一年目(3)

 帰宅後、夕食を終えてから、俺は約束通り清水にメールを送った。

 豚肉のごま味噌焼きのレシピを携帯電話で打つ。

 調味料は練りごまの他、味噌とみりんと砂糖でご飯が進むコクのある味つけだ。味噌だれは焦げ易いので火力には気をつけること、しかし少し焦がした方が香ばしくて美味しいと思う旨も添えた。

 練りごまは手間もかかるし、こだわりがなければ市販のチューブでもいいと付記しておく。


 メールを打ちながら思う。

 俺はやはりこういうのが向いているのかもしれない。

 料理に関してだけは、自分で言うのも何だが覚えもいいし応用もできるし、手際もいい方だ。これが仕事となると記憶力は働かないわ応用は利かないわ、手際は悪いわで散々だった。それなら俺の適職は、総務課勤めのサラリーマンではなく、誰かの為に料理を作る仕事なのかもしれない――そこまで考えて、何言ってんだとかぶりを振った。

 父さんの店を継ぐ気はないと、あれほど言い張ったっていうのに。

 サラリーマンが向いてないかどうかだってまだわからない。まだ入社して一ヶ月だ、何が適職か考え出すには早い。もしかしたらこれから自分に合った業務とめぐり会えるかもしれない。

 でもその業務を教えてくれるのがあの人だからな。


 気分が沈みかけたところに携帯が鳴り、清水からの返信があった。

『レシピありがとう。早速、明日作ってみるね。それにしても、丁寧な書き方でびっくりしちゃった。播上くんって几帳面なんだね』

 実際に会って話すより、メールの文面の方が可愛げがある気がした。

 そういえば入社式で会った時も、清水って明るくて可愛い子だなと思っていた。

 そうじゃなければ大勢いる同期の一人なんて、いちいち覚えてもいなかっただろう。

 それがあんなに刺々しくなってしまうんだからもったいない。清水こそ五月病に罹った典型例なのかもしれない。


 とりあえず、返事を送る。

『それが仕事に反映出来ればいいんだけどな』

 ぼやくような言葉になった。

 次の返信は随分と素早かった。

『総務課のお仕事も大変そうだね。どんなことするの?』

 清水の問いに、俺はがりがりと頭を掻いた。

『いろいろ。備品の管理とか補充とか、勤怠状況のチェックとか』

 片手でメールを打ちながら、そっけない文面だなと自分で思う。

 女の子と料理の話以外でメールをする機会に乏しかった。大学時代も、飲み会の誘いだの休講の知らせだのには必要以上の返信をしたことがなかった。

 渋澤ならもっと気の利いた文面を思いつけるんだろうか。

 そんなことを考えて、送信する。


 一分も経たないうちに手の中で携帯電話が鳴動する。

『秘書課もおんなじ。いろいろあるよ。何て言うか接客業みたいなものだからね』

 接客業。わかるような気がする。

 秘書課が社外への接客なら、総務は社内におけるサービス業なのかもしれない。社内の環境をより勤務のし易い状態へと整える仕事、そう捉えるとわかりやすい。

『清水が秘書課って聞いた時は、いかにもそれっぽいと思ったけどな』

 返事を打つ。送信。

 次の受信までにはほんの少し間があった。

『まあねー。自分でもそう思ってた。でもやってみると案外大変だったんだよね。まだお客様の前に出てない、新人教育受けてる段階なんだけど』


 新人教育が大変だというのは実にその通りだ。

 もしかするとこれからしなくてはならないどんな業務よりも、新人のうちに受ける教育やら研修やらが最も大変なのかもしれない。

 まして教えを請う相手が人格者だとは限らないのだから困ったものだ。

 いや、この世に人格者なんてそうそういるものか。俺や清水だって教える側になったら、恨まれたり疎まれたりする先輩になっている可能性だってある。


『職場の人間関係って大事だよな』

 送信。

『そうそう、人間関係一つで天国と地獄の差がついちゃうよね。だから播上くんは総務でいいなーと思ってたんだ。でも聞く限り、そっちも大変っぽいね?』

 メールでは、清水はやたら饒舌だった。

 きっとこれが素なんだろう。

『大変と言えば大変。でも慣れるように頑張る』

 頑張るしかない、が本音だ。

 そういう本音を、もしかすると清水の方も察しているのかもしれない。

『だよね。お互い頑張ろうね。どうしても辛かったら総務に異動させてもらおっかな』

 社員食堂で見た笑顔が浮かぶような文面だった。

 俺はつられるように笑って、また返事を送る。

『新人が三人はさすがに多いだろ』

『大丈夫大丈夫、一人増えても大して変わらないよ。私だって同期の子の誰かと一緒にいたいもの』

 清水のその言葉に、そういえば疑問だったことを尋ねてみる。

『秘書課の新人は清水だけなのか?』

 送信、直後に受信。

『うん。だからもー孤立感ばりばり。針のむしろだよ』

 やっぱりそうだったのか。それは寂しいだろうな。

 もっとも、

『孤立感ならこっちだって変わらないよ』

『何言ってんの、播上くんには渋澤くんがいるでしょ。贅沢者め!』

 贅沢。

 そうなのかもしれない。あいつがいてくれていいこともたくさんある。俺一人だったらもっと矢面に立たされていたかもしれないし。

 でも、比較されるのだけはどうしても、へこむ。

『渋澤は出来がいいから何かと比較されるんだ』

『あ、そういう辛さがあるか。でも私が総務に行ったらそういうのも緩和されると思うよ。それにほら、一緒のお仕事なら勤務中に料理の話も出来るし』

 勤務中にするのはどうかと思う。ますます藤田さんがいきり立ちそうだ。


 それにしてもメールのトーンが変わってきた。

 俺も少しは役に立てたんだろうか。

 愚痴を聞くというほど突っ込んだ話はしなかったものの、清水が楽になっていたならいい。


 俺は清水に向かって尋ねる。

『元気になったか?』

 清水が答える。

『お蔭様で。いろいろありがとね。人に話したらすっとした』

 その返信にこっちも安心する。

『それはよかった。昼休みは明らかに様子がおかしかったから、心配したよ』

『心配してくれるなんて優しいね、播上くん。それもセサミン効果?』

『かもしれない』

『自分でも結構やばいなって感じてたんだよね。昨日、同期の子にご飯誘われた時も、行きたくないなって思っちゃったくらいだから』


 ぎくりとする。

 俺も弁当を口実にして断ってはいた。

 でも、本当は――。


『私だけ辛い思いしてるのかなって思い込んじゃってた。ごめんね、播上くんにも当たっちゃって』

『別にいいよ。ちっとも気にしてない』

 誰にでもあることだ。

 もしかすると俺も、こうして清水と話す機会がなければ、いつか誰かに当たっていたかもしれない。

『ありがと。じゃあまた明日ね。何かあったらまたメールしていい?』

『いいよ。夜なら大抵暇だから』

『わかった。またよろしくお願いしまーす』

 最後のメールは、親指を立てた絵文字で締められていた。

 何となく、清水らしいなと思う。

 らしさを把握できるほど親しい相手ではないのに、そう思った。多分、清水は本当はこういう子なんだろうって。


 メール画面を閉じると、携帯電話は電池が切れかけていた。慌てて充電コードを差し、それから俺は立ち上がる。

 明日の弁当の支度を始めよう。

 昨日作った練りごまが残っているから、ごま和えにでもするかな。


 次の日の昼休みは渋澤と二人だった。

 藤田さんは少し遅れてくるらしい。申し訳ないながらほっとしていたら、渋澤が周囲を窺いつつ切り出してきた。

「昨日は酷い目に遭ったよ」

 そう言われても、何のことかわからなかった。

 俺が瞬きをすると、奴は短く息をつく。

「播上が清水さんのところへ行った後。僕は藤田さんと二人だった」

「ああ……ええと、大変だったか?」

「ものすごく」

 渋澤は力強く頷いた。

 笑い出しそうになるのを慌てて堪える。

「でもほら、好かれてるんだからいいじゃないか」

 フォローにもならない言葉が口をついて出た。

 途端、渋澤には軽く睨まれてしまう。

「他人事だと思って」

「そう言うけど、俺なんてあの人には完璧に疎まれてるんだぞ」

「まだそっちの方がいいよ。やんわり断ってるのにしつこいのなんのって……」

 もてる男も大変らしい。俺には一生わからない悩みだ。

 弁当のごま和えをつつきつつ、語を継ぐ。

「でも、意外だな」

「何が?」

「渋澤はもてるから、そういう時のかわし方も習得してるもんだと思ってた」

 すると渋澤は顔を顰めた。

「仕事でお世話になってる人だし、こじれたら困るだろ」

 もてることについては否定も謙遜もしないんだな。まあいいか。


 しかし、これが男女逆ならセクハラだの何だので大問題になるだろうに、つくづく女は怖い生き物だ。顔のいい奴もいろいろ大変なんだなとこっそり思う。

 いや、大変じゃない新人なんていないか。


「ところで、播上」

 渋澤は物憂げな顔をふっと解き、探るような目を向けてきた。

「清水さんと仲がよかったなんて知らなかったよ。大学も違うよな、確か」

 興味ありげな様子に、俺は思わず苦笑した。

 勘繰られるようなことは何もない。彼女とは同期のよしみで話をして、メールのやり取りをして、レシピを教えただけだ。

「別に仲がいいわけじゃない」

 だから、軽い調子で答えようとした。

「こないだ、たまたま話しただけだ。彼女も料理が趣味らしくて――」

 だが俺の返答を遮るように、背後から声が掛けられた。

「――隣、座ってもいい?」

 その問いに答えるよりも、振り返るよりも先に、俺のすぐ隣に弁当袋が置かれた。

 ひよこ柄だった。

 すぐ隣の椅子を引き、そこにすとんと腰を下ろした清水は、俺と渋澤の顔を見比べて微笑む。

「ああ、邪魔しちゃった? どうぞ続けて、区切りのいいところまで待ってるから」


 渋澤が無言のまま俺を見る。

 口元は笑んでいたが、しきりにこちらへ目配せをしてくる。どういうことか説明しろと言いたいらしい。

 説明出来るならとっくにしている。昨日初めてメールのやり取りをしただけの相手で、同期だから愚痴を零し合うくらいは当たり前だ。でもすぐ隣に座られるのはさすがにびっくりした。


 清水はそんな俺と渋澤を見比べてから、渋澤に向かって断った。

「あ、口を挟んでも大丈夫? 私、播上くんに用があるんだけど」

「どうぞどうぞ遠慮なく。僕のことは気にしなくていい」

 渋澤は、戸惑う俺よりも素早く、勢い込んで答えた。

 なぜそんなに張り切っているのか。突っ込む暇もなく、隣の清水が言葉を継いだ。

「そう、よかった。あのね、昨日教えてもらったごま味噌焼き、作ってきたの」

 彼女の手が弁当箱の蓋を開く。


 今日は隠さずに見せてくれた。

 豚肉のごま味噌焼きをメインに、ブロッコリーやミニトマト、星型に抜いたチーズ、きゅうり入りのちくわなんかが並んでいる。

 いかにも女の子らしい、可愛らしい弁当だった。


「へえ、上手いんだな」

 まだ口の利けない俺をよそに、渋澤が感想を述べた。

「ありがとう」

 清水はにっこり笑い、それから俺を見る。満面の笑みがふと、勝気そうな、挑戦的なものに取って代わる。

「で、播上くんに、味を見てもらおうと思って」

「俺に?」

 ようやく声が出た。

 清水の奴、昨日一晩ですっかり人が変わったみたいだ――むしろ、これが素なのか。

「絶対美味しいと思う。自信あるもの」

 清水は胸を張ってみせた。

「だから、食べてくれるでしょ?」

 そこまで言われて拒めるはずがない。

 彼女からの挑戦状、いち料理好きとして受け取らないわけにはいかない。是非嘘のない、素直な感想を告げようと思う。


 弁当箱の蓋に、清水が豚肉を一切れ載せる。

 それを受け取り、俺は手を合わせる。見た目には申し分ない。果たして味の方はどうか。

 箸でつまみ、口の中に放り込んだ。途端に焦げた味噌の香ばしさと、ごまの風味がふっと広がる。味つけは俺が作るレシピよりも少々甘めだと感じた。

 思えば、自分じゃない誰かの手作り料理を食べるのも久し振りだ。


「……美味いよ」

 ちゃんと飲み込んでから告げた。

 その瞬間、清水が表情を輝かせる。

「本当?」

「ああ」

「播上くん、お世辞じゃないよね?」

「違うよ」

 俺はかぶりを振り、でもその後で言い添えた。

「まあ強いて言うなら、味噌の風味が若干飛んでいる気もしたな」

 あくまでも、強いて言うならというレベルではあるものの。

 たちまち清水が瞬きをする。

「え、そうだった?」

「ああ」

「他には? 何か気になることとかある?」

 彼女が食いついてきたので、俺は感じたことを続ける。

「砂糖が多いな。ちゃんとすり切りで量ったか?」

「あ、それはやってなかった……」

「それと、焼き加減ももう一歩だ。でも焦げるのを恐れる気持ちもわかる」

「うん、そうなんだよね。つい早めに火を止めちゃったかも」

「あともうちょっと、味噌だれがもう少し肉に絡むようにした方がよかったんじゃ――」

 言いかけた俺を、

「播上!」

 なぜか渋澤が険しい表情で遮った。

「お前な、せっかく作ってきてくれたのに厳しいこと言ってやるなよ!」

「な……何でだよ」

 横槍に一瞬詰まったが、俺はすぐさま反論する。

「俺の為に作ってきたわけじゃないし、そもそもお世辞なんて言ったら失礼だろ」


 料理に妥協はしたくない。

 それは俺だけの思いではなく、料理の好きな人間なら誰もが思うことだろう。清水も料理好きの一人、下手なお世辞は不要だろう。


 そこへ、微妙な空気を切り裂くように、深い深い溜息が聞こえた。

「なるほどね」

 いつの間に来ていたのか、藤田さんがテーブルの傍に立っていた。

 俺と渋澤がほぼ同時に身を震わせると、彼女はちらと目の端で見てきた。俺だけを。

「もてないはずだね、播上くん」

「うっ」

 先程以上に言葉に詰まる。

 しかし俺の隣にいた清水は、全く意に介さず笑ってみせた。

「私は気にしてないよ、播上くん」

 それから目を輝かせて宣言する。

「今回が駄目でも、また作ってくるから! いつか素直に美味しいって言わせてみせるからね」

「あ……ああ」

「だからまた食べてね、播上くん!」

 やはり彼女は生粋の料理好きらしい。力強い、頼もしい言葉だ。

 渋澤や藤田さんの視線は痛かったが、俺はその気持ちを受け止めようと思う。彼女と同じ、いち料理好きとして。

「いいよ、もちろん」

「ありがとう!」

 清水はまた笑う。

 明るい笑顔を惜しみなく振り撒くその朗らかさ、これこそが彼女の素みたいだ。

 こういう女の子と親しく話すのは慣れてない。俺がどう応じたものか迷っていると、彼女は思い出したように手を叩いた。

「あ、それとね。一つお願いがあるんだけど」

「どうした?」

「私、男の子を『くん』付けで呼ぶの慣れてないんだ。だから『播上』って呼んでいい?」

 何だ、そんなことか。そのくらいなら。

「いいよ」

 俺は頷く。

 つられるみたいに笑い返すと、清水も一層嬉しそうに笑んだ。

「ありがと。料理好き同士、これからもよろしくね」

 本当によく笑うな、清水。

 何だかこっちまでつられてしまう。


 一方、テーブルの脇に立ち尽くす藤田さんはぼそりと言った。

「ねえ、これ、どういうこと?」

 それに答えて渋澤も、

「わかりません。……説明してくれよ、播上」

 俺に説明を求めてきたが、どうとも答えようがなかった。

 どういうことと言われても、別におかしなことはないと思う。多分。

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