第16話 命

だれも、出産は経験したことがない。

飛行船での暮らしは快適だった。水も食料も、安心して眠れるベットもあった。

スパンの記憶は混在してはスパンを悩ませることもなかった。

スパンは、スパン。

スパン以外の誰でもなかった。


エヴァの苦しそうなうめき声が響いていた。トーイはエヴァの手をしっかり握っている。

「清潔な乾いた布をできるだけ沢山集めて。それから、水。」

イブは、医学書とにらめっこをしている。

「えっとね、痛みの感覚が短くなったら赤ちゃんが出てくるわ。赤ちゃんには、お腹の中にいる間、お母さんの体から栄養をもらうために管がついてる。“さいたい”って呼ばれてるもの。それと赤ちゃんをお腹の中で守っている胎盤とよばれるものが。

赤ちゃんが出てきたら、つぎにそれがでてくるから、そしたら、スパン。あなたは、その管、えっと“さいたい”だっけ。と胎盤をこのはさみで切り離して。そのあと、赤ちゃんについている管の先をしっかりと結んでおいてね。」

スパンは顔を引きつるのを感じる。

「む、結ぶってどうやって?」

「ここ読んで。方法が書いてあるから。」

そういうと、イブはスパンに液晶パネル型の医学書とタッチペンを差し出す。

「カーミラ、あなたは、赤ちゃんがでてきたら、すぐ、お水をその容器にいれて。布を浸しておいて。」

四角い医療用の容器が置いてある。

水とシーツを沢山持ってきたカーミラにイブは指示する。

「赤ちゃんがでてきて、管を切ったら、そのあと、その水で綺麗に拭いてね。赤ちゃんは血だらけで出てくるの。

それと、綺麗になったら、しっかりとそこにある、タオルで赤ちゃんをやさしくつつんで。寒さに弱いらしいわ。えっと、それから、砂糖水を用意して、赤ちゃんにのませるのよ。濃すぎないよう、気をつけて。ほんのちょっとの甘味でいいのよ。」

「の、飲ませるって…どうやって…?」

カーミラは困惑している。

「ガーゼがあるでしょ。それに砂糖水を含ませて、赤ちゃんの口に含ませてね。」

「イブ、水じゃなくて、湯だ」

スパンが液晶パネルを見ながら言った。

「え?」

「ここに、30度のお湯って書いてある。」

「あ、じゃあお湯で。」

イブはお構いなく指示をだす。カーミラはあわててお湯を汲みに行った。

「トーイ、エヴァを励まして。さあ、そろそろ生まれるわよ。」

エヴァの苦しそうなうなり声が響く。

「エヴァ、もっと、力をいれて。もう頭が見えてきた。頑張って。」

エヴァが全身に力をこめる。絶叫する。今にも死にそうな声だ。

イブが叫ぶ。

「あと、少し!」

エヴァの力が一瞬ゆるんだ。

「なにしてるの。もっとふんばって!」

イブが怒鳴る。エヴァが獣のような、絶叫を上げる。

あまりの凄まじい光景にスパンは気持ちが悪くなり、気が遠くなりそうになった。カーミラは耳を両手で覆い、両目をぎゅっとつぶっている。トーイだけが、イブの声とエヴァの悲鳴に対して「がんばれ、がんばれ」と呟いている。

エヴァの真っ青な顔。イブのつりあがった目。緊迫した空気。血の匂い。

命を生み出すための痛みが伝わってくる。

エヴァが絶叫する。

エヴァが絶叫する。

エヴァが絶叫する。

とても人間の声とは思えない。

エヴァが絶叫する。

「でた!」

イブが叫んだ。エヴァの股の間から、ぬめぬめとした、赤黒い丸いものが出てきた。ずるずると、それは、這い出して、というより、押し出されるように出てきた。

イブはその物体をそっと抱きとめる。

小さくささやくように「よしよし」と言いながら。

その物体は、ピクピクと動く。

「スパン、管が出てきたわ。切って」

スパンは、ぼんやりとそのピクピク動くものをみている。

その物体から、長く太く、どす黒い管がある。その管は、エヴァの股の中へと続いている。

「スパン!」

イブの厳しい声に“ハッ”と我に返ったスパンは、清潔に消毒されたはさみを手にとると、管を切ろうとするのだが、手が震えて思うように力が入らない。トーイも手伝ってなんとか切ることができた。

エヴァが苦しそうな声を出した。ベチャと音がして胎盤が床に落ちた。どす黒い血に染まったそれは、室内の照明を浴びてヌメヌメと光っていた。それをスパンはどこかで見たことがあるような気がした。

「スパン。大丈夫か?俺が結ぼうか?」

トーイの声がした。スパンは再び我に返ると、口をほんの少し歪めたように笑うと“さいたい”を結んだ。

カーミラがイブから赤ちゃんを受けとった。イブがうろたえた目をして、小さくささやく。

「泣かないわ。」

赤ちゃんは泣かない。ピクピクとしてなにか苦しそうにしている。

スパンは、さっきの本の中に、なにか、重要なことが書いてあったのを思い出した。

(えっと、えっと、あれは…そうだ。)

スパンは急いで、赤ちゃんをうつぶせに抱くとその背中あたりを強く叩く。1回。反応なし。2回。赤ちゃんがなにかをゲボッと吐き出した。


母体の中で赤ん坊は育つ。その間、“羊水”という特殊な液体の中ですごす。肺の中にもその羊水は入り込んでおり、そのため水の中で赤ちゃんは快適に過ごすことができるのだ。、母親の胎内から外へ出てきた赤ん坊の最初にする仕事は、空気を吸うことだった。そのためには肺の水を吐き出さなくてはいけない。生まれた赤ん坊の背中をそっと叩き、水を吐き出させる。


弱々しい、泣き声が室内に響く。みんな大きく息を吐いた。赤ちゃんは息を吹き返したがその背中にはスパンの手形が赤く残った。(しまった。軽く押すんだった。)スパンは焦ったあまり、満身の力を込めて背中を叩いてしまっていた。泣いている赤ちゃんをタオルでくるみながら、スパンはささやく。(ごめんよ。ごめんよ。)

血で真っ赤に染まっている赤ちゃんの額にそっとキスしてみる。血の匂いがする。


カーミラは震える手で、赤ちゃんの体を拭き始めた。透明な水は赤く染まり始めた。赤ん坊は気持ちよさそうに目を細めている。その顔を見ているとカーミラもスパンも気もちに余裕がでてきた。

エヴァが、ささやくようにかすれた声で言う。

「赤ちゃんは?」

イブはエヴァの手当てをしながら

「いまカーミラが綺麗にしてる。安心して」

エヴァはかすかに頷く。

トーイも頷く。

エヴァは汗でどろどろになっている。唇もひび割れしていた。

「泣いてるの?」

「うれし泣きだよ」

そういってトーイは静かに泣いた。


イブは、エヴァの体から流れた血をふき取りながら、眉をひそめる。

(出血の量、これでいいのかしら?多すぎないかしら?)ふっと背中を冷たいものが走った。


「トーイ。赤ちゃんだよ」

そう言って、カーミラがトーイに大切な宝物を扱うように、そっと渡した。スパンは泣き笑いをしながらトーイとエヴァの2人にキスをする。

「女の子だよ」

タオルにくるまれた“彼女”は、小さいあくびをする。トーイは“彼女”にそっとキスをする。エヴァにもう一度キスをする。エヴァも“彼女”を見ようと起き上がろうとするが、思うように体が動かないらしかった。スパンはエヴァを抱き起こした。エヴァは赤ん坊を抱っこしようと手を伸ばすのだが両腕を持ち上げるのさえだるそうだった。

エヴァは、スパンとトーイに支えられながら、そっと指で“彼女”に触れた。 “彼女”はキュッとエヴァの指を握り、口元をモグモグさせた。

カーミラが砂糖水を浸した、布を“彼女”の口に含ませる。

キュ、キュと“彼女”はその布を吸う。弱々しい力だ。

“彼女”が自力で生きる第一歩だ。


エヴァがイブをみて、“彼女”を抱くよう、手招きする。

イブは“彼女”をそっと抱く。そのままイブは座り込んで泣き出してしまった。

ボロボロと大粒の涙をながす。スパンたちもみんな泣いていた。

新しい命。その誕生の瞬間。そのひとり立ちの瞬間。生きる努力が始まった瞬間。

“彼女”もつられたのか、弱々しく泣き出した。


緊張がほぐれたのか、スパンたちは食堂の椅子でそのまま眠ってしまった。

食事は食べかけのまま冷たくなってしまった。どれくらいの時間がたったのだろう。

ふと目覚めるとトーイが“彼女”を抱いてスパンの傍に腰掛けている。

スパンは寝ぼけ眼でトーイを見た。

「トーイ?」

トーイがぼんやりとつぶやく。

「彼女が、ね。死んでしまった。」

彼女…?

スパンは、はじかれるように立ち上がった。トーイの腕の中で“彼女”は静かな寝息を立てていた。

「エヴァが、息をしていないんだ。」

スパンは、医務室に走った。異変を感じたイブとカーミラも後を追った。

医務室のベッドに、エヴァは横になっていた。スパンたちが部屋を出るときと同じ姿だった。スパンはエヴァの頬にふれて、そっと名前を呼んだ。

「エヴァ…?」

エヴァは微笑み、下半身は血に染まっていた。

スパンは激しい頭痛を感じた。

この光景…微笑む女性、血に染まった体。夢だ。確かに夢でみた光景だった。

――エヴァは微笑んでいたけど。死んでたんだ。下半身は血まみれだった。その横で、スパン、君が赤ちゃんを抱いていたんだ――

トーイの言葉がこだまのようにスパンの心の中で渦巻いていた。


スパンたちは、エヴァの遺体を白く大きな布で包んだ。その布の中で、エヴァは静かに時間の流れとともに腐りつつあった。宇宙空間では、時間は止まっているような錯覚にとらわれる。静かに流れていく時間の中で変化を起こさないものは何も無い。人も、心も。

“彼女”にはブルーという名が付いた。エヴァのいなくなった空虚な心を、ブルーは満たしてくれた。

静かな時間が流れていった。

飛行船のスクリーンには、青いアクエリアスが映し出されていた。エヴァが待ち望んでいた、惑星アクエリアス。

青く。どこまでも青い。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る