ソウルシャイン
たきたたき
第1話 リペアマン
風呂上がりにキンキンに冷えた缶ビールの蓋を開け、喉を鳴らしながら流し込む。喉が胃が全身が喜んでいるのが分かる。「ぷはぁぁあ」と思わず声が出た。
「さっきから電話鳴ってるわよ。スマホ!」
妻がわざわざ台所まで届けてくれた。受け取ったスマホの発信通知には『三郎さん』と出ている。三郎さんとはあの三郎さんだろうかと、自分のスマホなのに不思議に思う。しかし迷っていても仕方が無いので電話に出た。
「あーもしもし。夜分にすみませんが、そちら新垣さんのお電話でしょうか?」
「はい。そうです。」
「あー、楽器屋の小山です。分かるかな?
そこまで言われてやっと理解した。私の地元、四名にある楽器屋の主人の三郎さんだ。しかし三郎さんが私のスマホに電話を掛けてきたのは恐らく初めてのはずである。だから自分で登録したはずの三郎さんと言う名前にピンと来なかったのだと、一人で納得をした。
「はい。ご無沙汰しております。新垣です。こんな時間にどうされましたか?」
「今大丈夫かな?お忙しくは無いですか?」
「はい。大丈夫です。今、自宅で風呂上がりのビールの缶を開けたところです。」
「あーそれはそれは、お疲れ様ですね。えー、それでいきなり本題なんだけどね。新垣くん、前にいつか自分の楽器屋を持ってみたいって話してたよね?私の記憶違いじゃなければ?」
「あーはい。一応それはずっと夢なんですけど、まぁ中々ですね。」
「それでもし良かったらなんだけどね、そのぉ、楽器屋をやってみる気は無いかな?」
三郎さんと初めて出会ったのは私がまだ高校の1年生の頃だっただろうか?高校に入りギターを買うために訪れたのが以前の店舗の小山楽器だった。その頃の小山楽器は今のように路面に接していなく、四名の繁華街の中心から少し外れた雑居ビルの2階にひっそりとあった。当時の日本はバンドブーム真っ最中であり、私も例に漏れず仲が良かった学校の仲間たちとバンドやろうぜと、地元のローカル新聞の広告にあった小山楽器の住所を頼りに学校終わりの4人で押し掛けたのだった。
「いらっしゃい。」
奥のカウンターに座っていたエプロンをした口髭のおじさんと、もう一人の若い店員さんが声をかけてくれた。
「こんにちはー。」
誰からとなく僕らは返事をした。
「ゆっくり見てってね。気になるのあったら音も出せるんで。」
「はい!」
と言っても僕ら4人が入ると狭い店の中はギュウギュウで、壁にかかっているのは勿論、床に立てているギターやベースに足やカバンをぶつけてしまわないかとヒヤヒヤだった。全てのギターには値札が挟まっていて、10万円や20万円などと言う高校生には途方も無い値段のものがゴロゴロしている。そんなだったのでその日は早々に退散をした。
後日、やっぱりギターが見たくて今度は僕と同じくギターを買いたいクラスメイトの健ちゃんと2人で小山楽器を訪れた。さすがに2人だとこの間のように身動きが取れないと言うことはなく、じっくりと見ることが出来た。
「目的はエレキギターかな?」
2人して楽器に穴が開くほどに凝視していた僕らに声をかけてきてくれたのは、やはり口髭のおじさんだった。
「はい。エレキギターが欲しくて、とりあえず値段だけって見にきたんです。」
「どんなのが欲しいとかってのはある?」
「はい一応。」
ギター雑誌を読み漁っていたのである程度の知識は得ている。値段も分かっているし現実的に海外ブランドの本物は高すぎて買えないのも知っている。それでも健ちゃんはLPタイプ、僕はSTタイプが希望だ。
「そっかぁ、じゃあこれはどうかな?」
口髭のおじさんが勧めてくれたのは、本物の海外ブランドにJAPANとついたメーカー名だった。
「アメリカのメーカーが日本で展開してるモデルでね、日本の工場で作ってるラインなんだけどね。僕はむしろこっちの方が良い音すると思うんだけどね。」
それって日本で作ったパチモンの安いモデルと同じなんじゃないの?と思ったのだけど、このおじさんは物凄く真面目な顔でそんなことを言う。おじさんは続けて健ちゃんにも同じように本物のブランドに別の名前がくっついた別のメーカーのを勧めてきた。
「本物とどう違うんですか?」
健ちゃんも物凄く真顔でそんな質問をする。するとおじさんも真顔で返答した。
「うーん、そうだなぁ。どう説明したらいいのか難しいんだけどね。ギター自体の設計は同じなのね。でもそれを日本の技術者が作って組み立ててるわけ。アメリカと日本じゃ人件費も違うし、日本で組み立てればアメリカから日本に運ぶ輸送代とかも浮くしね。だからこの値段なの。でもモデルに依ったらピックアップは本家アメリカのと同じだったりするし、そもそも日本の技術者って優秀だからね。僕はこっちのでも十分使えると思うんだけどね。」
なるほど。おじさんの言いたいことは分かった。
「とりあえずカタログあげるから持って帰って考えてみてよ。あ、それとも店にあるの弾いてみる?実際に音聞いてみないと分かんないよね?」
「俺ら全くの素人なんで全然弾けないっす。よかったら弾いて貰えないですか?」
健ちゃんがグイグイ行く。
「僕の演奏でいいの?そっか、じゃあ。」
そう言うとおじさんは壁に掛かっていた88000円のLPモデルを手に取ると、椅子に座ってチューニングを始めた。その後、黒い線をギターとギターアンプに繋ぎ、おじさんがギターを弾き始めた。初めて間近で見たエレキギターの演奏は、たとえ口髭のおじさんのブルースっぽいフレーズでも、僕たちのギターを弾きたい欲を掻き立てるには十分だった。
その後、夏休みにそれぞれバイトに明け暮れた結果、僕は口髭のおじさんがくれたカタログの中から85000円のSTモデルを取り寄せてもらい、後日無事に手に入れることが出来た。こうして同じようにLPタイプを買ったギターの健ちゃんと、ベースを買った直樹、お兄ちゃんのドラムセットで既に練習を始めていた小林の4人で、文化祭でのライブを目標にバンドを始めたのだった。
その後も私は一人で小山楽器を訪れた。楽器屋にいる自分に酔っていただけなのかもしれないし、当時から楽器に囲まれているのを幸せに感じていたのかもしれない。とにかくなぜか分からないがあの楽器屋と言う独特な空間が好きだったのだ。その内、口髭のおじさんがここ店長さんで常連の人たちからは三郎さんと呼ばれていることを知り、三郎さんも私の名前を覚えてくれて新垣くんと呼んでくれるようになった。当時の楽器屋には色んな人が出入りをしていて、インターネットの無い時代に音楽の生の情報を感じられる貴重な交流の場でもあったのだ。
ある日、小山楽器を訪れると三郎さんは奥の机でギターを解体し何かの作業をしていた。
「何してるんですか?」
「お、新垣くん、いらっしゃい。今、ピックアップ交換の依頼が来ててね、それでピックアップの穴を広げてるの。シングルからハムに交換して欲しいって。」
三郎さんはそう言うと、元のピックアップとこれから取り付けるであろう大きめのピックアップを見せてくれた。
「え?三郎さん、そんなこと出来るんですか?」
「ははは、一応ね、これでもリペアマンだからね。」
リペアマン。初めて聞いた言葉だ。直訳すると修理する人ってことだろう。素人にそんなことが出来るなんて全然知らなかった。でも考えてみたら、誰かが作ってるってことは誰かが修理もするんだ。そう考えると自転車屋さんのお兄ちゃんはいつもパンクを治してくれる。それと同じことなんだろうか。
「それって僕にも出来ますか?」
「ん?それって、リペアのこと?」
「あ、はい。」
「んー、そうだねえ。一応専門の知識も必要だし電気回路のことも知らないといけないからね。簡単にすぐ出来るよとは言えないけどね。」
「そうなんですか。」
「興味あるの?」
「ちょっと。」
本当にちょっとだ。話の流れでただ僕にも出来るのかな?と、ほんのちょっと疑問を持っただけだった。
「リペアだけって訳じゃ無いけど、ギタークラフトってね、ギターを作る技術を覚えるための専門学校ってのもあるんだよ。知ってるかな?」
「知らないです。」
「そっかぁ。あ、ちょっと前のだけど入学パンフレットがあるはず。こんな学校が出来ましたって送られてきたやつ、まだ捨ててないはずだから。ちょっと待ってねえ。」
そう言うと三郎さんは仕事の手を止め、徐ろに立ち上がり奥のテーブルの書類の束に手をつっこんだ。
「あった、あった。これどうぞ。持って帰っていいよ。」
これが私と今の勤務先である専門学校との出会いである。
高校を卒業するとその専門学校に入学をするために東京に引っ越した。ギタークラフト科。当時の日本では珍しいギターを作る為に特化した専門学校だった。
その後も私は帰省する度に、店の休みと被らない限りは少しの時間でもと小山楽器に顔を出した。入学しましたと報告をし、今年卒業しますと報告をする。その学校の系列の工房に就職して働いてますと報告に行った際には、三郎さんは顔を崩して我が事のように喜んでくれた。そして結婚をすることになりましたと報告をし、子供が産まれましたと挨拶に行った。そのうち仕事が忙しく帰省できなくなれば年賀状を小山楽器宛に書いた。するとその返事は三郎さんの自宅の住所から送られてきた。確かこの電話番号はその時の年賀状に書かれていたものだったはずだ。
その後、私の会社の配置換えで楽器販売店の専属リペアマンになったと報告をしたり、小山楽器が移転して『楽器販売 SHINE』と屋号が変わったと伝える挨拶の葉書を受け取った。その後、私が古巣である専門学校でクラフト科の先生をすることになったと伝えてからは、久しくお会いできていない気がする。
そんな中の三郎さんからの電話であった。
「誰だったの?」
妻が会話のとっかかり程度の興味で私に尋ねた。
「三郎さん。四名の楽器屋さんの。分かるかな?」
「ああ、年賀状の。」
「そう。」
「それでなんて?」
「小山楽器を引き継いでくれないかって。」
「え?」
妻にとっては思いもよらない言葉だっただろう。
「引き継ぐって、あなたがそのお店の店長さんになるってこと?」
「まぁそうだね。今回はその打診だったけど。」
「そっかぁ、ふーん。」
何が「ふーん」なのかは分からないが、妻は自分で考える時間が欲しい時には必ずこうして「ふーん」と言って時間を稼ぐ。癖のようなものである。
「良いんじゃ無いの?あなた、前から自分の店がしたいって言ってたよね。夢なんでしょ?」
「それはそうなんだけどさぁ。話が急で。」
「それでなんて返事したの?」
「とりあえず考えてみてくれないかって言われたんで、考えてみますとだけ。」
「そっかぁ。」
「うん。」
「…嫌なの?」
「嫌って訳じゃ無いけどさぁ。話が急すぎて現実味が無いって言うか。…じゃあさ逆に聞くけど、なんですぐ良いんじゃ無いって言えたの?」
「そうねえ。子供達のことはもう大丈夫でしょ。現に今は私達2人で暮らしてるんだし。」
2人の子供はもう家を出ている。上の息子は付き合って3、4年の彼女がおり、既に紹介もされていてこのまま行けばいつか結婚するのかもしれない。下の娘は靴職人になると専門学校に行き今年の春、無事靴のメーカーに就職をし会社に近い場所に一人で暮らしている。そう言われると確かにもう子供の心配は無いのか。
「それに私もいつかは親の面倒も見ないとって思ってたし。」
我々が50歳を目前にしていると言うことは、お互いの親も良い歳である。一人娘である妻の言うことも分かる。それに親が住んでいる我々の田舎に引っ越すと言う話は何度か話題には出たことがあった。
「四名の楽器屋さんってことは、あなたの実家に引っ越すってことでしょ?じゃあ私の実家も近いし、それはそれで良いんじゃ無いかなって思っちゃった。」
私と妻が知り合ったのは私が専門学校を卒業し工房に就職してすぐの頃だ。居酒屋でたまたま隣になった女性のグループの中に妻がいた。それだけのことなのだが、お互いを意識したのは出身が同じ四名だったということからだった。私は3年制の専門を卒業して新卒、妻は短大を卒業しての新卒で妻の方が一つ年下。お互い若かったのだ。その日、周りに運命の出会いだと囃し立てられた流れでお互いの携帯番号を交換し、そのまま付き合いが進むと気がつけば結婚、出産、子育てと経て今に至る。勿論この女性と添い遂げる覚悟はとうに出来ているので、引っ越すなら当然ながら一緒である。
「なるほどなぁ。」
「お義母さんも一人で住んでるんだし、お義母さんさえよかったら私は全然大丈夫よ。」
父親は私が就職した翌年の冬に突然死んだ。それから母親はずっと一人で実家に暮らしている。と言っても近所に私の姉家族が住んでいるし、母親は母親で独自のネットワークがありそれなりに忙しくしているらしいので特に心配はしていない。
「なるほどなぁ。」
「さっきから他人事みたいに、なるほどなぁなるほどなぁって。全くもう。」
妻と話し合った結果、取り敢えず次の週末に2人で四名に帰ってみようと言う話になった。
電車で2時間半の距離に夫婦で帰省する。思えばこうして子供を交えずに夫婦だけでのんびりと旅行をするのも久しぶりかもしれない。
今回の帰省については互いの親にはまだ何も伝えておらず、私が四名に用があるから一泊だけ帰ると伝えている。四名に着けば妻は妻の実家に、私は私の実家に帰り、明日の昼に妻が私の実家を訪ねてきて合流し、夕方の電車で一緒に東京に戻る予定だ。
三郎さんには土曜の昼頃にお邪魔すると伝えているので、私は四名の駅で妻と別れると真っ直ぐ小山楽器に向かった。
前々から知ってはいたことなのだが、四名で1番の繁華街だったはずの一番街通りは見るも無惨なシャッター通りになっている。このシャッター商店街問題については地方都市はどこもこんな感じとテレビでやっていたが、いざここで働くかもしれないという目線で見ると流石にショックを受ける。
しかし外から見る小山楽器は前回に立ち寄った時と変わらずの風景で少しホッとした。入り口をくぐると楽器店特有の匂いがした。
「いやー、遠路遥々すまないね。今着いたところかな?」
奥のカウンターに居た三郎さんが私に気付くと歩み寄ってきてくれた。
「はい。ご無沙汰しております。久々に妻と二人でのんびりと旅行気分を味わえました。」
「そう、それは良かった。それで奥様は?」
「先に妻の実家に帰っています。私は私の実家に今日は帰る予定でして明日合流する予定です。」」
「そうでしたね。奥様も四名の人でしたよね。」
「はい。」
久々に見る三郎さんはすっかり老人になっていた。前にお会いしたのは確か3年ほど前だっただろうか?三郎さんのトレードマークの口髭は完全に色が抜け落ちて真っ白になっており、髪の毛も白髪どころか随分と薄くなっている。それに背も少し縮んだ気がする。
「ははは、見ての通り、もうすっかりジジイだよ。髪も禿げてきてさぁ、情けないね。」
「そんなことないです。まだまだお元気そうですし。」
「元気は元気なんだけどね。まぁ座って座って。」
そう言うと三郎さんは奥の定位置に戻り、私はテーブル越しに高い椅子に腰を掛けてリュックを置いた。
「それで早速なんだけど、僕がもうそろそろかなって思っててね。それで良かったらこの店、受け継いでもらえないかって思ってね。電話を差し上げたんだけどね。」
この間の話の内容と全く同じことを三郎さんは話した。
「そろそろって、引退されるんですか?」
「うん。僕ももういい歳だし、なにより目が見えなくなってきててね。運転したり生活する分には問題無いんだけど、細かい作業が出来ないからリペアの仕事を最近は受けられてないんだよね。今の人はみんなインターネットで楽器も買うでしょ?それでリペアも出来ないってなると街の楽器屋さんとしては手詰まりでね。うちの奥さんとも話したんだけど、この仕事はそろそろじゃないのかなって。」
「そうなんですか…」
なんて声を掛ければ良いのか分からなかった。私が50歳に近づいていると言うことはそれと同じだけ三郎さんも歳を取っているはずである。
「前に新垣くん、言ってたでしょ。いつか自分のお店を持ちたいって。それを覚えててね。それで真っ先に連絡を差し上げたって訳なの。」
「ありがとうございます。僕なんかのこと、気にかけて下さって。」
「それでどうかな?このお店なんだけどね。」
それからこの店の現状を詳しく聞いた。端的に説明すると、当たり前だがこの建物にはビルの所有者であるオーナーがいる。そのオーナーと言うのはこの四名では知らない人がいないほどの地元の大企業の社長さんで、趣味の音楽文化を四名で廃れさせないようにと繁華街の一等地であるこのビルを買い、四名の町の別々の場所で細々と営業していた現在2階で営業をしている旧打楽器のダイワ、3、4階にオーナーさんの系列企業である音楽関連のイベント会社直営の音楽スタジオSTEPBEAT、そしてこの旧小山楽器と地下一階にCOLOR SOUND RECORDSという中古レコードとCDを販売している店を入居させて音楽発信ビルを作り、そのタイミングで小山楽器から楽器販売 SHINEへ、打楽器のダイワからドラム&パーカッション専門店 DAIWAへ屋号が変わったと言うことらしい。要は三郎さんもそう言う意味では雇われ店長の状況ということだ。
とは言え、オーナーさんは経営に一切口出しをしてくることはなく、いつも手厚いサポートをしてくれて感謝しかないと三郎さんは言っている。それはきっと本心だろう。三郎さんから伺ったこの店の家賃もこの場所を考えれば破格の値段だった。
「今来てくれてるバイトの子はね、僕が店を辞めるのならその子も辞める良い機会だって言っててね。僕としては少し寂しいけどそれはそれってことで。だから新垣くんには何のしがらみも無く本当に思うままにやってくれて構わないからね。僕が協力出来ることは勿論するし、ここの工具類も新垣くんが使ってくれると言うのならタダで渡そうって思ってる。使えないのに僕が大事に持ってても仕方無いしね。だから本当にゼロから自由に君のお店に作り替えてくれて構わないんだよ。」
「そうですか。」
「と言っても急だよね。電話したのもつい最近だしね。新垣くんにも都合ってのがあるだろうしね。」
「いつ頃っていうのは具体的に決まってるんですか?」
「ん?このお店をいつ閉めるかってことかな?」
「はい。」
「今のところは遅くても年度末かなぁって思ってる。中途半端な時期だとみんな色々大変でしょ。3月末だったらみんな納得出来るだろうし。ね。」
あの電話を貰ってから、実際にお店をやるとしてと超現実的なシミュレーションをしてみた。25年以上勤めている今の会社と現在の勤め先である系列企業の専門学校を辞めるとなると、生徒のことを考えればやはり3月の末期締めが妥当だろうというのは間違いない。
自分の店のイメージは昔からずっと頭の片隅にある。私の本分はリペアマンである。だから何にでも対応出来るしっかりとしたリペア工房を楽器店に備え付けるのは絶対条件だ。そうなると専門の工具なども必要になる。ただそれらは会社に掛け合えば、中古を安くで譲ってもらえるであろうことは今までの事例で分かっている。とは言え、この店では流石に塗装までは出来ないだろうということも分かっている。これは出来ることと出来ないことの線引きは明確だということだ。それに店の運営は以前の店舗勤務の際に、会社の方針としてリペアマン採用の私にも徹底して叩き込まれており、販売の商材の入手ルートも今までの繋がりで問題は無さそうだ。昔の販売店勤務の強みがこんなところで出ようとは思ってもみなかったが。
そう、考えれば考えるほど問題は無いのである。たった一つ、このシャッター通りの四名の繁華街で本当に経営をやっていけるのか?と言うその一点のみが大きな問題であった。
「オーナーさんがね。市長と県知事と連携を取ってくれて、この辺一体の再復興化の計画を進めててね。今でも少しずつ若い人のお店も増えてきてるのよ。後でその辺を歩いて見て回ってみるよ良いよ。だから経営は大丈夫だとは言い切れないけどね、この商店街のみんなで頑張ろうって気にはなってるんだよ。」
「そうなんですね。」
「うん。だから僕としては新垣くんの決心次第かなって感じだけども、決めるのは新垣くんだしね。慎重になるのに越したことは無いと思うよ。」
「もし、もしですけど。僕が断ればこのお店ってどうなっちゃうんですか?」
「うーん、そうだねえ。僕ももうお店には立たないって決めちゃったから閉じちゃうと思う。それでも上のドラム屋さんとかレコード屋さんとかは続くし、上のスタジオは今でも教室にバンドスタジオにって繁盛してるしで、このビルは無くならないからね。ただここからこの楽器屋が無くなるだけだと思うよ。この店を閉めた後は他の楽器屋さんが入るかもしれないし、地下のレコード屋さんが一階に移るだけかもしれないし、それに橋向こうに昔からの楽器屋さんもあるでしょ?あそこもまだ続いてるし、この街から楽器文化が消えるってことじゃないから、そこまで心配はしてないんだけどね。」
「そうですか。」
「まぁ一回持って帰って考えてみてよ。ね?」
三郎さんと別れた私は一人、商店街をぐるっと回ってみることにした。確かにシャッター通りはそうなのだが、ポツポツと洒落た飲食店やカフェ、地方都市には場違いなセレクトショップのような綺麗な佇まいの店や、スケボーやスノボをディスプレイした若者向けのお店や民族雑貨や西洋雑貨の店が営業をしている。三郎さんが言っていたように、おそらく県か市が間に入ってお店を開業したい若い人との間を取り持っているのだろう。
そんなことを考えながら歩いていると、一つの答えが出た。そうだ。こんな若い人たちも不安なはずなのに必死で頑張っているんだ。経験もなく手探りなはずなのに、それでも必死にやってるんじゃないか。それに引き換え経験だけは十分あるはずの私は一体何を恐れてるのか?
妻が言うように今回の話は、私が腹を括る時期が来たと言うことかもしれない。
それから私は実家に向かい今回の話を母親にした。母親は店のことはともかく帰ってきて一緒に住むも良し、母親と一緒に暮らすのが嫌なら妻の方の家に住むも良しとのことだった。
そして私が帰郷する度の恒例行事である父親の墓参りに母親と2人で向かった。父親が死んだのがもう何年前のことか正確には思い出せない。それと同じように父親のことも全く思い出せなくなっている。それにこれはそもそものことなんだけれども、父親が寡黙な人で自分のことは全く話さない人だった故に私は彼のことを何も知らない。好きなものや嫌いなものは勿論、趣味はなんだったのか、どんな学生時代だったのか、どんな仕事を具体的にしていたのか。そんな話を母親とする機会もなく今に至る。母親が父親のことを話す時には、未だに決まって寂しさそうな顔をするのでそれ以上踏み込んだ話が出来ないのだ。そして私は記憶の中にある朧げな父親の面影を思い浮かべては、ただ静かに先祖の墓に参るのである。
翌日、お義父さんとお義母さんと一緒に車で私の実家にやってきた妻は昨晩のうちに今回の話をしていたらしく、お義父さんサイドでも出来る限り協力をするとのことだった。
もう引き返せないと気持ちは決まった。もし経営が立ち行かなくなればそれはその時かもしれない。と、本来ならばもっと慎重に考えなければいけないことなのに、一度腹を括れるとすっと気持ちが楽になった。
駅に向かう前に妻と2人、バスに乗り小山楽器へ向かう。
「ねえ、いつまで小山楽器って呼んでるの?随分前に名前変わったんでしょ?」
「そうだけどね。僕の中ではずっと小山楽器なんだよ。」
「なにそれ。」
お店に着き、三郎さんに挨拶をする。妻とも三郎さんは面識があるので「ご無沙汰しております」である。
「そのお話、有り難く前向きに検討させていただきます。まだ今の会社や今教えている学校とも話し合う必要があるので、今ここでその話お受けしますとは行かないんですけど、前向きに検討させていただきます。」
「そう。そっかぁ。良かったぁ。ちょっと気持ち楽になったよ。うん。お返事待ってますからね。」
「はい。」
「それに今まで面と向かって言えなかったけどね。…新垣くん、よく頑張ったね。君のリペアマンとしての評判はちゃんと僕にも届いてるよ。うん。大したもんだ。…これからもよろしくお願いしますね。新垣くん。」
そう言うと三郎さんが右手を差し出してきた。私は不意に投げかけられたその温かい言葉に込み上げるものを抑え、言葉に詰まりながらもそのゴツゴツとした大きな職人の手を握り返すと、口髭の店主は笑顔で両手でしっかりと私の手を握り返してきたのであった。
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