本来なら遠慮なく私が声をかけるところだが、下手に動いてこんなことで嫌われるのも嫌なので娘の意見を一番にと時間をかける。
「声かけてみる。」
なんでも父親頼りなのが恥ずかしいのだろう。娘は自分で声をかけることを選んだようだ。
「すみません。」
店員を呼びつけるでなくわざわざ自分で店員のところまで赴き、娘から声をかけた。
「ギター弾いてみてもいいですか?」
「はい、どのギターかな?」
口髭の店員を引き連れ娘が戻ってきた。娘は「これとこれが気になってるんですけど」と、先ほどまでの引っ込み思案はどこへやらで積極的に話かけている。
「TLタイプが気になるのかな?」
「はい。この形が好きなんです。」
「そうですか。」
「あの、それで、この2本だとどう違うとかありますか?」
「そうですねえ。」
話をしながら口髭の店員はギターを手に取り、慣れた手つきでチューニングを始める。
「メーカーが違うから音が違うってのはあるんですけど、一番の違いはネックの太さかな?」
「そうなんですか?」
「そっちのは日本のメーカーで日本人に合わせてギターを作ってるからね。ネックもこっちに比べると一回りか二回りは細いんですよ。」
「そうなんですね。」
自然と私も相槌をしてしまう。
「とりあえず弾いてみてください。実際に手に持ってみるとすぐに分かると思いますので。」
チューニングされたギターが娘に渡ると口髭の店員の手によってシールドケーブルがアンプに繋がれアンプの電源が付く。そして口髭の店員は次の作業へと、もう一つのネックが細いと言う国産メーカーの方のギターを手に取りチューニングを始める。
お世辞にも上手だとは言えないギターの音がギターアンプから流れてくる。娘は娘なりに一生懸命ギターを弾いているようだ。予想はしていたが、ギターソロタイプの演奏内容ではなく、アコギのようなコード弾きの演奏内容だった。そう考えるとTLタイプで正解なのかもしれない。
頃合いを見て口髭の店員が、チューニングが終わった安い国産メーカーの方を娘に手渡す。娘がギターを受け取ると店員は慣れた手でアンプ側のケーブルを引き抜き、音をミュートした上でケーブルを繋ぎ直してくれた。
「あ、ほんとだ。こっちの方が弾きやすい。」
ギターを手にしてすぐに娘が感想を述べる。そして再び娘の演奏会が始まる。
「お父さんはどう思う?」
不意に娘が顔を上げ私に意見を求めてきたが、演奏についてとやかくは言えない。
「そうだなぁ。お父さんだったら弾きやすい方を選ぶかな。弾いてみてしっくりくる方がやっぱり弾いてて楽しいと思うしね。」
「あーそっか。楽しいのかぁ…。」
娘にとって正解を私は答えられたのだろうか。それからも娘の試奏は続き、役割に終えた口髭の店員は意識をこちらに向けたまま既に娘から離れている。
「お父さんも弾いてみる?」
俺がここで断るのは良く無いだろうと判断する。娘としては私が実際に弾いてみてこの楽器をどう思うかの評価をして欲しいのだろう。
「分かった。」
娘からギターを受け取り椅子に座る。さっきから碌に音決めもされていないアンプのセッティングが気になっていたので、自分の感を頼りに音を作って弾いてみる。確かにネックは細く、かと言ってネックが薄いわけでもなくいい感じで握り込める太さで、手の小さい娘には弾きやすいと思う。ネックもレギュラースケールで弾いてみた感じも悪くは無いし何より楽器が軽かった。値段の割には良いバランスのギターだと思う。
「良いんじゃないかな。変な癖も無いしバランスも良いし楽器も軽いし。お父さんは良いギターだと思うよ。」
「そっか。」
「これに決める?」
「いいの?」
「うん。咲が決めなさい。」
「じゃあこれ。」
「色はこれで良いの?」
「うん。この色がいい。」
「じゃあ店員さん呼ぶよ?」
「うん。」
こちらをずっと気にかけていた口髭の店員を改めて呼び、購入することを伝える。プラス5000円でミニアンプとチューナーとケーブルが付く初心者セットの提案もされたが娘は断った。
「チューナーだけでも買った方がいいよ。」
「そうなの?でもお父さんのチューナーあるし。」
「今見てたらこんなのがあるみたいだよ。これはお父さんの時代には無かったけど、便利そうだ。」
レジ前にあったクリップ式のチューナーを娘に勧めた。先ほど口髭の店員がチューニングの際に使っていたのを見て偉く便利そうだと気になっていたのだ。
「そっか。じゃあこれ買おっかな。」
「ピックと替えの弦とクロスは、サービスしますので一緒に入れておきますね。」
店員の申し出に「ありがとうございます」と私が答える。このサービスは時代が変わろうとも同じなんだなと少し嬉しくなった。ただそのサービスでついてきた弦は私の時代では使えたものじゃ無かったが、今はどうなのだろうか?店員に促され、娘はピックを3枚選んだ。
「あとギタースタンドってありますか?」
「はい。」
私が注文し、店員お勧めの安いギタースタンドも買い物リストに入れてもらう。
「じゃあ、こんなもんですかね?」
「あー、あとはストラップはどうですか?」
「あっそうですね。」
娘に言ってストラップを選ばせる。アンプは要らないと言い張った娘だがストラップは気になるようで、私の時代には無かったような可愛いデザインのストラップを選んできた。
「じゃあこれでお会計お願いします。」
口髭の店員が会計を始める。私はカードで支払った。
「これがうちの会員証なんですけど、三千円のお買い物で一つスタンプ押させて頂きます。それで10個スタンプが貯まれば1000円分の商品券になるのでよければご利用ください。」
私は娘に受け取るように促す。
「あと、こちらに簡単にで結構ですので、お名前のご記入をお願いできますか?」
出された用紙に娘が名前を書くと、口髭の店員は手慣れた様子で今作ったばかりの会員証の番号とギターの型番とシリアルナンバーを紙に記入した。購入者用の店の控えだろう。
「細かいものやメーカーの保証の用紙は全てギターケースのポケットに入れています。じゃあここでお渡ししますね。少し重いですよ。」
娘にソフトケースに入ったギターを渡してくれた。私に手渡さないところがよく分かっていると嬉しくなった。
「お父さんにはギタースタンドを。」
私には店の名前が入った袋を手渡された。
「もしなにかあれば遠慮せず、ここにギターを持って来てくださいね。リペアも調整も承っておりますので。」
「はい!ありがとうございました!」
「お世話になりました。」
「こちらこそ、お買い上げありがとうございました。お店の前までお送りします。」
口髭の店員に見送られ楽器屋を後にする。早速ギターケースを担ぎ、隣を歩く娘の足取りが軽い。
「お父さんありがとう。ギター大事にするね。」
その日を境に娘と話す機会を持てるようになった。別になんと言うことでは無いが、娘の方から気軽に声をかけてくるようになったのだ。
中学を卒業し、高校生になった娘は更に楽器にのめり込むようになる。自分でバイトを始め小遣い程度のお金を稼ぐようになると時折あの楽器屋に足を運んでいるようで「今日シャインに行って弦を買って来た」だの報告が本人から上がってくる。
そして高校3年の春に娘が出した進路希望は、楽器を作るギタークラフト科のある専門学校であった。最初は何故ギタークラフト科なのかと疑問に思ったものだが、娘が興味を持ったのだからと東京に送り出したのが3年前。今朝、妻から娘が卒業後はこちらで就職をすると聞いたのだが、それがまさかあの楽器屋だとは思いもしなかった。
「楽器屋の店長さんが引退されて、咲の担任の先生だった人が新しい店長さんになるんだって。それで地元出身だからって咲が誘われたみたいよ。」
娘の担任が偶然にも四名出身だったというのは、入学した頃に妻から聞いてはいた。そんな偶然あるんだなと思ったものだが、その縁でそんな話になっているとは思ってもいなかった。
「大丈夫なのか?」
「何が?」
「その就職話。」
「だから何が?」
「何がって…。」
言いたいことは色々あるが、それ以上言葉を続けるのは止めておいた。娘が決めたことだし妻からその話を聞くと言うことは、勿論妻にも相談はしているだろう。そうして纏まった話に、今更父親が横槍を入れるべきじゃないのは理解している。
「咲ちゃん帰ってくるの嬉しい?」
妻が私を揶揄いにくる。
「そりゃね。」
「ふふふ。」
3月になると娘が卒業し、東京から四名の我が家に戻ってきた。妻と二人の静かな暮らしから急に家の中が賑やかになる。
4月。娘の新社会人としての生活が始まる。4月中は今の店舗からの引き継ぎとかで、あの口髭の店長から仕事を教えてもらうらしい。毎日忙しそうにしているその顔は傍目から見ても充実感に溢れている。
5月。楽器屋は閉店しリニューアルに向けての準備期間の1ヶ月だと聞いている。ただ掻き入れ時のはずのゴールデンウィークに娘がずっと家にいて大丈夫なのかと心配にはなったがいちいち口は出さない。ゴールデンウィークが明けると、連日遅くまで店で頑張っているようであった。
6月。ようやくリニューアルオープンに漕ぎ着けたらしい。娘の担任であった新店主はやはりその道では名の通る人物であったらしく、彼の仕事の関係者である大物アーティストが四名のテレビ局に向けてコメントを発表したと、テレビや新聞の地方版のニュースになっていた。
「気になるんだったら、覗きに行ってきたらいいのに」と、妻が私を囃し立てる。確かに気にはなるが用も無いのに社会人の娘の勤務先にわざわざ親が出向くこともないだろうと思う。現に私の勤務先に私の親が挨拶に来たと言う記憶はない。
「流石に用も無いのに親が尋ねに行くのは変だろ?」
「用なんて作ればいいのよ。楽器屋さんなんだから、客商売でしょ?お客さんとして行ったついでに挨拶すればいいのよ。」
そう言われればそうか。何か買いに行ったりすればいいのかと考えて数日、リペアマンとして有名な人物であるのなら私のギターのメンテを頼もうと決心をし、妻に伝えた。
「咲に言わなくていいのか?」
「わざわざ伝えて、来ないでって言われたらどうするの?黙って普通にお客さんとしていったらいいのよ。ほんとにいくつになってもそう言うの下手なんだから。」
妻に呆れられた。
日曜の休日。リニューアルオープンからもう半月は経っているので、店の方も少しは落ち着いているだろう。私は昼過ぎに家を出て、昔のように大通りの市営駐車場に車を停める。そして楽器屋までの道のりをギターケースを持ち歩いて向かった。
「いらっしゃいませ。」
反射的にお客さんの顔も見ずに気配だけで声を掛けてきたのだろう。我が娘が私に声をかけてきた。
「あれ、お父さん、どうしたの?」
店内には私の他、数人の客と思われる人も居たが、娘はまっすぐ私の元へ向かってきた。
「お父さんのギターのリペアを頼もうかと思って。」
「そんなの、言ってくれたら家で私が診るのに。」
「そう言う訳にはいかないよ。それにこの楽器屋にも一度来てみたかったし。」
「そっか。じゃあ先生紹介するね。今先生、リペアブースで仕事してるから。」
家でも先生と呼んでいたのでまさかと思っていたが、上司になった今でも先生と呼んでいるらしい。娘はブースに呼びに行くと、エプロンをした先生が表に出てきた。
「こんにちは、ご挨拶が遅くなりまして申し訳ありません。初めまして、店主の新垣と申します。」
「こちらこそご挨拶が遅くなりまして申し訳ございません。進藤咲の父親でございます。娘がお世話になっております。」
店主の名刺をいただき、日本のビジネスマンの挨拶が始まる。
「それで本日はリペアのご相談とお伺いしたのですが。」
「はい。このギターなんですけどね。」
私はソフトケースからギターを取り出すと、流れるように受けった先生が早速リペアブースの机の上にギターを横たわせた。
「進藤さん、診断お願いします。」
先生は娘に私のギターの診断を任せるらしい。私は先生に仕事をお願いをしたいのだが、これがこの店のやり方なのかもしれないので口には出さずじっと待つ。娘はギターのネック上の弦の高さを測ったりしながら、クリップボードを片手にテキパキとチェックをつけていく。私はそれを見ながら専門学校ではこんな感じの授業風景だったのかと想像を巡らせる。
「先生。」
そう言うと一通りの診断が終わったらしい娘がクリップボードを先生に見せた。
「なるほど。えーそれでですけども、申し訳ないのですが私の方の仕事が込み入ってまして…」
「えっ!」
私より先に、娘が反応する。
「今ここで私がお受けすると、お渡しが1ヶ月後になってしまうと思います。申し訳ございません。」
「はぁ、そうですか。」
ならば、今日は弦だけを買って帰ろうかと考える。そもそもこの調整云々は娘の職場を見に来るための口実である。忙しいのであればそこにこだわる必要もないだろう。
「ただし、この店はもう一人優秀なリペアマンがおりまして、その者にお任せいただければ1時間ほどでお渡し出来ると思うのですが。」
「えっ!?」
娘が再び反応する。
「娘がリペアをするということでしょうか?」
その優秀なリペアマンというのが誰なのかは流石に分かる。先生はニコニコしている。
「如何なさいますか?」
「でもお父さんは先生に…」
「進藤さん、これはあなたがお受けすべき仕事だと思いますよ。お父様も如何でしょうか?」
「私は…、はい、お願いします。」
「それでは進藤さん。あとはお任せしても大丈夫ですか?」
「はい。…でも仕上がりのチェックはしてもらっても良いですか?」
「はい勿論。じゃあお任せしますね。」
先生はそう言うとリペアブースに戻って行った。
「それでこのギターだけどね。」
場所を店の中央の机に移し、娘による私のギター診断の結果報告が始まる。ネックが順方向に反っているのは、恐らくだがトラスロッドを回すだけで治る程度の問題らしい。その後に音の詰まりの様子を見てフレットを削るかなどの必要性が出てきた場合にはどうするかは相談で、ナットは特に問題は無いとのことだった。その他、オクターブ調整を行うが、店としてはどこまで手を入れるかと言うことを相談された。娘がリペア料金一覧表というものを私に見せて説明する。
「私は調整だけでいいと思うんだけどね。弦の交換、私がしちゃうと料金掛かるし。お父さんどうする?」
料金表を見るがそんなに無茶な料金ではなかった。
「せっかくだし、セットアップと弦の交換もお願いしようかな。どっちにしても弦の交換は必要だろうと思ってたし。」
「分かった、じゃあ弦選んで。弦代は別に掛かるよ。」
「うん。」
いつもの太さのギター弦を選び、先に弦だけの会計を済ませる。
「お父さんってシャインの頃のメンバーカードとかって持ってる?」
「持ってないなぁ。」
「弦ってどこで買ってたの?」
「弦はそんな頻繁に変えないし、買う時はネットで買ってたかな。他の買い物のついでに。」
「そっか。このメンテの料金もスタンプの対象になるから新しく作るね。」
「分かった。」
「じゃあ、1時間ほど時間もらえるかな?すぐに出来ると思うんだけど一応余裕持ってね。」
「ここで待っててもいいのか?」
「ここで待ってるの?」
娘は少し嫌な顔をした。と言われても、私にこの商店街で1時間潰せというのは酷な話だ。
「じゃあそこの椅子座って待っててもいいし、机にある雑誌読んでてもいいし。気になった楽器弾いててもいいし。」
「適当にしてるから、お父さんの心配はしないで大丈夫だよ。」
「心配はしてないけどさ。」
そう言うと娘は中央のテーブルで私のギターの調整を始めた。隣に座って見てても良いと娘に言われたものの流石に作業の邪魔になるだろうと、楽器を見たり書物のコーナーで時間を潰す。外に出てコーヒーでも飲みに行こうかと思ったがそれはそれでやはり面倒臭い。
この店はウッド調の内装の所為もあるが圧倒的に木の匂いがする。店内にかかるBGMは、私が知っている東京の楽器屋のように話し声さえ遮るような音の壁ではなく、あくまでBGMとしての役割を全うしており、ギターロックやポップさのあるブルースロックやフォークロックを中心とした選曲であった。これは楽器好きには心地の良い店作りを優先させた結果なんだなと、素人でも理解できるコンセプトだ。
「お待たせしました。」
娘は他のお客さんの接客もしながら作業を続け、30分ほど経っただろうか。娘が調整していたギターを先生に見せに行っていたのを遠目から見ていたのでそろそろかなと思っていると、案の定私を呼びにきた。
「お待たせしました。これで多分大丈夫と思うので弾いてみてください。弦高は元々の張っていた弦の高さを基準に合わせてます。」
娘の調整したギターを手に取る。娘は手慣れた手つきでアンプから音を出す準備をしている。
「アンプの音作りは自分でしてね。」
「ああ。」
ギターを弾きながらアンプのつまみを触る。なんとなくでも楽器の音とネックを握った、ギターを弾いた感触が明らかに違う。これはアンプを通した音と言うよりは生の鳴りが違うのだろうと、素人なりにも分かった。
「すごく良くなったと思うよ。ありがとう。」
「本当に大丈夫?弦高は?」
「問題無いよ。大丈夫。」
ギターのボリュームを絞りアンプをミュートした状態でギターを弾いてもみたが、明らかに弾きやすくなっている。もう何年、何十年と弾いているギターに再び新しい命が宿ったように感じる。
「進藤さんの腕は確かですから、心配なさらないで大丈夫ですよ。」
私と不意に目が合った先生が、仕事をしながらのリペアブースから声をかけてくる。
「ありがとうございます。」
先生に向けて咄嗟に出た言葉は感謝だった。
「これが今日の作業の詳細ね。」
先ほど娘が付けていた診断書だ。
「ありがとう。」
そう言うと私はソフトケースにギターと診断書をしまう。この紙切れも大事な宝物だと思う。
「じゃあ、お会計するね?」
娘がレジに立ち会計を始めた。
「あ、これ、お父さん持ってないよね?」
会計の後、娘が私に見せてきたのは小さいギターアンプの形をしたものであった。
「お父さんってミニプラグのなんか聞く物って持ってる?」
「ミニプラグ?」
「うん。ヘッドホンとかイヤホンとかの。」
「ああ、あるよ。一応ね。」
「これ、それで聞くとギターアンプの音がするのね。ヘッドホンアンプって言って、最近はみんな自宅練習用に持ってるんだけど。」
「へえ、そんなのあるのか。」
「じゃあこれは咲からのプレゼント。父の日のプレゼント。」
「本当に良いのか?」
「うん。」
「そっか。」
「じゃあこれで。ご来店ありがとうございました。」
娘と先生に見送られ店を後にする。家に向かう足取りが軽い。早く家に帰ってギターを弾きたい。しばらく忘れていた感情だ。
そっか、あの時の娘もこんな気持ちだったのかと思い至ったのだった。
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