第96話 救世主?③
一斉に視線を向けられたマリーの夫、ジル・サリバン辺境伯は、余裕のある笑みを湛えたまま歩みを進めた。
精悍な男らしい顔の左頬には、大きな傷がある。
戦いを繰り返し、国を守り抜いた証と言わんばかりに、傷を隠すこと無く誇らしげに堂々としている。
少し長めの焦茶色の髪を無造作に後ろへ流し、鋭い榛色の眼光が、見る者を直立不動にさせる。
熊の様な逞しい身体つきはローブ越しでもわかる程だ。その姿から一見厳つく見えるが、よく見れば男らしい整った顔立ちである。が、ジルについて特筆すべき事はそれらではない。
ジルの戦闘能力はさることながら、統率力においては王国随一と言っていい程ずば抜けており、騎士達からの支持は断トツだ。裏では【男が惚れる男】とまで言われている。
そんな大男が、ゆったりとした足取りでマリーに近寄ると、その肩を抱き、男相手には絶対に見せることのない甘やかな表情で額にキスを落とした。
「俺はマリーがダレンに抱きつこうがキスしようが、戯れている仔犬の様に愛らしく見えている。そんなマリーも含めて愛してやまない。何故なら、それを含めてマリーだからな」
「うふふ。ジルのそういう所が、わたくしの心を掴んで離さないのですわ。ダレンへの気持ちは昔のそれとは全く異なる物になったのは、ジルが【ありのままのわたくし】に惜しみなく愛情を注いでくれるからですわ。ダレンへの今の気持ちは謂わば、舞台役者への憧れと同じこと。わたくしの真実の愛は、貴方にのみ向けられておりますわ」
「ああ、愛しいマリー。そんな事は、とっくの昔にお見通しさ。だが、そうは言っても、あわよくばダレンを愛人にしたいと思っていることを、俺は知っているぞ? はははは!」
「まぁ! バレてましたの? うふふ」
「当然さ! はははは!」
「んもぅ! うふふふ」
どこか演技がかった無秩序な会話を繰り広げながらも頬を突いたりキスをしたりと二人の世界へ入り込む二人。そこへディランが咳払いをし、若干呆れた声で話し掛けた。
「あぁーー……ゴホン。失礼します。サリバン辺境伯殿」
その声に、マリーとイチャついていたジルが、ハッと気が付いたように顔を上げ、マリーに見せる甘い笑みとは違う喜びの笑みを浮かべた。
「おお! ディラン! 俺はお前に会いたくて来たのだ!!」
ディランに向かって歩み寄り、その太い腕を伸ばせば、ディランはどこか硬い表情のまま直立不動でジルの抱擁を受け入れる。
バシバシと背中を叩かれている音は重みがあり、僅かに漏れ聞こえる呻き声。
「ッゔぐ……。サリバン辺境伯、殿……あ、ありがとう、ございます……」
「いつになったらお前は
「いや、それは……。また、後日ゆっくりと……」
ジルは抱擁をやめ、ディランの顔を覗きこむと、今度は肩に腕を回し耳元で囁く。
「ダレンがマリーの愛人になれば、お前も共に要塞へ来るであろう事は分かってるぞ? どうだ? どうにか二人でダレンの説得をしてだなぁ……」
「説得なんてしませんよ!」
何を言い出すのかと言わんばかり、ディランは被せ気味に声を上げる。
「だいたい、マリー様に愛人をなどと! 貴方はそれで宜しいのですか!?」
「なに。俺はマリーの幸せを一番に願っている。ダレンがマリーの愛人になればマリーは幸せ。俺はお前が来る事で最高に幸せだ! なんなら、閨でダレンと俺二人でマリーの体を隅々まで愛するのもありだと……」
「あああああーーー!!! サリバン辺境伯殿っ! 今は、急ぎの用があります故!!」
ディランが声を張りジルの言葉に被せる様に言えば、ジルは「ああ、そうであったな!」と、言いながら大きな声で笑った。
「全く! 何を言い出すんだ! この変態はっ!」
と、ディランが不敬にもあたる悪態を吐いたが、ジルの笑い声で掻き消された。
その様子を、ダレンが心底うんざりした気持ちで遠い目をして眺めていると、マリーが受付カウンターに立つ男を真っ直ぐに見つめ、口を開いた。
「ラジネス、貴方がいう必携とは、いつの時代のものかしら?」
マリーの問いに、ラジネスは受付カウンター内から慌てて本を取り出し、カウンターの上に乗せる。
「こ、こちらでございます……」
差し出された古めかしい本を見て、マリーはわざとらしくため息を吐く。
「この国が出来て以来、この必携は見直しをなされていないという事かしら?」
「じゅ、重要書類につきましては、代々引き継がれており……」
「時代は常に変わりゆくもの。その時代に合わせ法が変わる様に、この保管庫についてもそろそろ見直しが必要なのでは無いかしら?」
「しかし……!」
マリーはカウンターに前のめりになりラジネスに近寄ると、小声で言う。
「本当に重要な書類は、この瞳が無ければ無意味なこと。その事は、ここを守る貴方がよく知っているはずですわよ?」
意味深にマリーが自分の瞳を指差せば、ラジネスは慌てた様にマリーの仕草を止めるような身振りをし、視線を激しく動かす。
それを見ていたダレンはひとり、スッと目を細めた。
(瞳に、何かあるというのか?)
「そ、それは……!……はい」
ラジネスの慌てた様子を気にする事なくマリーは姿勢を戻すと、よく響く凛とした声を発した。
「ラジネスの仕事振りは、わたくしもよく知っております。貴方を批判しているわけでは無いのですよ。ただ、入室についての規制は、その家の血が流れた者であれば良しとするべきでは?」
その言葉に、ラジネスは顔を歪め俯く。すると、横からジルが声を掛けた。
「マリー、この男の言い分の通りとなれば、俺も入室は出来ない事になる。俺は今、マリーの護衛としてここに居る。そして、この国が建国された当初となれば、まだ辺境伯という立場は無かった。となれば、その必携には辺境伯が入っても良いとは書かれていないだろう。そこの男。ラジ……ナンタラと言ったな。辺境伯は、現在では侯爵と並ぶ立場。マリーは現在、辺境伯夫人であり王女では無いが王族の人間。護衛は常に共にしなければならない。俺が入いれず万一、マリーに何かあった場合、お前はその命と引き換えに責任を取れるのか?」
先程までとは違う低く太い声は、聞く者の身体の内側に響く。
ラジネスは目に見えてカタカタと震え、眼鏡の奥の瞳が見開かれている。口周りにシワが寄るほど唇をギュッと閉じ、細かく荒い鼻息が、彼の緊張のピークを示している。
ラジネスの口が僅かに開きかけると同時に、マリーが「そうだわ!」と、パンと手を叩く。
「ジル? わたくしに良い考えがありましてよ?」
ニッコリと笑みを浮かべ、大きな青緑色の瞳を輝かせているが、その目は笑ってはいない。
「どんな考えかな?」
ジルはマリーの腰に腕を回しつつ先を促す。
「必携通りでいえば、確かにジルは入室出来ませんわ。だけど、わたくしには護衛が必要なのも確か。今ここに入室出来る人間で、護衛も出来る人物……」
マリーはディランとダレンを交互に見た。
「ラジネス」
「は、はい!」
「わたくし、今から調べ物をする為に保管庫へ入室したいのだけど、入ってもよろしくて?」
「そ、それはもちろんでございます!」
「ならば、ダレンも良いですわよね? 彼に侯爵家の血が流れていることは、貴方もよく分かっていますわよね?」
「は、……はい……」
渋々という様子で頷くラジナスに、マリーはニヤリと笑った。
「今からダレン・オスカー及びディラン・マイルズは、わたくしの護衛として共に入室してもらいます。よろしいですわね? ラジネス」
「……はい。かしこまりました……」
マリーの宣言に、ラジネスは情け無い表情で機密文書保管庫の鍵を手渡したのであった。
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