恋に関する科学実験

森崎緩

恋に関する科学実験

 明日のバレンタインが憂鬱だった。今年は貰える心当たりがないからだ。


 女子で最近まともに会話をしている相手は、同じ科学部の後輩、野路のじなずなだけだった。

 そしてその野路ちゃんは、バレンタインデーにかけらも興味などないらしい。

「野路ちゃんって誰かにチョコとかあげんの?」

 部活の最中に聞いてみたら、可愛げのない冷たい声で答えてきた。

「いいえ。利益が元手を上回らないと判断しているので」

「予想してたけど、つまんねえ答えだな……」

 回答自体も可愛さゼロパーセントだ。

 まあ野路ちゃんは一事が万事こんな調子だった。バレンタインのことなんて質問する方が間違いなんだろう。

 俺が溜息をついた時、

「それよりも私、現在は惚れ薬を研究しているんです」

 彼女は淡々と、とんでもないことを口にした。

「……惚れ薬?」

「はい。難波なんば先輩も、興味ありますか?」

「いや、そりゃあ……」

 なくはない。たとえ俺の青春がしけたロスタイムの真っ最中だとしてもだ。


 そもそも俺が、科学部という堅そうでマイナーな部活に入ったのには理由がある。

 去年の秋、俺は小学生の頃から続けていたサッカーを辞めた。慢性的に痛めていた左膝がいよいよ誤魔化し利かなくなって、医者に止められて、辞めざるを得なかった。

 サッカー部の顧問は『ピッチに立てなくてもマネージャーをやればいい』なんてことをほざいていたが、楽しそうにプレイするチームメイトを恨めしく眺めながらマネージャーやるなんてまっぴらだった。むしろできないとわかるとサッカーを観るのさえ嫌になって、スパイクもボールも十年近く買い込んできたサッカー関連の雑誌類も全て処分した。

 交友関係もサッカー繋がりばかりだったけど、同情されるのが癪でそういう連中を遠ざけるようになった。向こうも最初は腫れ物に触るみたいに接してきていたから、こちらから距離を置くようにしたらこれ幸いとばかりに疎遠になってくれた。


 十年も熱心に打ち込んできたものを、周囲の期待や注目や賞賛と共に失えば、誰だって投げやりにもなる。

 残り半分を過ぎた高校生活に夢も希望もなくなった。毎日をどうでもいい気分でやり過ごしていた俺を見かねたのか、遂に担任が言った。

「何でもいいから、今からでも部活に入ってみろ」

 初めはその言葉をスルーしていたけど、あまりにもしつこく言われてうんざりしてきた。

 だから俺は膝に負担のかからない文化系の部活のうち、一番楽そうで暇そうな部活を選んだ。

 それが科学部だった。


 しかし科学部は集まりが悪い。

 本来なら俺と野路ちゃんを含めて六名の部員がいるそうだが、活動日の度に部室となる第二理科室へ出席するのは、暇を持て余している俺と何考えてるのかわからない野路ちゃんだけだ。未だにフルメンバー揃ったところを見たことがない。

 そして俺と野路ちゃんが科学部でやることと言えば、校庭の植物の観察だったり、学校近くの用水路の水質調査だったり、野路ちゃんがどこからか調達してきた鉱石の観察だったり――実に地味で退屈な活動ばかりだった。

 あれこれ頑張っている野路ちゃんには悪いが、あくびが出るほどつまらなかった。

 もし野路ちゃんが女子じゃなかったら、俺は科学部にも顔を出さなくなっていたかもしれない。


「先輩が私の研究に興味を持ってくださるなんて、初めてですね」

 野路ちゃんは一歩間違えば嫌味になりそうなことを、全く感情を込めずに言った。

 ニュースを読むアナウンサーだってもうちょっと気持ちを込めるんじゃないか、と思うような喋り方だった。

「ああ、まあそうかもな」

 いくらか後ろめたさを覚えた俺が曖昧に頷けば、野路ちゃんはずいっと身を乗り出すようにして俺の目を覗き込む。

「かも、ではなくて確実にそうです。今、先輩の瞳孔が開いたのを確認しました」

「はあ? そんなの、見てわかるのか?」

「はい。人は物事や他者に対して興味を覚えると瞳孔が開くものなんです」

「すげえな野路ちゃん。でもあんま見ないでくれる? 恥ずかしいし」

 俺は自分の顔の前で手を振り、迫り来る野路ちゃんの視線から逃れた。

 彼女はこちらの態度を気にしたそぶりもなく、瞬きをしながら第二理科室の丸椅子に座り直した。


 これで野路ちゃんがめちゃくちゃ可愛い女の子だったら言うことはないんだが、あいにくと俺の好みではなかった。

 全く可愛くないとは言わない。ぱっと目を引く派手さはないけど目鼻立ちは十分女の子らしくて、知的な印象もあって、見る奴が見れば結構アリだと言うかもしれない。だが野路ちゃんは男子みたいに髪を短くしていて、更に短い前髪を細いピンで留めて常におでこを出している。俺はそういう髪型があまり好きじゃなかったし、それを差し引いて考えてもちょっと地味すぎた。

 その上、野路ちゃんは明らかに変わった女の子だった。

 まるで機械みたいに感情を込めない喋り方をするし、やたら理屈っぽいし、あまり笑わない。怒ったり悲しんだりしているのを見たこともない。

 科学部の活動がたまらなく好きらしく、植物や鉱物の観察も水質調査も張り切って、でも無表情でこなしている。たった三ヶ月程度の付き合いだから俺が笑顔その他を見てないだけかもしれないが、話せば話すほど変わった子だと思えて仕方がない。

 野路なずな、なんて地味そうな名前で、見た目も地味でおとなしそうな感じの子なのに、中身だけが変人。

 そういう野路ちゃんとの会話を、俺は異文化交流の気分で楽しむことにしている。


「難波先輩は、惚れ薬がもし実用化できたら使いたいですか?」

 野路ちゃんが話を戻したので、俺も気を取り直して答えた。

「まあな。彼女でもできたら人生ちょっとは楽しくなりそうだ」

 サッカーを辞めてからというもの、仲の良かった女子達とは話もしなくなった。周りから潮が引くように人がいなくなったおかげで、彼女を作るどころじゃなかった。もし可愛い彼女でもいたら、俺の投げやりな気分も多少は紛れていたかもしれないのに。

 その点、野路ちゃんは俺に気を遣う様子なんてないのが楽でいい。いちいち膝の調子なんてわかりきったことを聞いてこないし、わざとスポーツの話題を避けることもしない。野路ちゃんがするのは彼女が大好きな科学の話ばかりだから、俺も安心して付き合うことができた。面白いかどうかは別として。

「野路ちゃんこそ、惚れ薬研究なんてするタイプには見えなかったな。使いたい相手でもいんの?」

 逆に聞き返したら、彼女は顔色一つ変えずに、

「今のところはいません。将来そういう人が現れた時の為の研究です」

「へえ。可愛いお嫁さんになりたいとか、野路ちゃんでも思うのか」

「やはり安定した生活には憧れますからね。なるべく収入のいい方と結婚したいです」

「か、可愛くねえ……」

 その為の惚れ薬か。好きな相手を振り向かせたいから、とかじゃないのか。野路ちゃんらしい可愛げのなさだ。

「いいんです、可愛くなくて。だからこそ私は科学の力で勝利を手に入れるんです」

 きっぱりと言い切ると、彼女は前髪を留めているピンを直すように手で触れた。

 それから、

「先輩は、『吊り橋理論』という言葉をご存知ですか」

 と俺に尋ねた。

 知らなかったので、俺は首を横に振る。

「何だよそれ」

「危険な吊り橋の上で異性と接触すると、何もない安定した場所で接触するよりも恋に落ちやすいという学説です」

 野路ちゃんは俺をじっと見上げて続けた。

「それは揺れる吊り橋に対する興奮、緊張、心拍数の上昇を恋愛によるものだと錯覚することが原因だとされています」

 言われてみれば、昔テレビでそういう映画やってたな。バスジャックの奴。続編では見事に別れてた。

「つまり本当に効果のある惚れ薬を作るなら、その吊り橋と同じ状況を薬で作り出せばいいわけなんです」

「何か、もっともらしく聞こえるな」

 俺が納得したからか、野路ちゃんは興が乗ってきたというように語り続ける。

「ですから現実的に有用な惚れ薬に必要なものは、動悸、心拍数を高める効果。それだけです。あとは誤解をされやすいように二人きりの状況を作り出した上で、隙を見て相手に投与すればいいんです」

「でもそれだと確実性はないよな。吊り橋理論ってやつも百パーセントではないんだろ?」

 聞き返せばこくんと頷き、

「もちろんです。ですが自分が相手の心拍数を上げる――つまりどきどきさせることができるというだけでも、何もない状況よりは有利だと思いませんか」

 野路ちゃんの無感情な話し方が、今は妙に自信ありげに聞こえた。

 実際何の根拠もないというわけではないようだし、信じてみてもいいのかもしれない。一服持ったら即落ち、みたいな効果がないのは残念だが。

「心拍数を高める薬って、例えばどうやって作るんだ」

 俺は更に突っ込んで聞いてみた。

 野路ちゃんは思い出したように瞬きをする。

「既に現実にあります。例えば強心剤です」

 いきなり話がやばいところへ飛んでいった。

「……それ、どう考えても素人が投与したら駄目なやつだろ」

「そうですね」

 いともあっさりと野路ちゃんは頷いた。

 がっくり来た。

「何だよもう……ちょっと信じかけた俺が馬鹿だったよ」

「どうして落胆するんですか、先輩」

「だって普通に実現不可能だろ。相手と二人っきりになっていい雰囲気になったところで強心剤なんて打ってみろ、恋に落ちるどころか通報されて一気に加害者と被害者の関係だぞ」

 出してくるならもうちょい現実的なやり方を出して欲しいよな。夢が一気に遠ざかった。

「私はその為の合法的な薬を作り出してみせます」

 野路ちゃんは俺の落胆が理解できないのか、食い下がるようにそう言った。

 でも一度なくなった興味はそうそう取り戻せるもんじゃない。きっと今、俺の瞳孔は萎んでしまっていることだろう。

「もういいって。さっきも言ったけど、そもそも吊り橋理論とかいうやつが当てになるかわかんねえんだし」

 脱力した俺が肩を竦めると、野路ちゃんが剥き出しの額の下にある眉をわずかに上げた。

「信じられませんか、先輩」

「鵜呑みにする気にはなれねえな。要は勘違いだろ? 一時的なもんじゃん」

「惚れ薬だって似たようなものでしょう。一度飲んだら永久に体内に残って作用する薬なんてあり得ません。要は最初の誤解を、その後の進展にいかに活用するかということです」

 野路ちゃんの正論はこういう時に面倒くさい。

 それをどうにかするのが科学の力じゃないのかと言いたいところだが、めんどいので黙っておく。

「わかったよ。じゃあ野路ちゃんの研究が上手くいったら教えて」

 話を打ち切ろうと俺があくびをしかけた時だ。

「信じられないのなら、試しに実験してみましょうか」

 温度を感じられない野路ちゃんの声が、そんなふうに切り出した。

 俺はあくびをやめ、顔を顰める。

「実験って何の?」

「吊り橋理論のです。それが現実に起こり得るかどうか確かめれば、先輩も惚れ薬の実用化に興味が持てるはずです」

 言い終わるなり野路ちゃんは立ち上がり、急に勢いづいたように宣言した。

「行きましょう、難波先輩。科学部員として理論を証明してみせます」

「は? いや、ちょっと待てって。どういうことだよ」

 俺も慌てて、膝に負担がかからないよう席を立ったが、その時にはもう野路ちゃんは荷物をまとめ始めていた。

 訳もわからず困惑する俺に、いつものような笑みのない顔で言い放つ。

「これからお互いに心拍数が上がり、どきどきするようなことをするんです」

 何気に、とんでもないことを言われた気がする。


 野路ちゃんが場所を移したいと言ったので、俺達はひとまず下校することにした。

 生徒玄関から外へ出ると、グラウンドから練習をしている掛け声が聞こえてきた。なるべくそちらを見ないようにして、とっとと校門をくぐる。


 野路ちゃんは一足先に校門の外で俺を待っていた。

「で、どこ行くんだ」

「二人きりになれる、あまり騒がしくない場所がいいです」

 相変わらず顔色一つ変えずに野路ちゃんが答える。

「前に水質調査をした用水路、あの途中に橋がかかっていましたよね。あそこへ行きましょう」

 俺は黙って頷いた。

 野路ちゃんも顎を引くと、少しゆっくりめに歩き出した。フィールドワークと称して校外へ出る時、野路ちゃんはいつも歩くのが遅かった。


 しかしこれから何をするのか知らないが、野路ちゃんは例の実験をどう考えているんだろう。

 もし仮に例の吊り橋理論ってやつが劇的な効果を発揮してしまったら、どうなるかわかってないわけでもないだろうに。

「と言うか野路ちゃんは、実験の相手が俺でいいの?」

 学校から離れたところで、俺はストレートに聞いてみた。

 野路ちゃんが隣を歩く俺に目を向ける。前髪を留めたピンが夕日の光を跳ね返していた。

「他に頼める相手がいないんです。難波先輩、お願いします」

「けどこの実験が成功したら、俺が野路ちゃんを好きになっちゃうかもしれないだろ」

 脅かすように言ってみる。

「もしくは逆、両方ってこともあり得るな。どうする、俺達がうっかり恋に落ちちゃったら」

 にやっとする俺を彼女はうろたえもせずに見返して、それから口を開いた。

「その場合は『吊り橋理論を活用して始まった恋はどこまで持続するか』という実験に移行します」

「え……いや、そうじゃなくて。俺でいいのかってことなんだけど」

「先程も言いましたが、他に頼める相手がいないんです」

「はあ……。野路ちゃんがいいなら、いいけどな」

 研究の為なら自分自身で実験もするとか、やっぱこの子、変わってる。


 俺の方はと言えば、まさか野路ちゃんと恋に落ちるなんてあり得ないと思っている。

 そもそも吊り橋理論なんてやつが当てになるか定かじゃない上、たとえ一瞬どきっとすることがあったとして、それがいつまでも続くものじゃないとわかっているからだ。誤解や錯覚で人の気持ちを変えることができるなんて、馬鹿馬鹿しい。

 もっとも、野路ちゃんが何をする気なのかは知らないが、ちょっとくらいは引っかかったふりをしてやってもいいかもな。

『俺、野路ちゃんのこと好きになっちゃったかも』

 なんて言ってみたら、たとえ野路ちゃんでも慌てたりするんじゃないだろうか。それはちょっと見てみたい。


 やがて俺達は用水路の橋へと辿り着く。

 幅六メートル、深さは二メートルほどの用水路にはゆっくりと水が流れていて、橋の上から見下ろせば俺達の影が水面に映った。水質調査に来た時は靴と靴下を脱いで中に入る羽目になったが、さすがに二月の寒空の下、そんなことはしたくない。

 とりあえず辺りには人気がなかった。用水路の片側は延々と続く防風林、もう片方は冬の田んぼに民家が点在しているだけで、水音がはっきり聞こえるくらい静かだった。


 俺は橋の欄干に寄りかかり、周囲を見回す野路ちゃんに声をかける。

「で、ここで何すんの?」

 野路ちゃんはいやに用心深く視線を巡らせてから、真顔で俺に向き直った。

「お話ししていた通りです。ここで、私と先輩がお互いに心拍数が上がるようなことをします」

 それが何なのか、俺には全く想像がつかない。

 いや、想像だけなら少しはしている。ただ俺のイメージすることと野路ちゃんのやりそうなことが結びつきそうにないというだけだ。

 心拍数なんて、キスでもしてくれれば一発で上がりそうだけどな。たとえ野路ちゃんが相手でも。

「具体的には?」

 聞き返す俺に、野路ちゃんはなぜか答えなかった。

 そして提げていた鞄を足元に置くと、俺がいるのとは反対側の欄干によじ登り始めた。

「えっ? 何してんの、野路ちゃん」

 俺の声なんか聞こえていないみたいに野路ちゃんはもたもたと欄干の上に足をかけ、不安定な姿勢で登った。


 フィールドワークが好きだという野路ちゃんの、愛用の青いスニーカーが欄干の上に乗る。

 そしてそろそろと慎重に起き上がったかと思うと、両手を広げた彼女が欄干に立った。


「今から向こうまで、この上を伝って行きます」

 野路ちゃんは俺の方を見ずにそう言った。

 彼女の膝の辺りで、制服のスカートが風に揺られてはためいた。寒そうなふくらはぎの白さになぜかぞっとした。

「本当は吊り橋がよかったんですが、この辺りにはないので。先輩、見ていてください」

「な、何言ってんだよ、危ないだろ!」

 用水路の水は浅く、落ちたら底にぶつかって怪我をするに決まっていた。何でこんな馬鹿げたことをするんだ。

「危ないからこそ意味があるんです。これはそういう実験です」

 俺の制止も聞かず、野路ちゃんは欄干の上でバランスを取りながら一歩踏み出した。

 途端に広げた両手ががくんと大きく傾き、彼女がいきなりよろける。

「わっ」

 小さな声が上がった時、俺は黙っていられずに飛び出した。

「だから言ったろ馬鹿!」

 欄干の上から今にも落っこちようとしていた野路ちゃんの腰を両腕で抱えるように掴み、力ずくで橋の上へ引き戻す。

 優しく受け止める余裕はなかった。

 それ以前に膝が限界だった。野路ちゃんの身体の重みがこちらへかかった瞬間、左膝に酷い痛みが走り、俺は彼女の下敷きになって橋の上に尻餅をつくのがやっとだった。

「うぐっ……」

 自分の口から情けない呻き声が出る。

 橋の上で打ちつけた腰よりも、膝の方が遥かに痛く軋んでいた。思わず目をきつく閉じると涙が滲んでくるのが癪に障った。

「難波先輩」

 すぐ近くで野路ちゃんの声がする。

 こんな時でも無感情な声の彼女は、まだ俺の胸の上にいた。

「膝痛いのに、どうして止めたんですか。まだ実験中ですよ」

 どうしてじゃねえよ。何でお前はそんなに冷静なんだよ。人が必死になって痛い思いしてまで助けてやったっていうのに。

 かっとなった俺は痛みも涙も追い払うように目を見開き、上に乗っかる彼女を振り落とす勢いで上体を起こした。

「何なんだよお前は! 馬鹿か!」

 そうして怒鳴りつけると、俺に振り落とされたばかりの野路ちゃんものろのろと起き上がった。

「怒ってるんですか、先輩」

「当たり前だ! こんな危ないことして、落ちて怪我でもしたらどうすんだよ!」

「落ちないつもりでした。時間はかかりますが渡りきれる自信もありましたし」

「さっきいきなりよろけてただろ! 何だってこんな無茶した!」

 問い詰める俺を野路ちゃんは真顔で見つめてきた。

 動かない表情とは裏腹に、視線が不意に逸らされた。

「……先輩が興味を持ってくれたからです」

 ほんの少しだけ俯いて、彼女が呟く。

「何だよそれ」

 俺の為に無茶したとでも言うのか。

 苛立つ俺に、野路ちゃんは尚も小さな声で続けた。

「先輩が私の研究に興味持ってくれたの、初めてでしたから。だからどうしても実現したくて、証明したくて」

 思わず絶句した。


 野路ちゃんは――彼女も、俺に気を遣っていなかったわけじゃない。

 それどころか俺の為に心を砕いてくれていた。

 考えてみれば彼女は俺が科学部の活動を楽しめるよう、あれこれと研究に引っ張り出していてくれたはずだ。俺はそのどれにも興味を持てず、退屈だなんて罰当たりなことを思っていた。

 でもその俺がようやく惚れ薬の研究に興味を示したから、野路ちゃんもここぞとばかりに張り切ったんだろう。無茶してでも吊り橋理論を証明してやろうと思ったのかもしれない。そうしたら俺が科学部にもっと興味を持って、活動にも熱心になってくれるだろうとでも考えたのか。


 サッカー部を辞めてからというもの、俺は大勢の人間に気を遣わせてきた。

 元チームメイトに顧問、友達、親、先生、誰もが俺の膝を気にして同情してくれた。

 そういうのがストレスで煩わしくて、あえて縁もゆかりもない場所に逃げ込んでおきながら、そこでもまた後輩に気を遣わせて、せっかく入った科学部でもだらだらと投げやりに過ごして、それで筋違いに彼女を怒鳴ったりして――馬鹿なのは俺の方だと、今の今まで気づけなかった。


「……ごめん」

 俺が詫びると、野路ちゃんは今頃になって気が抜けたみたいにこちらへ倒れ込んできた。

 慌てて座ったまま抱き留めると、俺の胸に頭を預けるようにしてもたれかかる。細い肩が震えていた。

「私も、ごめんなさい。先輩の膝、痛いのに……」

「野路ちゃんのせいじゃない」

 そう告げても彼女は首を横に振り、後は何も言わなくなった。

 短い髪のせいで剥き出しのうなじが寒そうだったが、まだ立ち上がれない俺には抱き締めていることしかできなかった。

 彼女は俺の胸にぴったりと寄り添っていたから、俺の心拍数がどんなもんかも把握していることだろう。心臓がうるさいのはもちろん驚きと動揺、あるいは久々に身体を激しく動かしたせいだ。これでも吊り橋理論は効果を発揮するんだろうかと考えかけて、上手く考えられなくなっていることに気づいて、やめた。

 野路ちゃんも吊り橋理論のことは、その後もずっと口にしなかった。


 翌日の放課後、野路ちゃんが俺を教室まで迎えに来た。

「難波先輩、昨日はすみませんでした」

 彼女は俺に向かって深々と頭を下げ、それからいくらか心配そうに見える目を向けてきた。

「膝、大丈夫ですか」

「まあ、平気だ」

 嘘にならないよう答えると、野路ちゃんは何か言いたそうにした。

 だがそれをしまい込むようにきゅっと唇を結んでから、間を置いて切り出してきた。

「先輩、お時間ありますか。活動日ではないですけど、理科室へ来て欲しいんです」

「いいよ、特に予定もねえし」

 俺は肩を竦め、野路ちゃんと二人で廊下を歩き出す。


 理科室まではお互いに、いつも以上にゆっくりと歩いた。

 野路ちゃんが俺に合わせてくれていたのだと、今まで気づけなかった俺は相当な馬鹿だ。

「今更こんなこと言うのも白々しいかもしれねえけど」

 第二理科室が見えてきた時、俺は口を開いた。

 野路ちゃんが無言で、ちらりと俺を見る。

「科学部の活動内容とか、研究とか、もっと教えて欲しい。科学部員としてもっと真面目にやってみるよ」

 本当に今更だ。

 だからって足踏みを続けてたら、いつまで経っても今の俺のままだ。

 今日はバレンタインデーだった。チョコレートは一つも貰えなかった。当たり前だ、それが俺の現在の周囲からの正当な評価というやつで、言わば自業自得でもある。

 何もかもどうでもいいなんて適当に生きるのは簡単だった。だけどそのせいで大勢の人にかえって気を遣わせる羽目になった。今のままじゃどこへ行っても、誰といても、ただただ気を遣わせるだけの存在にしかなれないだろう。

 だからせめて今の居場所だけでも、誰にも気を遣われずにいられるようになりたい。

「野路ちゃんにあれだけしてもらって、何にも覚えられない部員じゃ格好悪いしな」

 そう付け足すと、野路ちゃんはすぐに答えてくれた。

「私も先輩に、科学部も楽しいんだと思ってもらいたいです」

 多分、彼女はずっと前からそう思ってたはずだ。もっと早く気づけばよかった。


 やがて俺達は時間をかけて第二理科室へと辿り着いた。

 野路ちゃんが鍵を開け、俺が先に中へ入る。

 後から入ってきた野路ちゃんは鞄を提げた手でドアを閉め、それから俺の前へと歩いてきた。

「難波先輩」

 ふう、と大きく息をつき、

「今日は昨日の実験の結果をお知らせしたくて、ここへ来てもらったんです」

 そう口にした時、しきりに瞬きをしていた。

 緊張しているんだろうか。野路ちゃんらしくもない。

「昨日のあれ、途中でやめたのに結果なんて出たのか?」

 俺が聞き返すと、彼女は前髪を留めたピンに指で触れた。

「はい。――昨日からずっと、心拍数が上がっているんです」

「野路ちゃんの?」

「はい。難波先輩のことを考えると、特に」

 口調はいつものように落ち着いていたけど、頬がほんのり赤くなっているように見えた。

 その言葉に俺は複雑な思いで笑った。

「それ、野路ちゃんの言ってた吊り橋理論ってやつだろ?」

「もちろん、そうです」

 野路ちゃんはいともあっさりと頷いた。

 それでいて、ためらうことなく続けた。

「昨日も言いましたが、吊り橋理論は誤解や錯覚を利用するものです。でも大切なのは、その誤解を今後の進展にどう活かすかなんです」

 そしてまた息をついてから、自分の鞄の中を漁って、何か包みを取り出した。

 リボンをかけられラッピングされた、薄い正方形の箱だった。

「これ、チョコレートです」

 彼女の手が震えながら、それを俺へと差し出す。

「昨日ああ言っておいて何ですけど……お返しは要らないですから。お詫びと、あと贈りたかったから、差し上げます」

 俺はそれを、妙に落ち着かない気分で受け取った。

 いつも無表情な野路ちゃんが今はすっかり真っ赤になっている。それを隠そうと俯いているけど、髪が短いせいで剥き出しのおでこやうなじまで赤くなってるから隠しようがない。

 彼女のそんな姿を見て俺は、髪の短い女の子も可愛いな、などと現金なことを思う。

 と言うか、野路ちゃん、可愛いな。

 何で急にそう思ったんだろうな。昨日までは好みじゃないって考えてたはずなのに。

「それで、できればでいいです。先輩の実験結果も教えてください」

 おでこまで赤くなった野路ちゃんが、かすれる声でそう言った。

 昨日もある意味どきどきさせられたが、今は別の意味で非常にどきどきしている。これも吊り橋理論ってやつなんだろうか。それとも普通に好きになっただけ? どっちでも同じことか。

「俺も今、結構心拍数上がってる」

 正直に答えたら、野路ちゃんはいよいよ涙目になって震え上がりながらも、真っ直ぐ顔を上げて俺を見た。


 俺達ってこれからどうなんのかな。

 そんなことを考えながら、俺も可愛い野路ちゃんを見つめてみる。

 そうして見つめ合っているうち、

「……私の瞳孔、開いてますか?」

 野路ちゃんがふと、必死に勇気を奮い立たせるようにして尋ねてきたから。


 俺は彼女にもう一歩近づいて身を屈め、その瞳を覗き込んでみた。

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