第8話
アンジュはどこか言い聞かせるように、あるいは周りを諭すように言った。
舞子はただ呆然と、右手の甲に浮かんだ光を見るしかなかった。アンジュの言っていることはつまり――不可思議な力によって選ばれたから、その具体的な基準とか理由は知らないと言っているにも等しいのではないか。
「そして、ここは聖なる神ディオスに抱かれし国《ブラキウム》です。その王都の中枢、ソワール宮殿……こちらにおいでの、シャリオ十世陛下の宮になります」
アンジュの言葉は淀みなかった。丁寧に、優しく教えるような響きがあった。
情報の洪水に舞子は一瞬目眩がした。あまりにも流暢な日本語に反し、聞いたことのない固有名詞の羅列――。口から出任せを言われているのでは、と疑うほうがまともだろう。
それでもなんとか理性を奮い起こし、悪あがきのように聞いてみる。
「あの、ここって地球のどのあたりなんでしょうか……? 日本、とかいう国の名前を聞いたことは……」
「ちきゅう……にほん? 聞いたことがありませんが、あなたの国の地名ですか?」
アンジュが困惑気味に答え、舞子は押し黙った。場に居合わせた他の人間の顔を見回しても、反応がない。地球上でもっとも有名と思われる国々の名を知らないという。
――それを言うなら、これほど日本人らしからぬ人間達が集まって、まったく支障なく日本語でやりとりできているのもおかしい。
(やっぱり……)
落ち着け、と理性の声がする。なのにその一方で、体の奥でざわざわとした感覚があった。言い難く、ただ鼓動が乱れていく。
「マイコ、あなたはとても遠いところから来たのではないでしょうか。おそらくは――違う世界から」
《守護の聖女》と自称したアンジュが言った。青い両眼は、凪いだ海のような落ち着きと理知の光を宿している。
(
耳の奥でその言葉が聞こえ、体の中で何度も谺した。そのたびに大きな反響となり、やがて背をかすかに震わせる。
――ここではないどこか。退屈でぱっとしない毎日を、一変させてくれるもの。
かつて何度も夢見たもの。だが積み重なる平穏な日々の地層の下に押し潰されたもの。
これは夢で、架空の物語でしかありえない状況で、あるいは目の前のすべてを冷静に見て、これは現実ではないと切り捨てるべきだった。
なのに口から出たのは、それとは真逆の言葉だった。
「後継者として……喚ばれたと……」
かすれた声にも、アンジュは品の良い微笑を崩さず、首肯した。
その何気ない反応が、舞子をまた揺さぶった。どうやらこれは、盛大な悪ふざけでも冗談でもないらしかった。
「私が、その後継者とやらだとして……何をすればいいんですか? 魔族とか、魔王と戦うとか、先ほど仰ってましたが」
「はい、それは……」
アンジュは答えてくれようとしたが、魔族、魔王という単語を出したときその白い頬と目元がかすかに強ばった。そして周囲の空気そのものがひときわ張り詰めたのを舞子は感じた。
「陛下、アンジュ様。お許しいただけるなら私から説明を」
背後から、よく通る青年の声がした。舞子は思わず振り向く。
許す、と玉座の男性が低く答えると、紫の瞳のシリウスが舞子を見て言った。
「《魔王》は《呪われたものども》……《魔族》と総称される蛮族の王だ。魔族たちのことはわかるか」
舞子はためらいがちに頭を振った。射るような目をしたまま、シリウスは続ける。
「《魔族》は、呪われた力である呪印を操るものたちのことを言う。聖なる神ディオスの定めた正しき理に従わず、汚れた力を持って暴虐の限りを尽くす。やつらは呪法によって人を害す。……お前がいたのは《歪みの地》だ。《魔族》の地との境界で、お前を襲おうとしていたのが《魔族》だ」
舞子は息を飲んだ。シリウスの言葉のすべてが理解できたわけではなかったが、うごめく木や犬に似た化け物に襲われたことは生々しい体験として強烈に刻まれている。
――あの化け物たちが《魔族》。
――その魔族たちの王が《魔王》。
「戦うと、言ってましたけど……その、騎士とかなんとか」
「……そうだ。大聖印を与えられた四大騎士。そのうちの《変転》がお前だ。真に《変転》の後継者であるのなら、お前も我々と共に戦うことになる」
シリウスの声に苦い響きがまじる。
舞子は息を飲んだ。高揚の一部が、すっとさめるのを感じた。
「戦うっていうのは……ええと、実際に戦場に出るってことですか? 武器を持ったりして……」
「そうだ。他にどういう意味がある」
不機嫌そうな声が、あっさりと言う。とたん、舞子は血の気が引いていくのを感じ、何度も頭を振った。
「いやいやいや、無理です無理です……! 私、ただの一般人だし、運動自体できるほうじゃないですし……っ! 人違いじゃないですか!?」
「……アンジュ様が喚んだのだ。《変転》の聖印も浮かんだ。それならお前なのだろう」
青年の銀の眉が、怒りとも困惑ともとれぬ感情を表わす。
舞子は思わず少女に振り向いた。
「あの、人違いだと思います。私、戦うとかそういうのまったく向いてないですしできないので……」
「いいえ、そんなことは……」
アンジュもまた困ったような顔をする。
戦いに向いていないということに賛同の意見を求めて舞子は周囲を見回す。だが、誰一人として止めに入るものも援護の声もなかった。
それどころか、非難めいたささやきがあがる。
玉座にいた老齢の男性――王だというその人が、傍らに控えていた臣下らしき男性に何かを耳打ちした。すると耳打ちされた男性は重々しくうなずくと、舞子に目を向けて言った。
「女なら、おそれるのも無理はない。だがこれが大変な名誉であることをお前は理解しなければならない。魔族どもに脅かされる無辜の人民を守る、英雄の一人となるのだ。魔王を討ち果たすことができれば、お前が何者であろうと、得られる名誉は計り知れぬぞ」
尊大に言われ、舞子はとっさに反発しそうになったのをむぐ、と口をつぐんだ。日常生活にあってはまず聞くことのない、無辜だの魔王だの栄誉だのという言葉に少し怯みそうになる。
――しかしここで感情にまかせて反発するほど若くもなければ、血気盛んでもない。
(……下手に相手を怒らせたり、神経逆なでしてこっちの要求を飲んでもらえなくなったらまずい)
まして、こちらと同じ社会常識といったものが通じる相手ではなさそうだから余計にそうだ。
一緒に召喚されるはずの聖女がいませんが、平凡な私は帰るために騎士になります ~異世界の騎士は恋をする~ 永野水貴 @blue-gold-blue
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