二年目(1)
「播上って、鍋奉行なんだろ?」
昼休みの社員食堂で、テーブルの真向かいに座る渋澤が尋ねてきた。
俺ではなく、なぜか清水に。
いつものように俺の隣に座っていた彼女は、当然首を傾げてみせる。
「え……さあ、知らないけど。そうなの?」
清水が問い返せば、今度は渋澤が訝しげな顔をする。どうして知らないんだと言わんばかりの表情だった。
「あれ、清水さんなら知ってると思ったのに」
「ううん、知らない。一緒にお鍋したことないし」
「鍋以外でも、普段のそぶりから想像がつくだろ? 播上だぞ?」
どういう意味だ。
俺も弁当を食べるのを止め、口を挟む。
「何で俺に聞かないで、清水に聞くんだ」
「こういうのは本人に自覚がないものだろ。聞いたって播上は認めないだろうし」
渋澤はお構いなしに続ける。
「この間、焼肉食べに行った時も酷かった。僕の焼き方にいちいち口を挟んでくるし、しまいには焼けるまで肉にも触らせて貰えなかったんだから」
それはつい先週の話だ。
渋澤と誘い合って一緒に食事に行くことになった。夏のボーナスが出た後で余裕があった為、行き先は焼肉にした。
今思うと店のチョイスを間違えていたようだ。焼肉店では俺と渋澤の考え方の違いが発覚してしまう結果となった。俺は渋澤に『肉には触るな』と厳命し、渋澤は渋澤で往生際悪く肉を弄りたがって、最終的には小学生並みの口喧嘩へと発展したのだった。
もちろん俺達は社会人二年目の立派な大人であるからして、焼肉で喧嘩をしたくらいで険悪になることもなかった。最後には仲良くアイスクリームを食べて手打ちとし、紳士的な態度で別れた。
翌日には渋澤の方から普段通りに接してきたから、『こういう男だからもてるのだろう』と密かに納得もしていた。
しかしそんな渋澤も、全く根に持たないというわけではないらしい。
「あれは焼肉奉行と呼んでもいいくらいのふるまいだったな」
この期に及んで恨みがましく渋澤が言う。
「焼肉奉行?」
途端、清水はおかしそうに吹き出した。
「ああでも、イメージ出来るかも。播上なら外食の時でも黙ってなさそうだよね」
彼女の中の俺のイメージ、どんなのなんだろう。
複雑に思いながらも反論しておく。
「あれは渋澤が悪い。肉をしつこいくらいに何度も何度も引っ繰り返すんだからな。あまりに落ち着きがないから、黙って待ってろと言いたくもなった」
「だって早く焼けて欲しいじゃないか。生焼けだったら食べられないだろ」
渋澤もむっとして言い返したが、俺はかぶりを振る。
「違う。渋澤は単にせっかちなだけだ。焼肉ってのはじっくり焼くものなんだよ。引っ繰り返すのは一回だけにすべきだ」
あんなにしきりに引っ繰り返したがる奴があるかと思う。仕事の時は全くそんなそぶりのない渋澤も、焼肉に関してはやたらと性急だった。
「肉を焼く順番だってある。塩から焼くのが常識なのに、渋澤はタレから焼こうとした」
「ああ、それは常識だよね」
俺の言葉に清水が頷く。
それで渋澤があからさまに顔を顰めた。
「清水さんまで言うのか、そうか」
「だってそこは大事じゃない。網が汚れちゃうもの」
「いいよ、わかってるよ。清水さんはどうせ播上の味方なんだよな」
「違うってば。正しい方の味方なの!」
「食べたい方から焼いたっていいじゃないか。お腹が空いてたら形振り構ってられないんだよ」
遂には目に見えて拗ね始めるから手に負えない。
急いては事をし損じる。焦るあまり、せっかくの肉が台無しになっては元も子もないじゃないか。
全く、渋澤は焼き肉のセオリーというものを何もわかってない――。
俺が溜息をついた時だった。
「もう、しょうがないなあ!」
いきなり、清水が笑い出した。
「喧嘩するくらいなら、一緒にご飯食べに行かなきゃいいのに」
ころころと楽しそうに、女の子らしく笑い声を立てる。
それだけで、三人で囲むテーブルの空気がふっと和んだ。渋澤がこっそり俺を見て、俺が苦笑すると、向こうもしょうがないなと言いたげに肩を竦めた。
「本当は仲良しなんだね、二人とも。いいなあ」
清水は本当によく笑う。
入社当初の陰りなんてどこかへ飛んでいってしまったらしく、俺は一年と数ヶ月前の事を、遠い昔のことのように思い出したりする。
社会人二年目の夏を迎えていた。
一年目より少しは余裕があるというだけで、特別何かが変わったようには思えなかった。
仕事はある程度覚えた。料理のレパートリーも少し増えた。そのくらいだ。
清水とは相変わらずメシ友の関係を維持していて、昼休みの時間が合えばこうして一緒に弁当を食べている。そして弁当のおかずを交換し合っている。それがごく当たり前の感覚になったこと以外は、やはり特別変わったようでもない。
時々、今日みたいに渋澤が交ざったり、或いは藤田さんが口喧しいことを言いに来たり、同期の連中がからかいに来たりする。俺と清水が付き合っているんじゃないかと勘繰る人間も未だにいる。
そういう雑音もどうにか聞き流せるようになっていた。
「でも見てみたかったな、播上のお奉行様ぶり」
清水はまだ笑っている。
これだけ遠慮なく笑われると、まあいいか、という気分になる。
渋澤も同じ心境のようで、直後に口を開いた表情は和やかだった。
「播上と清水さんは、一緒に食事に行ったりしないのか」
「ないな」
すかさず俺は答え、渋澤がちょっと目を瞠る。
「へえ。とっくに食事くらいは行ってる仲かと思ってた」
「昼飯なら一緒に食べてる」
「いや、そうじゃなくて。仲いいのに、プライベートでは会ってないのかと」
渋澤は驚いているようだ。
でもこちらからすれば、仲がいいというだけでプライベートでの付き合いがあるとイメージされるのも厄介だと思う。
渋澤とは男同士だから、食事だろうと飲みにだろうと気軽に行ける。次は焼肉は回避しようと思うものの、ともかく、男を誘うのと女の子を誘うのとは違う。
清水は曲がりなりにも女の子で、おまけに社内であらぬ噂を立てられている相手だ。食事に誘ったりしたら誤解を助長しかねない。
「何か、清水とご飯食べに行くってのがイメージ出来ない」
率直に答えると、隣で清水も頷いてみせた。
「だよね。私も播上と外でご飯食べるっていうのは考えられないな」
そんなものだ。仲がいいというだけで周りは誤解したがるが、実際プライベートでまで干渉し合うほどの関係じゃない。せいぜいメールのやり取りをするだけで、噂されるいわれもないくらいだった。
「そんなもんかな」
どことなく腑に落ちてない様子で、渋澤が呟いた。
俺が言い返してやろうとした時、それよりも先に清水が口を開いた。
「播上と外でご飯食べるなら、一緒に作った方が早いよね」
とっさに隣を見る。
渋澤も清水を見る。
清水は俺と渋澤を見比べて、同意を求めるように尋ねてくる。
「ね、そうじゃない? せっかくお互いに料理するのに、外でご飯食べるのはもったいないよ。だから播上とは、外食とかはしたくないかな」
論点はそこじゃない。
渋澤が言い出したのはプライベートで会ってるのかどうかって話であって、俺が答えたのもまさにそういう意味で、清水とはないって答えたまでだ。
なのに清水の答え方じゃ、会うこと自体は構わないみたいな口ぶりだった。
ずれてるなと思いつつ、俺は彼女を笑い飛ばす。
「それなら俺一人で作った方が早いな。清水の手を借りるまでもない」
すると清水はたちまち眉を吊り上げた。
「何それ、私だとお手伝い程度にもならないってこと?」
そこまで言う気はない。
でももし、本当にそういう機会があったら。ないだろうと思いつつも、もし、清水と一緒に料理をすることになったら、俺は途中で面倒になって台所を占拠するかもしれない。
「一人で作る方が気楽なんだよ、俺は」
本音を告げる俺に、清水は頬を膨らませる。
「わあ酷い。こう見えても私、去年よりは上達したんですけど」
「そういう問題じゃなくて。ほら、人がいると落ち着かないことってあるだろ」
「播上、焼肉だけじゃなくて台所奉行でもあるんだね」
彼女に軽く睨まれると、笑いの方が先に浮かんでくるから困る。
俺が吹き出す直前、真向かいの席の渋澤が言った。
「お前らだって十分、仲良しじゃないか」
それはそうだ。だって、メシ友だからな。
逆に言えば、それ以上のことは何もない間柄だった。
帰宅後、清水にメールをするのが日課になっていた。
一時期みたいに、仕事の愚痴を言い合うことはほとんどなくなっていた。お互いにもう二年目で、慣れてきたせいでもあるのだろうし、愚痴を零すよりも有意義な趣味を共有しているからでもあるのだと思う。
メールの内容は今日の弁当について。詳しいレシピを書いて送ることもあるし、清水も作ったことのあるメニューなら、ポイントだけ掻い摘んで教えたりもする。
清水からの返信は短い。お礼を添えた挨拶程度の返信なら、その日のやり取りは終了。たまにレシピについての質問を送り返してくることもあるから、そういう時はもう一回メールを送る。俺達が付き合っているなんて勘繰る連中からすれば、きっと驚くくらいあっさりしたやり取りだろう。
実際、誤解されるいわれはなかった。
メールを送り終えてから、夕飯の支度を始める。
狭い台所に立ちふと思う。清水は一緒に作った方がいいと言ったが、この台所じゃそれは難しい。二人で並んで立つには狭いし、お互いの作業の邪魔になるだけだ。一人で作る方が気楽だというのも本音だったし、しまいには清水を追い払って、台所奉行ぶりを発揮せずにはいられなくなるだろう。
もっとも、そんな機会があるはずもない。俺にとってはたとえ恋愛感情がなくたって、女の子を部屋に招くというのは非常にハードルの高い事態だった。
清水はそういうの、平気なんだろうか。
そこまで考えた時、リビングのテーブルの上で携帯電話が鳴った。着信音でメールではないとわかり、手を拭いてから飛んでいく。
実家からだった。
『正ちゃん、こんばんは。お母さんでーす』
電話から聞こえてくるのは相変わらずな母さんの声だ。
俺は毎度のようにがっくりしながら応じる。
「あのさ、母さん。正ちゃんってのそろそろ止めない?」
『ええー。だってお母さん、ずっと昔から正ちゃんのこと正ちゃんって呼んでるのよ? 今更止められるはずないじゃない』
言っても無駄だったか。
俺、もういい大人なのにな。いつになったら止めてもらえるんだろう。
「二十三にもなって、ちゃん付けなんて恥ずかしいよ」
無駄と知りつつも食い下がってみる。
途端、母さんが何かを思いついたように声を弾ませた。
『そうそう、そうだったわね!』
「ん? な、何が?」
『正ちゃんのお誕生日がもうすぐだったでしょう。次の日曜日じゃなかった?』
「あ……ああ、うん、まあ、そうだけど」
覚えてたのか。
俺が家を出てから六度目の誕生日が訪れようとしていた。
『二十四歳になるのよね。おめでとう、正ちゃん』
「ありがとう」
礼は素直に言った。でも、どうにもくすぐったい。
こういう時、親への感謝も併せて言えたらいいんだろう。
産んでくれてありがとう、とか。
しばらく帰ってなくてごめん、とか。
しかしそれを口にするには気恥ずかしさもあって、結局何も言えなかった。
『それでね』
母さんは改まったように、
『実は正ちゃんに、お誕生日のプレゼントをあげようと思って、今日発送したのよ。日曜日の午前で時間指定したから、おうちにいてくれる?』
と続け、俺は思わず声を上げる。
「プレゼント?」
『そうよ。正ちゃんの喜びそうなもの。さて何でしょう?』
いきなりクイズを出されて、戸惑う。
そもそも誕生日プレゼントなんて、それこそいつ以来だかわからなかった。親元を離れてから既に六年目、就職してからは帰省すらしていない俺に、わざわざプレゼントを用意してくれたとは。
あまりのことに、喜びよりも申し訳なさの方が先立ってしまう。
「いや、母さん。それは悪いよ」
『何言ってるの。もう送っちゃったんだから、受け取ってもらえなきゃ困っちゃうな』
つまり、俺が遠慮をするだろうこともお見通しだったというわけか。
敵わない。
「じゃあ……その、ありがたくいただくよ」
『そうしてちょうだい。お父さんも喜ぶだろうから、ねえお父さん? ――もう、お父さんったら! 聞こえないふりしないの!』
母さんの声量から、父さんがすぐ傍にいたのが電話越しにわかった。
父さんは例によって何も答えず、とっとと逃げ出してしまったらしい。
遠くにドアの閉まる音が聞こえた。
『本当に困った人よね。正ちゃんが喜ぶだろうから送ってやれって言ってたの、お父さんなのよ。それなのに電話には出たがらないし、全くもう……』
そうは言いつつも、額面通りに呆れているようには聞こえない。
両親の仲睦まじさを目の当たりにするのは別の意味でくすぐったかった。話題を変える為にも、俺は気になったことを尋ねてみる。
「ところでさ、母さん」
『なあに』
「誕生日プレゼントって、一体何をくれたんだ?」
すると母さんはふふふと笑った。
『正ちゃんがとっても喜びそうなものです。ヒントは夏』
「夏? 夏って言うと……」
脳裏に過ぎるのは夏らしいアイテムの数々だ。
ビール、そうめん、かき氷。そんなところだろうか。
「かき氷器とか?」
ヒントが夏と言われるとそのくらいしか浮かばない。
『ぶぶー』
母さんは年甲斐もなくそう言った。外れらしい。
じゃあ、と次の答えを告げる。
「違うのか。それなら、ビールサーバーとか」
『それも外れです。正ちゃん、そういうのが欲しかったの?』
「夏って言えばそういうのかと思っただけだよ」
『大ヒント。正ちゃんはこれを貰ったら、間違いなく大喜びするはずです』
俺が、大喜び?
駄目だ、わからない。素直に欲しいものを挙げるなら、そろそろ新しいのを買おうと思っていたフライパンとか、まな板とか、あるいは自分ではなかなか買い揃えようと思えない、マイナーな調味器具の類とか。
どれも夏っぽいとは言えような気がする。
「ごめん、わかんないよ。降参だ」
やがて俺は、素直に負けを認めた。
電話の向こうで得意げな笑い声が響き、母さんは意気揚々と答えを告げる。
『では正解の発表です。答えは――なんと、カボチャでした!』
「――は? か、かぼちゃ?」
野菜が来るとは思わなかった。
ぽかんとする俺に、母さんは続けて、
『夏と言えば夏野菜でしょう? カボチャは身体にいいのよ、カロチンも豊富だし、それにちゃんと保存すれば長く持つしね』
「いや、そういうことじゃなくてさ……」
誕生日プレゼントにカボチャ。
期待していたものと違って困惑した。いや、身体にいいのはその通りだけど。
『いっぱい送ったから、いっぱい食べてね』
「あの、母さん。カボチャってさあ」
『どしたの、正ちゃん。嬉しくなさそうね』
「嬉しくないわけじゃないけど……」
『なかなか美味しいカボチャよ。少し置いておくともっといいかもね。食費も浮くし、一石二鳥のプレゼントでしょう?』
そりゃあ、食材を貰えるのはありがたい。
食費が浮くのも事実だが、無性にがっくり来た俺は、どうやら誕生日プレゼントという言葉に踊らされていたようだ。
そして母さんは言う。
『ところで正ちゃん。今年のお誕生日もお祝いしてくれる彼女はいないの?』
とどめのように、ぐさっと来る言葉を口にする。
俺はぼそぼそ反論するのが精一杯だ。
「今年も、って言うのも止めてくれないかな」
『正ちゃんはお父さん似なのに、女の子にもてないのね。どうしてかしら』
放っておいて欲しい。
と言うか父さんもてるのか。あの無愛想さで? 初耳だ。
『お父さんはこんなにチャーミングな奥さんを捕まえてるのにねえ』
「自分で言うなよ、母さん……」
またがっくり来た。
やはり俺は、あらゆる意味で母さんに敵わないのかもしれない。
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