第5話

 舞子を見つめ、アンジュは可憐な声の中にどこかおごそかな響をまぜて告げた。

 おそらく自分の半分以下の年であろう少女の言葉に、舞子はぽかんとした。

 しばし間が生じたあとで、傍らから低い声がした。


「おい、アンジュ様のお言葉が聞こえなかったのか。それとも言葉がわからないのか?」


 青年の声に、舞子はびくりとする。反射的に顔を向けると、銀色の眉が険しい傾斜を描き、紫の双眸には非難めいた色が浮かんでいた。

 無視しているわけでも、聞こえていないわけでもないことを示すために舞子は慌てて頭を振った。

 だが混乱はまったく去っていなかった。


「え、ええっと、聞こえてます、これってどういう……」


 そう日本語で答えてから、遅れて気づく。この、見るからに異国人ふうな青年と少女たちは普通に日本語を話している――。

 アンジュは、儚げな美貌におだやかな微笑を浮かべた。あまりに完璧な微笑に、舞子は気圧されるようにさえ感じたほどだった。


「申し遅れました。私はアンジュ。《守護の聖女》です。あなたの隣にいるのは、《戒縛》の騎士、シリウスです」


 舞子は目を丸くした。そしてまたも傍らの青年を見た。

 この見たこともないほど整った容姿を持つ青年は、シリウスという名らしい。


(騎士……)


 その意味するところに半分ほど呆然とし、半分は鼓動がうるさくなった。有無を言わさず納得させられてしまうような迫力と麗容だ。


「……お前の名は」


 突然、青年――シリウスの不機嫌そうな声に問われ、舞子ははっと顔を向けた。


「名乗れ」

「! す、すいません。真嗣舞子と申します……」

「……マツグマ……?」


威圧されて反射的に舞子が名乗ると、《戒縛》の騎士シリウスと紹介された青年は、露骨に繭をひそめた。マツグマ、と言葉はわざとかと疑うようなぎこちない発音だった。


「……まつぐ、まいこです。まつぐが家名で、まいこが個人の名前です」


 冗談なのか本気なのかわからないまま、舞子はおずおずと訂正する。こういう場合、外国式にマイコ・マツグとでも名乗ったほうがいいのかな、などととっさに思った。

反応したのは、アンジュと名乗った少女のほうだった。


「マイコというのですね。あなたは《後継者》――《変転》の座を継いでいただくために……」

「ちょ、ちょっと待って、ください!」


 流暢に語る少女を、舞子は思わずさえぎった。とたん、シリウスが再び顔をしかめる。


「無礼な。アンジュ様の言葉を遮るなど……」

「よいのです、シリウス様」


 アンジュは控えめに頭を振った。

 二人とは対照に、舞子は狼狽えた。

 非現実的な光景だった。夢に違いない。

 ――なのにいま、意識はまるで現実と同じようにものを見て考えている。


 その混乱を見透かしたように、アンジュは落ち着いた口調で続けた。


「少し、混乱されていることと思います。ですから、説明させてください」

「は……、はい……」


 待ってくれといったものの続く言葉は見つからず、舞子はためらいながらうなずいた。

 アンジュと名乗った青い目の少女は、花弁を思わせる唇を開いた。


「ここは聖なる神ディオスの作りし世界《スピラル》です」


 真摯に、大仰な芝居めいた様子もなくアンジュは言った。

 そのあまりにも真剣で少し切迫した様子に、舞子は愛想笑いをすることもできなかった。


(ディオス、スピラル……? 聞いたことない)


 この現実離れした少女の言葉を信じるなら、文字通りのということになるのではないか。――否。既にもう、自分のいた日本の平和な片田舎には決してありえないような光景も異形たちも目にしている。


「私たちは騎士を必要としています。《変転》の座を継ぐ、特別な騎士です。私はその位にふさわしい者を探し、喚びました。それが、あなただったようです」


 滔々と語られる。舞子は唖然とした。


「き、騎士……。騎士って、私が?」

「はい」


 真摯に肯定され、舞子はくらっとした。


(つ、ついていけない! まさか、そんな……!)


 少女はお伽噺から抜け出てきたような完璧なお姫様然として、微笑をたたえながらも決してふざけたりからかったりする様子は見られない。

 ここに来るまでの一連のことを考えれば、正気ではない。

 だがそう考えながらも、鼓動が速くなっていった。不安やおそれ。しかしそれだけではない何か。

 現実離れした状況。ここではないどこか、遠い幻想。


(まさか……、ほんとに……)


 現実の冴えない自分ではない何者かになりたいと思っていた――過去の自分が身震いしている。

 いま目の前にいる少女のような姫君とか聖女といったものに憧れた、夢見がちの、愚かとして切り捨てたはずの自分が。


「……おい、アンジュ様の話を聞いているか」

「! き、聞いてます、聞いてますけど……っ」

「なら何を呆けた顔をしている。ふざけているのか?」


 騎士シリウスと紹介された青年に怒りの滲む声で言われ、舞子は思わず肩をすくめた。


「いやその、ふざけているわけでは……こ、混乱しているといいますか……」


 自分より確実に年下の、しかも見たこともないような美貌の青年に叱責されて胃がひきつる。

 これほどの美形を前にすると、見入るというよりはもはや圧迫感しかない。しかもかなり厳しい青年のようだ。

 舞子は青年から後じさりしたい気持ちを抑えつつ、弁明した。


「いきなり《スピラル》とか騎士とか聖女とか言われても、信じられないというか……。私には全然関係ないですし、私ただの一般人で……」


 そう説明するうち、ふいに記憶が蘇った。

 ――歩き慣れた、夜の地元の町。変わらぬ友人達と別れ、いつものように帰路について、青春を強く感じさせる男女の高校生たちに少しもの悲しい気分になって、女子高生の叫びが聞こえ、それからアンジュを見て、その後ろから車が……。

 そこまで思い出し、急に血の気がひいていった。


(車がきて、それで……)


 避けられなかった。少女が危ないと思ってとっさに飛び出した。周囲から悲鳴が聞こえたような気もする。

 覚えている限り――自分は、そしてこの少女は車に轢かれたのではないか。

 だとすれば決して無事には済まされないだろう。


 もしこれが夢ではないとしたら。

 舞子は思わず口元を手で覆った。かすかに震えを感じた。


(もしかして……私、死んだの? ここは、死後の世界……?)

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