後日談
胃袋より心臓を掴め
うちには二種類の肉じゃががある。
一つは煮汁多めに深めの鍋で、じっくりことこと煮込む肉じゃがだ。
店で出すのはこちらの方で、時間をかけた分ジャガイモにもしっかり味が染みている。その分、味つけ自体はだしを多めに、優しい味わいに仕上げるのが特徴だ。
うちの店に来るお客さんには仕事帰りの会社員なども多く、こういう肉じゃがは安心できる味として未だに広く好まれているようだった。
もう一つはフライパンで作る、短時間で仕上げる肉じゃがだ。
玉ねぎや豚肉を炒めた後、醤油とみりんでしっかり味をつけてからジャガイモとしらたきを投入。更にひたひたになるまで水を入れ、強火で水分が飛ぶまで炊き上げる。
こちらの肉じゃがのジャガイモは、箸で割ると中は真っ白だ。それでもこってりめの味つけで仕上げているから、十分に美味しいしご飯のおかずにもなる。
俺にとって家で食べる肉じゃがと言えばこっちだ。
夕飯はいつも賄い飯だったから、あまり時間をかけない献立が重宝されていた。今風に言うと時短料理ってやつだ。
肉じゃがの材料はジャガイモと玉ねぎ、豚肉、しらたき。
冷蔵庫に高確率で入ってるものばかりで作れるから、リーマン時代にはたまに作ったし、弁当のおかずとして持っていったこともある。
それを藤田さんに見つかると、
「播上くん、肉じゃが自分で作るの? 引くわ……」
などと険しい顔で言われるわけだが――今思うとあの人は古風な考えの持ち主だったようだ。
しかし世間的には、肉じゃがというのは女の子が男の為に作るものという考えが根強いらしい。
らしい、というのは実体験からそう思うわけではなく、単に聞きかじっただけだ。
俺にその話を教えてくれたのは藤田さんと、真琴だった。
まだ結婚どころか付き合ってもいなくて、彼女を『清水』と呼んでた頃の話だ。
「今日のお弁当、肉じゃがなんだね」
社員食堂でいつものように隣り合わせて座ると、彼女は俺の弁当を覗き込んで言った。
「家庭的! 男の人に作ってあげたら喜ばれそうじゃない?」
「何で男限定なんだ」
肉じゃがは老若男女誰が食べたって美味しいじゃないか。そう思って聞き返せば、彼女は屈託なく答えた。
「よく言うでしょ、彼氏に作ってあげる手料理と言えば肉じゃがって」
「まあ、聞いたことはあるけど」
あるけど、それについては異論がある。
大抵の男は肉じゃがよりも、もっと肉の存在感がある丼物なんかの方が好きだ。肉じゃがも好きではあるが、それ自体を必殺必中のレシピみたいに持て囃す風潮は理解できない。なぜ肉じゃがなんだろう。
俺の疑問を置き去りにして、同期の彼女は語る。
「つまり肉じゃがは、胃袋を掴む料理なんだよ」
「胃袋なあ……。なら肉じゃがじゃなくてもいいだろ」
「まあね。播上の手料理なら、どんな人の胃袋も掴めちゃいそう」
くすくす笑った彼女が、ぎゅっと片手を握ってみせた。
宙を掴んだその手が、前に俺の手を掴んでくれたことを覚えていた――その頃、俺は既に彼女が好きだったからだ。
他の人間を喜ばせたいなんて思ってない。ただ清水だけが喜んでくれたらいい。果たして俺は、彼女の胃袋を掴めるだろうか。
そんなことをぐるぐると考えながら、俺は切り出した。
「じゃあ食べるか、肉じゃが」
「うん!」
それで俺はいつものように、弁当の蓋に肉じゃがを少し取り分けてやる。
彼女は中が真っ白なジャガイモに驚きつつも、いい笑顔で美味しいと言ってくれた。
結局、俺の肉じゃがが彼女の胃袋を掴めたのかはわからない。
ただ会社を辞めて、故郷に戻ってきた今でも彼女は俺の隣にいる。
そして俺は、彼女を名前で呼ぶようになった。
「真琴、今日の夕飯肉じゃがでいいか?」
冷蔵庫を開けて、中身を確かめながら尋ねてみる。
すると真琴はすっ飛んできて、俺の背後で嬉しそうな声を上げた。
「播上の肉じゃが! 食べたーい!」
「じゃあ決まりだ」
今夜も仕事で店に出る。そういう日の夕飯は早めに食べなくてはならないから、時短の肉じゃがはちょうどいい。
俺が台所に立つと、真琴も並んで手伝ってくれる。今日はジャガイモの皮剥きをお願いした。その間に玉ねぎと豚肉を炒めておく。
「そういえば、肉じゃが作ってるとこ見るの初めて」
皮を剥き終えた真琴が手元を覗き込んでくる。
醤油とみりんで味つけを終えたフライパンに、ジャガイモとしらたきを入れた。そしてひたひたになるまで水を注いだら、強火にして一気に炊き上げる。
「へえ、こうやって作るんだ」
「この方が早く仕上がるからな」
店で出す、中まで味が染み通った肉じゃがとは違う。だけどこっちだって負けないくらいに美味しい。
水気が飛んで、照りよく仕上がった肉じゃがを夕食に出すと、
「美味しい! そうそう、この味だったよね」
真琴は大満足で食べてくれた。
「初めて食べさせてもらった時はびっくりしたんだよ。中が白いんだもん」
「でもこってりめで、ご飯に合うだろ」
「そうなんだけどね。播上にも筆の誤りかなって思っちゃった」
俺にとっては小さな頃から慣れ親しんだ我が家の肉じゃがだ。
この味が気に入ってるし、きっと誰が食べても美味いと思う。
それから俺は食卓越しに、旺盛な食欲を見せる真琴を盗み見た。今夜の肉じゃがの出来を気に入ってくれたことは表情でわかる。でも、肝心なところはわからない。
「俺は、お前の胃袋を掴めたのかな」
食事の合間に、ふと呟いてみた。
どんな反応をされるだろうと思って眺めてみれば、彼女はまずきょとんとした。
「胃袋?」
「前に言ってただろ。肉じゃがで胃袋を掴めとか何とか」
「ああ! 定番メニューってやつだよね」
思い出したのか、納得した顔になった真琴が続ける。
「うーん、掴まれたって言えばそうなのかなあ……」
「何だよ、曖昧だな」
俺が突っ込むと、首を傾げてみせた。
「だって私、播上の料理だけが好きなわけじゃないし……。播上には料理の腕以外にもいいところ、本当にいっぱいあるじゃない。そういうとこ、全部いいと思うし……」
そんなふうに言っておいて、その後で一人はにかんでみせる。
「私が言うと惚気みたいだけど、とにかくそんな感じ!」
「……そ、そっか」
みたいと言うか、惚気だ。
言われた方は堪ったもんじゃない。顔を伏せたくなるほど照れた。
俺たちは友達でいた方が長い夫婦なので、こういう会話はまだ苦手だ。
今も、俺のいいとこってどこ? とか、俺のどこが好き? なんて質問はしたくてもできない。恥ずかしい。
気になるのはやまやまだが、聞いたら聞いたで派手に自爆しそうだ。
それは多分、真琴だって同じなんだろう。
肉じゃがを何度か口に運んだ後、不意にこう切り出した。
「じゃあ、さ。……私は?」
「ん?」
「私は、播上のどこを掴んだのかな。胃袋じゃないよね?」
どこをって。
「また難しいことを聞くな」
戸惑う俺に、真琴は自棄になったみたいな勢いで畳みかけてくる。
「そういえば聞いたことなかった。いつから私のこと好きだったの?」
「えっ……いや、それは」
それがいつだったか、俺はちゃんと覚えてる。
でも覚えているかどうかと、答えられるかどうかはまた別の話だ。
「たまにはそういうの、聞きたいかなあって思ったり……」
もじもじと視線を彷徨わせつつ、最後にはしっかりこちらを上目遣いに見て、真琴がねだる。
「……だめ?」
そんなに可愛くおねだりされて、駄目なんて言えるはずない。
やむなく俺は意を決し、箸を置き、姿勢を正した。
そして深呼吸をしてから、絞り出すように答える。
「お前が、俺の手を、『魔法の手』だって言ってくれた時」
あの時のことは今でも忘れられない。
社会人生活三年目の終わり。
渋澤がいなくなった頃。
人で混み合う社員食堂のざわめきが、遠くなった一瞬。
「お前が掴んだのは、俺の手だったんだと思う」
胃袋じゃなくて、手を掴まれた。
いや、もっと言えばあの時、心臓ごと掴まれたように思えた。心を奪われるってああいう瞬間のことを言うんだろう。まるで目が覚めたように、吸い寄せられるように、彼女を好きになってしまった。
思い出が感情を揺さぶって、今でも胸が痛くなるほどだ。
「それって、かなり前の話じゃない?」
真琴はぱちぱちと瞬きをして、それから何度も頷いた。
「ふうん、そっかあ……」
笑いを堪えようとしているようだが、唇がにまにまと緩んでいる。
「何だよ、笑うなよ」
「笑ってないよ。随分前から好きでいてくれたんだなと思って」
「……まあな。ずっと前からだ」
俺が認めると、真琴は堪えきれなくなったのか小さく笑った。
そして、恥ずかしいのを誤魔化すように明るい声を上げる。
「嬉しいんだよ。だって、他でもない播上に好きになってもらったんだもん!」
その言葉は、改めて俺の心臓をぎゅっと掴んだ。
言うまでもないことだが、真琴はやっぱり、いい女だ。
俺は途中になっていた夕飯の肉じゃがを見下ろし、ぼやいた。
「今日、これから仕事なんだよな……」
「えっ。急に何?」
「手につくかなと思ってさ」
何かずっと真琴のことばかり目で追ってしまいそうだ。
すると彼女は妙に慌てて、
「な、何言ってんの。播上らしくないよ!」
なんて言うけど、昔だってそのくらいあった。
好きな子のことを考えて、仕事に身が入らない日なんてのは。
そういう日を乗り越えられたのも結局は、彼女がいたからだ。彼女と過ごす昼休みの時間を、何よりも、この上なく楽しみにして過ごしてきた。
とりあえず今夜は仕事の後、家に帰ってくることを楽しみに頑張ろう。
今となっては何もかも掴まれちゃってるな、俺。
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