隠し味は思い出

 うちの父さんのナポリタンの作り方はこうだ。

 パスタを茹でている間に具材を炒める。大抵はウインナーと玉ねぎ、ピーマンの三種類。こちらは炒め上がったらいったん別皿に取る。パスタがアルデンテに茹で上がったら湯を切って、フライパンに空ける。

 父さんはその時、フライパンにコンソメスープを足す。そして水分がなくなるまで再度炒め、麺がスープを十分に吸ったところで炒めていた具を足し、ようやくケチャップを投入。焦げつくくらいしっかり炒めて混ぜ合わせ、最後にバターを絡めてできあがり。

 味の方はもちろん美味い。もちもちした麺やしんなりした野菜に焦げたケチャップの香ばしさがよく絡んで、一皿簡単に食べきってしまう。バターを入れるといかにも洋食っぽいのもいい。


 でも俺は昔から、この作り方にほんのちょっと疑問がある。

 なぜならアルデンテはパスタの命だ。きっちり時間を計って茹で上げたパスタをなぜわざわざスープでふやかすのか。それで不味くなるということはないが、だったらアルデンテのままケチャップで炒めたらもっと美味しいナポリタンに仕上がるんじゃないだろうか。


 そう思って実際に作ってみたこともある。賄い飯として出した『アルデンテのナポリタン』は当然美味しかったし、真琴は喜んで完食してくれた。

 ただ父さんと母さんの反応は微妙だった。

「やっぱりナポリタンはあの麺じゃないとな」

 父さんが言うと、母さんも即座に頷いた。

「そうそう、ちょっと太めで柔らかいのがナポリタンよね」

「そんなもんかな」

 俺には全くぴんと来なかった。

 もちろん、俺にとってもナポリタンと言えば父さんが作ったものが印象深い。あとはせいぜい学校給食で出た、ちょっとくたくたで短く切った麺のやつくらいか。外食でナポリタンを食べることはこれまでなかったから、あれがナポリタンの常識みたいに言われると違和感がある。

「ナポリタンってね、お父さんとの思い出の味なのよ」

 母さんは懐かしむようにしみじみと続ける。

「へえ。昔からこんなふうに作ってたってこと?」

「そうじゃないの、喫茶店の定番メニューと言えばナポリタンでしょ?」

 俺は喫茶店なんてまず入ったことがないから、その問いかけには答えられなかった。隣で真琴も首を傾げている。

「私も純喫茶的なお店、あんまり行ったことないしわかんないかも……」

「最近の人はそうかもね。お父さんと結婚する前、デートの待ち合わせと言えば喫茶店の中だったの」

 母さんが微笑んで父さんを見る。

 父さんは居心地悪そうに目を逸らしている。

「だから二人でしょっちゅう食べたのよ、ナポリタン」

 それで思い出の味か。納得できたような、できないような。

 じゃあ父さんが作ってるのは、その頃食べた喫茶店の味の再現だということになるんだろうか。

「お義父さんとお義母さんの思い出のお店って、まだあるんですか?」

 真琴が尋ねると、母さんはそれが嬉しいというように相好を崩した。

「それがね、まだ営業中なのよ。私は今でもたまに行きたくなるんだけど、お父さんが行くのを渋ってね」

「もう喫茶店って歳でもないだろう」

 いつものことながら、父さんはにべもない。年齢のことも恐らくただの言い訳で、本当は単に照れくさいんだろう。

「正ちゃんも一度、真琴さんと行ってきたらどう?」

 つれない父さんに慣れている母さんが、俺に水を向けてきた。

「喫茶店のナポリタンがどんなものか、食べてみたらわかるんじゃない?」

「行きたいです!」

 俺が答えるより早く、真琴が声を上げた。

 ぐいぐいと俺の腕を掴んで引っ張りながら訴えてくる。

「行こうよ、その喫茶店! お店の場所教えてもらって!」

「い、いいけど……」

 そこまで食いつくような話かな。俺は真琴の勢いに戸惑いつつ、母さんから件の喫茶店を教えてもらうことにした。


 路面電車が走る駅前通りは静かだった。

 観光シーズン以外の時期は大抵こんなもので、電車の線路沿いに続く古いアーケード街は人通りも少ない。春先の強い風が吹く中、俺と真琴は目当ての喫茶店に辿り着いた。

「わあ、暖かい」

 中に入るなり、真琴がほっとした声を漏らした。店の中はほんのりと暖かくて、コーヒーの馥郁とした香りとジャズのメロディが漂っていた。

 俺達は窓際に三つ並んで設けられたテーブル席の一つに座った。

 昼前に訪ねたからか、店内に他のお客さんはいなかった。すぐに店員がやってきて、俺達の席にレモンを浮かべた水のグラスとおしぼり、それに年季の入った黒い表紙のメニューを置いていった。

「ナポリタン、ある?」

 向かい合わせに座った真琴が身を乗り出したので、俺は彼女に見えるようにメニューを開いた。品目はさほど多くなく、『お食事』の欄を探せばすぐにナポリタンの名前があった。サラダつきで六百五十円、ドリンクをセットにするとプラス百五十円。

「播上もナポリタンにするよね?」

「ああ。真琴も?」

「もちろん。その為に来たんだもん」

 俺達は揃ってナポリタンを注文した。

 飲み物は香りにつられて二人ともホットコーヒー、ところが頼もうとしたら店員から豆の種類を聞かれてちょっと困った。俺も真琴も普段は緑茶派で、コーヒーをあまり飲む習慣がなかったからだ。

 生真面目そうな店員は慣れたそぶりで俺達にお薦めを教えてくれ、結局俺はモカブレンド、真琴はグアテマラを選んだ。


 注文を終えてから、改めて店内を見回す。

 昭和情緒というやつなのか、内装はどこか古めかしく、それでいて高級感溢れる雰囲気で統一されていた。

 大理石調のがっしりしたテーブルとゴブラン織りの布が張られた椅子、天井や壁面には目映いシャンデリアが灯っている。カウンター席もあり、その向こうにはアンティークめいた手挽きのミルや本当に実験器具みたいなサイフォンが置かれている。

 奥の棚にはコーヒー豆を詰めたキャニスターがずらりと並んでおり、近づいて一つ一つを手に取ってみたい欲求に駆られた。


「何だか大人のお店って感じ」

 同じようにきょろきょろしていた真琴が、やがて声を潜めて俺に言った。

 まるで自分が大人ではないような口ぶりに、俺は吹き出しそうになるのを堪えた。

「真琴だって大人だろ」

「そうだけど……喫茶店なんてまず来たことないから」

 苦笑する彼女は落ち着かないのか、しきりにおしぼりを弄っている。

 俺達も今年で三十になるし、こういった喫茶店に入って浮くような歳でもないはずだ。でも普段『和』一辺倒の小料理屋で働いているせいか、洋風のお店にはどうも弱い傾向がある。

「こんなところでデートの待ち合わせなんて素敵だね」

 真琴はそう言うが、俺としてはこんなところでデートなんてしたらかえって話がしづらいんじゃないかと思う。店内はジャズの往年の名曲が流れているだけで静かだし、他にお客さんもいないし、俺達も自然と声を潜めてしまう。

「ケータイの電源切った方いいかな」

「あっ、そうだね。うるさくしたら申し訳ないかも」

 二人揃って電話を取り出し、いそいそと電源を落としたところで、お目当てのナポリタンが運ばれてきた。


 楕円形の銀皿に盛られたナポリタンはケチャップで赤く染まっていた。

 見た感じやはり太麺だ。具はウインナーと玉ねぎ、ピーマンの三種類で、上にはパセリが振りかけられている。フォークと一緒に箸が運ばれてきて、俺も真琴も戸惑いつつ二人揃ってフォークを手に取る。

「いただきます」

「いただきまーす」

 手を合わせてから、俺達は早速ナポリタンを食べ始めた。

 口に運んですぐに思ったのは、父さんが作るものとは少し違うなということだ。もっちりとした柔らかい太麺は父さんみたいにスープを足したものではなく、恐らく元からこういう品種なんだろうと思った。ケチャップが焦がし気味なのは同じだったけど、風味が若干違う。どうも仕上げに絡めているのはバターではなく、マーガリンのようだった。

 思い出の味と言われて来てみたものの、実際に食べてみると随分違う。もちろんこっちだって美味しかったけど、正直拍子抜けしてしまった。

「お義父さんでも完コピってわけにはいかなかったのかもね」

 真琴も同じ感想を抱いたんだろう。小声で囁かれ、俺は頷いた。

「最近来てないって言ってたし、だんだん記憶とずれていったのかもしれない」

 俺は父さんのことを料理人としても尊敬しているけど、たとえ父さんと言えど何十年も前に食べたきりのメニューを記憶を頼りに再現するのは難しいことなんだろう。

 まして記憶はどんどん風化していくものだ。ナポリタンだって毎日作って食べるものじゃない。

「それか、食べる人の為にアレンジを加えたか、なのかも」

 そう言った後、真琴は何か気がついたみたいに目を瞠った。

 たちまち明るい表情になって続けた。

「ねえ播上、気づいた? ここのナポリタンにはパセリがかかってるの」

「ああ。うちの父さんはパセリかけてないけど」

「それって女の人の発想だって思わない? 私もたこ焼きには青のりかけない方だもん」

 パセリをかけないのが女性の発想――確かに歯につくのが嫌だ、という意見はよく聞く。真琴の言うことももっともなのかもしれない。

 でもそれがどうしたんだろう。

 首を傾げる俺に、どこか得意げに真琴は言った。

「だからお義父さんのナポリタンは、お義母さんの要望に合った作り方なんじゃないかな」

「母さんの……?」

「もっと言うとね、お義母さんの為のナポリタンなんだよ、きっと」

 真琴のその言葉に、俺は思わずフォークを持つ手を止めた。

 彼女はと言えば、推論を口にしたことでいよいよ勢いづいたようだ。

「二人ともお店をやってるから、なかなか外には食べに行けないじゃない。でもお義母さんは思い出のナポリタンが食べたくなって、お義父さんにお願いしたんじゃないかな。そして生まれたのがあの、スープを吸わせたナポリタンなんだと思うな」


 当然ながら俺はあの二人の若かりし頃なんて知らなくて、せいぜい実家にしまい込まれているアルバムの中に見る程度だ。当時の流行ファッションに身を包んだ両親が今とあまり変わらない表情で写っているのを、何となく気恥ずかしい思いで見ていた。

 両親の馴れ初めなんかも俺はあんまり興味なくて、母さんはいろいろ話してくれるけど微妙に盛っているらしくて、あとで父さんに『あれは嘘だ』と訂正されたこともあるほどだ。

 でも真琴の推論が本当なら、わかることが一つある。

 俺は、俺達は、あの二人の惚気の産物を食べていたみたいだ。


「それで思い出のナポリタンか」

 思わず溜息をつく。

 母さんの言う思い出には、結婚してこの店に来なくなってからのことも多分に含まれていることだろう。

 どうりで俺が作ったアルデンテのナポリタンには見向きもされないはずだ。

「思い出を隠し味に使われたら、敵うはずがないよな」

 俺がぼやくと、真琴は朗らかに笑ってみせた。

「あっ、播上が敗北宣言してる」

 別に、父さんに勝とうなんて思い上がったことを考えていたわけじゃない。

 でも今回ばかりは完敗だ。俺の出る幕なんて端からなかった。


 ナポリタンを食べ終えたタイミングで、食後のコーヒーが運ばれてきた。

 それを時間をかけてじっくり味わいながら、真琴がふと口を開いた。

「一体、どんなデートだったのかな」

 唐突にも思える問いかけに俺が瞬きをすれば、

「だって、ケータイもない時代だよ。喫茶店で待ち合わせるってどんな気分だったのかな。待つ方も待たせる方もやきもきすることあったんじゃないかな。待ってる間も数分遅れただけで、来ないんじゃないかって不安になったりして……」

 真琴は喫茶店の入り口のドアに視線を馳せた。

「こうしてドアばかり見てたのかもしれないね。早く来ないかな、って」

 今なら遅れる連絡は気軽にできる。連絡さえあれば待っていて不安に思うこともないだろう。

 俺は高校時代にはもう携帯電話を持っていたから、それがない時代の待ち合わせなんて上手く想像できない。でもそれがない時代というのも確かに存在していたんだ。

 父さんと母さんはそんな時代でも交際を続けて、結婚することもできた。

「……想像すると、何かこっちが恥ずかしいな」

 俺は正直に零し、こちらへ向き直った真琴にまた笑われた。

「播上はいつもそう言うね」

「自分の親がって思うとな。あの二人、何だかんだで仲いいし」

 仲がいいのは喜ばしいことなんだろうけど、息子としては反応に困るのも事実だ。

 今回だってまんまと見せつけられた気がする。俺達にこの店を教えたのも、要は母さんらしく惚気たいからじゃないだろうか。

 疑念を抱く俺が顔を顰めると、真琴が急に気遣うような表情を見せた。

「あのさ、播上」

「ん? どうかした?」

「私、播上の作ったナポリタンも好きだよ。すごく美味しかった」

 妙に畏まって言った彼女は、その後で俯き、もじもじし始めた。

「だからまた、私に作ってね」

 気を遣ってくれたのか。

 そう思いかけて、すぐに打ち消した。


 真琴にとっては俺が作ったアルデンテのナポリタンこそが思い出の味なんだろう。

 俺が思い立ってナポリタンを作ってみたからこそ、この店に来ることもできたんだから。俺がまたナポリタンを彼女の為に作ることがあったらその時は、お互いに今日のことを思い出すのかもしれない。

 初めての、喫茶店デートの記憶として。


「いつでも作るよ、ありがとう」

 俺が答えると彼女は頬を赤くしてはにかんだ。

「うん」

 それから俺達は美味しいコーヒーを飲みつつ、今後の予定について話し合う。

「せっかくこっち出てきたんだし、この後どこか見ていこうか」

「いいね。私も駅前見て歩きたかったんだ」

 今日がいい思い出になって、いつか美味しい隠し味になるように、二人で楽しく過ごしたいと思う。

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