第10話

「はぁっ……」

 ロッカールームの一キロを脱出して、私は先ほどの小石と同じように倒れ伏した。

「咲月、大丈夫?」

「だから行くなってったのに……」

 富岡と加藤が駆け寄り、私の脇を支えてくれる。二人の熱が感じられて、やっと今生きているんだ、と感じることが出来た。

「……宮田さん、一体あそこで何があったのか、詳しく説明してください」

 まだ息が整っていないというのに、カミソリのような鋭い言葉を投げかけてくる小石に、私はおののいた。

「早く」

 迫力は無いが、ものに穴を開けそうなほどの不思議な威圧感がある彼女の目力に、私はこれ以上何を語っても無駄だということを悟った。

「……とにかく、何かが腐ったようなすごい、もう鼻をえぐるような臭いがある、と言えばいいですか」

「それはここからでも大体分かります。ロッカーの中には何があったんですか?」

 あの赤いブヨブヨした物体を思い浮かべ、私はまた吐き戻しそうになる。喉元に酸っぱい物が触れたような気がした。

「……はっきりとは分かりません」

「はっきりしていなくても良いです。どんなものがあったのか」

 有無を言わせぬ彼女の口調に、私は渋々口を開いた。


「……あれは、この世のものではないようなものでした。思い出せばすぐに吐き気がします」


「個人的な主観はもうこれくらいにしてどんな形状や質感をしていたのか、って言うのを全部言ってください」

 それを今から言おうとしていたのに。私は半ば不貞腐れるが、黙ってても仕方がない。女王蟻を除き、皆が私の一言一句を懸命に聞き取ろうとしているのだ。

「ロッカーの真ん中くらいに、固めてありました。赤くて、ブヨッとした不完全な球のようなもの、と言えばいいんでしょうか? 結構な量の血液と、動物の体毛、それと丸いフードにねっとりした液が付いたものも同じ場所にありました。あ、若干ピンク色に近い色をした長い管、なんか、すごいグニョグニョした奴が一番上にドンと置いてありました」

「以上ですか?」

「はい」

 これ以上言おうとすれば、今度こそ胃から高速で戻ってきたものが、マーライオンのごとくドバっと溢れ出てくることになる。

「あ、そうそう。それはどこのロッカーに入っていましたか?」

 これ以上の追及は無いと思って緩みかけていた私の胸を縛り付ける紐は、驚いて再び胸をきつく縛った。

「……多分、はや」


「ダメッ! これ以上言わないでぇっ!」

 

 鼓膜を貫通してしまいそうなほどの、聞き苦しい高音が耳に突き刺さった。

 一斉に私に向かっていた顔が葉山に向く。

「……い、いや、アタシはそんなことしてないからっ! アタシはそんなことしないっ! アタシがそんなことするわけないじゃない! ねぇ?」

 犬担当のスタッフに、救いを求めるような眼差しを向けたが、彼らは顔を引き攣らせ、目を地面に落とした。

 葉山は、一気に逆転した自分の立場にただただ狼狽し、狐のような目に大量の涙を溜めている。

「アタシは、そんなことしない。そんなことをするような人間じゃない。私は、私は……」

「別に、誰もあなたがしたなんて言ってないじゃないですか」

 魂を宙に放ったかのように、呆然自失と自己否定のワードを連ねる葉山に、小石は言葉を挟んだ。

「だ、だよね、アタシそんなことしないよねっ!」

 弱々しい笑みを浮かべ、小石に縋り付こうとする葉山。だが、煩わしい蟻を払いのけるかのように、小石は一オクターブ下がった声で言い放った。

「なのに、なぜあなたは自分がやったわけじゃない、というような言葉を発したのですか?」

 頭の回転が一瞬止まったように数秒フリーズして、やがてその言葉の意味を理解したのか黒目がゆらゆらと揺れ始めた。

「アタシは、アタシは……っ」

 女王蟻の牙城が崩された瞬間だった。

 一筋、二筋とぬるい水が彼女の頬に線を引いていく。

「葉山、あんたがやったのか?」

 加藤はこれまでの憎悪の全てを葉山に注入するような強い視線を送る。

「違う、アタシじゃない、アタシじゃ……加藤、やっぱりあんたがやったんじゃないの? ねぇ、そうでしょ?」

 身体をガクガク震えさせながら、それでも加藤に恨み節を吐く女王蟻の執念には脱帽せざるを得ない。

「そんなわけ無いじゃない。あんたもすごいね、さっきまで私をああだこうだ、ニヤニヤしながら追い落とそうとしてた癖に、逆の立場になると小石さんに救いを求めるなんて」

 ピキッ、と何かが割れる、というか熱々にした爆弾から、爆薬が弾けたような音が葉山からしたような気がする。


「どうしてそうなるの! アタシはずっと動物に情熱を注いできた。猫は大っ嫌いだ。全てを奪った存在だ。色んな人を殺した。それで……。ア、アタシは猫を殺そうなんてことは」


 言いながら、葉山は悟ったらしい。墓穴を掘ったことを。

「葉山さん、あなたは過去に猫に関してどんな思い出があるんですか?」

 フフッと不敵に笑い、小石は女王蟻を見下げる。彼女の目に、彼女は本当に小さな黒い点に見えているのだろうなと私は想像した。


「……猫は、私の母親を殺した」


 言ってから葉山は口を押さえる。

「もっと話してくださいよ。そんなんじゃあ物足りない。……それでも話さないのであれば、私たちにも考えがあります。……店長、もうすぐ来るでしょうね」

「は、はい。会議中でしたので、もうすぐ臨場されるとのことです」

 事務の一人が言った。

 葉山の目がみるみる大きくなっていく。

「や、やめてください、店長は、私のこと全部知ってる……」

 と言って、またハッと口を押さえた。ハァ、ハァ、と息を彼女は荒げていく。

「さぁ葉山さん」

 すました笑みを浮かべて、小石は葉山に手を差し伸べた。彼女の薄い笑みは、不思議な不気味さがあり、これまでのどの場面よりも迫力があった。


「全てを話してもらいましょうか」

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