六年目(5)
その年の十一月に入って間もなく、渋澤瑞希が電話を掛けてきた。
『いきなりだけど、結婚するからな』
「へ? 誰が?」
『僕が』
「……誰と?」
『例の彼女と』
例の彼女って誰だっけ、と思い出すまでに十秒ほど必要だった。
そして思い出した後は、
「え? 何で? 上手くいったのか? と言うかもう結婚?」
俺の頭は混乱を極めた。
まず、渋澤からの電話が久し振りだった。
七月頃まではちょくちょく電話を掛けてきて、例の彼女がつれないだの、相手にされないだのと愚痴っていたが、そういう電話も八月にはぱったりと途絶えてしまった。
俺も多少は気になっていたものの、こっちはこっちでいろいろと忙しかったので、便りのないのはよい便りと思うようにしていた。
その読みはつまり、見事に当たっていたのだが。
「本当に結婚、するんだな」
聞きたいことは山ほどあった。何から聞いていいのかわからないくらいに。
『そうだよ』
「失礼だけど、向こうはちゃんと了承してるのか」
『本当に失礼だな。当たり前じゃないか』
でも、と俺は反論したくなる。
指折り数えてみてもたった三、四ヶ月間だ。以前は渋澤のことを相手にもしていなかったらしいその子が、どのようにして心変わりしたのか。俺には全く想像出来ない。
『結婚と言っても、式は身内だけで挙げるし、残念ながら新婚旅行に行く暇もない。あっさりしたものだよ』
渋澤は実にあっけらかんと、それでいて幸せそうに語る。
「スピード結婚ってやつだな」
まだ若干の混乱を残しつつも、どうにかして現実を受け入れようとする。
すると渋澤には愉快そうに笑われた。
『それは違うな。結婚に早いも遅いもないよ、播上』
非常に、身につまされる一言だった。
「……すごく納得した」
『そうだろ?』
得意げな奴の顔を容易く思い浮かべることが出来る。
やはり俺はいろんな意味で、あいつに敵わない。
『いつか、観光がてら遊びに行くよ。僕の可愛い妻も紹介したいしな』
「ああ、是非一緒に来てくれ。こっちは夫婦で来るのもいいところだ」
何せ海もあるし温泉もある。
あと、美味い飯を出せるよう、その日まで精進するつもりでいる。
俺も、渋澤の奥さんがどんな子なのかを見てみたいと思う。奴がここまで惚れ込むくらいなんだから、きっとすごくいい子に違いない。
「渋澤、結婚おめでとう」
改めて、俺は最も言うべき言葉を告げる。
電話の向こうでは照れたような笑いが聞こえる。
『ありがとう。お前には、ちゃんと報告しておきたかったんだ』
「そうか……いや、こちらこそ、知らせてくれてありがとう」
初めはかなり驚かされたが、何にせよおめでたい話に変わりはない。
幸せになって欲しいものだ、今以上に。
『ところで、お前と清水さんはどうなんだ。いつにするか決めたのか?』
「ああ、大体は。来年の三月だ」
『来年?』
今度は奴に驚かれた。
『失礼だけど播上、どうしてそんなに気が長いんだ!』
「別に失礼でもない。彼女の仕事のきりのいいところで、と思ったからな」
『よく落ち着いて待ってられるな、お前……』
そこは自分でも不思議に思う。
彼女に、三月までは仕事を続けたいと言われた時、反対する気は微塵も起きなかった。彼女のことだから跡を濁したくないんだろう、そう思って受け入れることにした。
当然、毎日のように寂しさは感じているし、メールが来れば声が聞きたくなり、電話をすれば顔が見たくなる、そんな日々を相変わらず過ごしている。
来年の三月まではあと四ヶ月、ずっとこんな調子だろう。
こんな調子で、でも何となく乗り切っていくんだろう。
「ほら、結婚に早いも遅いもないって言うだろ?」
先の言葉を剽窃して俺が笑うと、渋澤もつられるように笑った。
『……全く。お前らには昔から、敵わないよ』
結婚なんてものは、当事者同士にしかわからないことだらけだ。
傍目にはまるで不似合いな二人が結ばれる場合もある。一年どころか十年も、相手を待ち続けていられる人もいたし、恋に落ちて半年ほどで結婚に漕ぎ着ける人もいた。何が正しくて何が間違っているのかなんて、第三者が評していいものでもない。
さしあたって俺と彼女が、出会ってから六年で結婚することも然りだ。誰の口からも、正しいとも、間違っているとも言えないだろう。
あるのはあくまでも事実だけ。俺は彼女を愛しているし、一緒に夢を叶えたいと思っている。
彼女は真摯に、俺を追い駆けてくれている。
その事実があれば誰からも否定されることはない。ないといいな、と思う。
そして、年が明けて、迎えた三月の半ば。
彼女は俺の故郷にやってきた。
今度は一泊二日なんて短期間ではなく、たくさんの引っ越し荷物を携えて。
俺達は実家の近くに部屋を借り、そこから店まで通うことにした。両親との同居は、むしろ母さんからやんわり断られた。
「ほら、同じ屋根の下に新婚さんがいたら、うちのお父さんが恥ずかしがっちゃうから」
そういう言い方をされたものの、気を遣ってくれたんだということはわかった。
彼女もこっちの街で暮らすのは初めてだから、慣れるまでには時間も掛かるだろう。うちの両親のことを好いてはくれているようだが、それでも気を揉むようなことは少ない方がいいはずだ。俺もそう考えていたから、おとなしく母さんの言葉に従った。
当の彼女がどのように考えているのかは、こっちに来て、顔を合わせた直後に聞いた。
「慣れないって言うなら、播上と二人で暮らすのだってしばらくは緊張してそう」
もじもじと照れた様子で言っていた。
「こういうのってらしくないかな? でも、どきどきするよね?」
「そりゃまあ、多少は」
俺も緊張していないわけじゃない。
彼女と恋人同士でいたのは一年間で、しかもその間ずっと顔を合わせていなかった。こうして二人での生活を始めるにあたり、面食らうような、何とも落ち着かない心持ちになってしまう。
お互い派手なことはしたくなくて籍だけ入れて結婚式も挙げなかった。気持ちの切り替えが出来ないのはそのせいかもしれない。
だが、俺達には五年間の実績もある。
恋人になる前の、メシ友として接していた五年の記憶がある。
それさえあればどういう関係にも、どういう環境にも慣れていけるような気がする。
とりあえずは、彼女に釘を刺しておく。
「真琴。俺を『播上』って呼ぶの、そろそろ止めないか」
「え、でも」
「お前だって播上じゃないか。戸籍上はもう既に」
「そうだけど。今日変わったばかりだし、すぐに切り替えなんて出来ないよ」
俺が彼女のことを『清水』と呼ばなくなってから大分経つ。彼女の実家に挨拶に行く機会と、それから今日に備えて、早いうちからなるべく名前で呼ぶようにしてきた。最初のうちはめちゃくちゃ照れたものの、直に慣れてしまったから不思議なものだ。
一方の真琴は、どうしても俺のことを名前で呼べないらしい。
「何か、『正信さん』って言うのは、よそ行きみたいな呼び方じゃない?」
うちの両親の前では便宜上、そう呼んでいる。
でも彼女自身はこの呼び方をあまり好いていないらしく、確かに他人行儀な印象はあるなと俺も思っている。
しかし、
「かと言って『正ちゃん』も駄目なんだよね?」
「駄目。絶対駄目」
それだけはたとえ愛する彼女でも勘弁して欲しい。俺ももう二十八だし、ちゃん付けが似合う歳でもない。うちの母さんは相変わらず、その呼び方を続けているが――だからこそ真琴にはもっと違う呼び方をして欲しかった。
「他の呼び方は思いつかないし、しばらくは今まで通りに呼びたいな。いつか慣れるようにするから。いい?」
困り顔でお願いされると、こっちも強くは出られなくなる。
と言うより、今のところは可愛い真琴が傍にいてくれるだけでよかった。
何だかんだで幸せだった。
無事に籍も入れて、今日から二人の生活が始まる。
些細なことはどうでもよくなってしまうくらいに幸せで、顔が緩んでしまってしょうがなかった。
引っ越し荷物をあらかた片づけてから、俺は彼女にこう言った。
「夕飯、一緒に作ろうか」
真琴はそれに愛想よく頷く。
「うん、いいよ」
「献立は何がいいかな。真琴、何が食べたい?」
「ええとね……じゃあ、豚肉のごま味噌焼き」
「ん?」
どこか懐かしい名前。俺が目を瞠ると、隣で彼女がはにかんだ。
「覚えてる? 初めて播上に教えてもらった、思い出のメニューだよ」
二人で一緒に買い物に行き、その後は、二人で一緒に台所に立つ。
部屋を借りる時、台所のスペースは必ず確認していた。最低限、俺と真琴が並んで立っても問題ないくらいの広さが欲しかった。条件をクリアしたこの部屋で、結婚初日の夕飯の支度が始まる。
一緒に料理をするのは初めてだった。
真琴が豚肉を切っている間、俺はガス台に向かって味噌汁を作る。彼女が肉を焼き始めたら、俺は洗い物を済ませてしまう。二人の共同作業は思いのほか上手くいった。お互いの作業の邪魔になることもなく、俺が台所奉行になる必要だってなかった。
二人でする料理は、一人の気楽さ以上の楽しさがあった。
料理をしながら話だって出来る。
「それにしても、渋澤くんに先を越されるとは思わなかったな」
「俺もだ。あいつはすごいよ、いろんな意味で」
渋澤は渋澤で、メシ友から夫婦になるまで六年掛かった俺達を、いろんな意味ですごいと思っているようだが――掛かってしまったものはしょうがない。結婚に早いも遅いもないとはけだし名言である。
「落ち着いたらこっちに来たいって言ってたな。奥さん連れて」
「そっかあ。私も会いたいな、渋澤くんぞっこんの奥さんに」
真琴はそう言って、それからふと難しい顔を作る。
「からかわれる前にからかってやらないと。先手必勝だよね、きっと」
「そうだな」
その時が来たら、俺達はどんなやり取りをするんだろう。そう先の話でもないはずなのに想像がつかない。
でも、純粋に楽しみだ。
配膳を済ませてから、二人で隣り合って食卓に着く。
最初の夕飯は予定通り、豚肉のごま味噌焼きだった。真琴がほぼ一人で作ったもので、仕上がりは見栄えからして上出来だった。焦げた味噌のいい匂いがして、俺達はいてもたってもいられず手を合わせる。
「いただきます」
「いただきまーす」
二人で一緒に夕飯を食べるのも、初めてだった。メシ友として昼飯は何度も食べていたが、夕飯を食べる機会は六年目の今まで全くなかった。
同じ料理を食べるんだから、おかずの交換をすることもない。同じ部屋に住んでいるから、昼休みに会えなくて寂しい思いをすることもない。ただ、彼女の美味しそうな顔を隣から眺めている、そのことだけは六年目も変わらない。
「二人でご飯食べるのって、いいよな」
「うん。余計に美味しく感じるよね」
「だとすると、これからは毎日美味しく食べられるな」
「きっとそうだね」
俺の言葉に笑う彼女は言うまでもなく可愛いし、いい女だ。
料理は人を幸せにする。
作る楽しさも食べる楽しみも知っている俺達は、とても幸せなのだと思う。
二人きりの穏やかな夕飯に辿り着くまで、六年掛かった。
だが朝飯まではそんなに掛からないはずだ。
今日からは、ずっと一緒だから。
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