第97話 機密文書保管庫
「あの……。マリー様」
「なぁにぃ? ダーリン」
「いや……。……私の名は、ダレンです……」
「あらやだ。わたくし、間違えてしまっていたかしら? うふふふ」
少女の様に愛らしい笑みを浮かべ微笑むその表情とは裏腹に、ダレンの腕に絡ませたマリーの腕は、その細腕から想像も出来ない力強さだ。
僅かに身動ぎしようものなら、絶対に離してなるものか、という無言の圧がその腕を通して伝わってくる。豊満な胸をダレンの腕に押し付けながら、腕は蛇に締め上げられる様に、ますます強まるばかりだ。
「マリー! ダレンを愛人にするのは構わないが、ダーリンと呼ぶのは俺だけにしておいてくれよ? わははは!」
「あら、ヤキモチですの?」
「狭量な俺を、許してくれ!」
「んもぅ、ジルったら! うふふふ」
サリバン夫妻の笑い声だけが響き、異様な空気が漂う受付フロアー。
ダレンは、どうにか腕を離してもらえないか、鬱々とした気持ちを胸の奥に仕舞い込み、そっとマリーの顔を伺うように首を傾げ覗き込む。
自分のどんな表情にマリーが弱いかを分かっているダレンは、少し甘える様に微笑む。
「マリー様?」
そう、柔らかい声で言えば、マリーはほんのり頬を染め、その青緑色の瞳を真っ直ぐダレンへ向ける。
「その。腕を離してはいただけないでしょうか……?」
「あら? なぜ?」
「これでは歩きにくくなります。いざ何かあった時に、貴女様をお守りするにも、動きに遅れが出てしまいます」
「んもぉ! ダレンなら片腕が動かせないくらい、なんて事ないはずですわよ?」
甘えたような声で訊ねるマリーから視線を逸らし、ジル・サリバン辺境伯へと視線を向ければ、満足そうな笑みを浮かべ腕を組みダレンを見つめている。
その笑顔の奥の瞳は随分と鋭くも見えて、ダレンは頬を引き攣らせた。
すると、ジルはニヤリと笑みを深めダレンに言う。
「ダレン! お前の腕は、今、この世界で一番! 最っ高に幸せそうだな! どうだ! 気持ちが良かろう?」
「……は?」
「柔らかく暖かい! 夢心地な感覚にならんか! ダレン! その腕が感じ取っている柔らかで暖かな幸せを、今後も俺と分かち合おうじゃないか!」
「……へ?」
ジルの言葉に、ダレンが間抜けな返答をすると、すかさずディランが「サリバン辺境伯殿っ!」と棘のある声で、それ以上に何かを言おうとしたジルの言葉を制止した。
「ん? なんだ?」とでも言うような顔でディランを見遣るジルに、ディランは数歩寄って小声で「弟に変なことを言って誘おうとなさらないでくださいっ!」と言えば、ジルは「変なこととは?」と小首を傾げる。
「うふふふ。わたくしのために、言い争いをなさらないでくださいませ。マリーは、みんなのマリーですが、その頂点に立つのは、いつでも変わらずジル、貴方一人ですわ」
「ああ、マリー! 俺の可愛いマリー! 俺はマリーの幸せのためならば、何にでもなれるぞ!」
今にも駆け寄ろうと両手を広げたジルの腕を、「そんな事より!」と声を荒げつつディランが思い切り引っ張って制した。引っ張られたジルは、眉間に皺を寄せディランを軽く睨む。
「そんな事とはなんだ、ディラン。これは夫婦の大事な言葉のキャッチボールだ。邪魔をしてくれるな」
「私達は!!」
一瞬、大声を上げてしまったディランは、慌て声を落とす。マリーをチラりと見遣る。辺境伯夫人とはいえ、王族の前には変わりない。
しかしマリーは気にした様子もなくダレンの腕にしがみついて頬を寄せている。
ディランは咳払いを一つすると、ジルを見上げた。
「私達は、今すぐにでも! 保管庫へ行きたいのですが!?」
声量を落としつつも若干、怒気の含んだディランの声にジルは瞳を瞬かせ、ポンと手を打った。
「おお、そうだったな。すまん、すっかり忘れていた」
「……忘れないでくださいよ……」
ディランが額に青筋を浮かべながらも笑みを浮かべ、ジルに抗議をしたことで、どうにかやっと保管庫へと足を向けたマリーに、ダレンは憂鬱な溜息を喉の奥に閉じ込め、絡められた腕を諦めながら、それに続いた。
♢
機密文書保管庫は、王宮の地下にある。
保管庫専用の受付カウンターの後ろに衝立で隠された連絡通路があり、暫く歩いたその先に扉がひとつ。重厚感のある黒い扉は木製の様にも見えるが、機密文書保管庫の入り口だ。何からしらの仕掛けがされているのだろうか。ただの木の扉とは違うのだろうと、ダレンは初めて入る保管庫の扉を静かに観察し、一人思っていた。
マリーがダレンの腕を離し、鍵を選ぶ。彼女の手の中にある束ねられた鍵は、全部で二つ。そのうちの一つを、何の迷いもなく選び挿し込む。
扉は重々しい音を立てながら、ゆっくり開いた。
扉が開くと同時に空気が流れていく。
ダレンの横を通り過ぎる風圧は、ひんやりとした冷たさがある。等間隔に配置された壁にあるランプは、どういう仕組みなのか、人の気配に合わせて明かりがついた。
三人は黙ったまま暫く歩くと、螺旋階段が現れた。その手前に扉が一つあったが、マリーはそれを通り過ぎ、螺旋階段をひたすら降りて行く。すると、階段が終わり、円形のホールにたどり着いた。壁に豪華な装飾がされたその空間は、とても地下室とは思えないほど明るい。大理石の床をゆっくり歩けば、扉が一つ、目に入った。
その扉は一見、先程通り過ぎた扉と似ているが、何かが違う。ダレンは、その『何か』が何なのか分からず、自分の一瞬の記憶を辿りつつ真っ白な扉を見つめる。
マリーはドレスのウエスト部分に手を当てると、何処からともなく鍵を取り出した。
その鍵は、見るからに他の二つとは異なるものだ。先程、受付から渡された束ねられた鍵は、どちらも銅製のもので、とても良く似ていた。
だが、今マリーが手にしている鍵は、金色の装飾に乳白色の宝石が一つ埋まっている。
そして、その鍵の飾りに何やら呟き素早くキスをすると、自身の瞳の前に翳した。
飾りの石が僅かに青緑色に光った様に見えたが、マリーがすぐさま鍵を扉に挿し込んだため、ダレンからはよく見えなかった。
「さぁ、ここがダレンが来たがっていた【機密文書保管庫】よ」
そう言って、マリーは両開きの扉を開け放った。
扉の向こうには、真っ白な空間に真っ白な書棚が目に見えて六台。奥行きがかなりあるが、よく見えない。何故なら、その部屋のあまりの白さに、ダレンは眩しいとさえ感じ、しっかりと見ることが出来なかったからだった。
地下室にしては湿気臭くもなく、空気の悪さも感じない。
何もかもが白で統一された空間をダレンは唖然とした面持ちで、目を細める。白の眩しさに若干慣れてきた瞳で、ゆっくり左右を見回す。
その後ろから、ディランの戸惑う声が聞こえてきた。
「あの、マリー様……。恐れ入りますが、ここはいったい……。私は以前、数回ほど保管へ入った事がございます。しかし……入ってきた扉は同じですが……。ここは、私が知る【機密文書保管庫】とは、様子が違う様に思うのですが……」
その言葉に、ダレンは僅かに驚いた表情でディランを振り向く。ディランは戸惑いを露わにし、マリーを見つめていた。
マリーはどこか楽しげに「うふふ」と笑うと、悪戯をする子供の様な瞳で二人を見上げた。
「ここは、王族のみが入れる王族専用の保管庫。つまり、本当の【機密文書保管庫】ですわ」
そういうと、妖艶な笑みを浮かべた。が、堪え切れず、悪戯成功と言わんばかりに、少女の様に楽しげな声で笑った。
そのころころと変わる笑顔を、ダレンとディランは呆然と見つめたのだった。
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