5 冷蔵庫
タクシーの運転手に運賃を支払うと、手持ちの現金はほぼ無くなった。
遠野の部屋に戻ると、遠野は観葉植物の手入れをしていた。
「あ、おかえり。ほんとにちゃんと帰ってきてくれて嬉しいよ」
自分が脅迫したのだということを忘れたかのように、微塵も悪びれる風もなく言う。
「アパートに警察が来ていて。あそこはしばらく危険かもしれません」
「そう。じゃ、ここにいたほうがいいね。それじゃ、そろそろ私は寝るから。夕飯食べたかったら勝手にデリバリーでも頼んで」
遠野は髪をまとめていたクリップを外す。長い髪が背中に流れた。
「もう寝るんですか。まだ18時ですけど」
「今日は朝早かったし。もう眠いから寝る」
遠野は奥の方の自室に入っていってしまう。昨日も犬丸はカウチソファーに寝て、遠野は奥の部屋で寝ていた。これからもこのソファーで寝るはめになるのだろう。ソファーはそこそこ広くて寝心地は悪くはないのだが、首や肩のコンディションを保とうと思うと、今後タオルケットや枕を用意しなくてはならないだろう。奥の部屋がどうなっているのかは知る由もないが、構造から言っておそらくまあまあ広い部屋であることは間違いない。
「アパートに戻ったんですけど、僕、お金持ってません。バイトにも行かないと収入ゼロです」
犬丸はその背中に言うが、遠野はうるさそうに手を振ってリビングのローテーブルの上に置かれている現金を指さすと、バタンとドアを閉めた。現ナマの一万円札が何枚か、ガラスの台座のメモクリップに挟んで置いてあった。
遠野は見たところ、会社に勤めるでもないし無職に見えるが、このマンションに住んでいるし、お金は持っている。見たところ21歳の犬丸よりもいくつか年上に見え、もしかしたら大学生をやっているのかもしれないと最初は思っていたが、これまでの言動からどうやらそうではないらしい。一体遠野はどこを収入源としているのだろうか。犬丸はメモクリップに挟まれた札を見ながら思った。
現金を渡されたからと言って素直にありがたく使えるほど犬丸は調子のよい人間ではなかった。あげたんじゃない、貸しただけ、などと言われ、後々に法外な利子を請求される可能性は、あの遠野に限らずとも十分にありうる。メモクリップの金は極力使いたくなかった。
しかし、電子マネーとして持っていた小遣いがそっくり消えてしまった今、財布に金がないことは事実だった。犬丸は自分の情けなさに額を押さえてため息をつく。今晩くらい食事を抜いても十分耐えられるだろうが、この状況が今後も続くのであればその行動はほぼ無駄だ。
犬丸はキッチンに向かい、冷蔵庫をそっと開けた。他人の冷蔵庫を見るのは少し良心がとがめたが、何かカロリーブロックとかカップラーメンとか、安くて非常時に食べるように保存している手軽なものがないかどうかを確認しておきたかった。冷蔵庫を開けると鮮やかな色のみずみずしい、さまざまな種類の野菜がまず目につく。それから高級そうなハムやチーズ、ヨーグルト、何かの漬物を作っているらしきガラス瓶、何種類かの料理の余りを入れたらしきタッパーが並んでいる。飲み物を入れるポケットには、調味料らしき瓶が並び、スパイスや香辛料の小瓶がずらりと陳列されている。まさに料理が趣味な人、の冷蔵庫だった。勝手に料理するのも気が引けるし、後で使う予定だった食材を食べられるのも困るだろう。この冷蔵庫から何か食べようとするなら、やたらたくさんあるセロリをかじるくらいだろうか。
冷凍庫には、冷凍された肉や魚、氷が入っていた。
野菜室を開けると、そこにはペットボトルのいちごミルクがぎっしりとストックしてあった。かなり依存している。
「ん?」
野菜室の引き出しを閉めようとしたとき、足元に何か落ちたので手を止める。落ちたのは錠剤を包む包装紙だった。一粒ずつ押し出して使う、たしか、PTP包装とか言ったはずだ。野菜室に視線を戻して気付く。大量のいちごミルクに隠れて、その下には大量の薬が冷やされていた。薬局の紙袋が見えるので怪しいものではないだろうが、どうやら精神科の病院から処方されているらしかった。
遠野が精神的な病を抱えていることに対してあまり驚きはなかった。薬がまだ入っている包装と、すでに出していて入っていない包装が入り乱れていちごミルクの下に堆積していた。種類はかなりある。犬丸は野菜室を閉めた。
今夜は何も食べないことにし、ソファーのもとに戻ってリュックサックを開け、ノートパソコンを取り出した。パソコンでいくつかのアプリの自分のアカウントにアクセスすると、昨日から今日までに届いた通知をチェックしていく。大学からのメール、バイト先からのメッセージ、それから、彼女からのメッセージ。犬丸は昨日、彼女と午後11時から電話をする約束だったのにすっぽかしたことを思い出した。チャット蘭を開くと、犬丸から連絡が来ないことに対してかなり拗ねているようだ。慌てて詫びのメッセージを送る。
『昨日は連絡できなくてごめん。実はスマホが壊れちゃって』
すぐに返信が来た。
『嘘。どうせ、別の女の子でしょ』
『違うよ。本当に壊れたんだ。今、パソコンから送ってる』
『パソコンからできるなら、なんで昨日返事してくれなかったの?』
『本当にごめん』
それからしばらく犬丸が平身低頭謝り続けると、彼女の方が根負けしたのか、呆れたように許してくれた。
『スマホは使えないから今までみたいに頻繁に連絡をとることは難しくなると思う』
『それって、愛が冷めたってこと?』
『どうしてそうなるんだよ、愛してるよ』
『だって、好きな人とは常につながっていたいと思うじゃない』
『常にチャットしてなくたって愛してるって』
『もういい。私、お風呂入って来るから』
チャットが途切れる。犬丸は天井を仰ぎ、両手で顔を覆った。
しばらくそのままの姿勢で固まっていたが、やがて犬丸はゆるゆると首を振ってパソコンに向き直った。そういえば、ニュースをチェックしていなかった。ニュースサイトにアクセスしてみるが、特に轢き逃げについてのニュースは報じられていない。
「変だな……」
しばらくいろいろなサイトを徘徊してみるが、昨日のあの場所での事件については何も情報が出てこなかった。
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