佐藤さんの通話記録

『いきなり、ごめん』

 電話の向こうで佐藤さんは、押し殺したような、張り詰めたような声を立てた。

 吐息が受話口に触れるのが聞こえ、僕も自然と居住まいを正す。

『どうしても山口くんに聞いてもらいたいことがあって……電話したくなっちゃったの。夜遅くなのに、ごめんね』

「いや、いいよ」

 僕は彼女から見えないのをいいことに、少し笑って、頷いた。

「別に遅くないから。いつも日付替わるくらいまで起きてるしさ」

『うん……。ありがとう』

 佐藤さんも少しだけ笑ったようだ。そんなふうに聞こえた。


 その後でしばし黙り込む。

 電話の向こう側は静まり返っていた。佐藤さんのいる気配以外には何もないみたいに静かだ。時々、溜息をついたらしい微かな音が響き、彼女が何かをためらっているのがわかる。

 焦らされているようで、正直に言えば僕の方も苦しかった。

 だけどただひたすら待っていた。佐藤さんを急かすような真似はしたくなかった。


 どのくらい、待っていただろう。

『……あの』

 佐藤さんが息を吸い込み、ようやく切り出した。

『あのね、山口くん』

「うん」

『聞いて欲しいんだけど』

「聞いてるよ」

『私ね……私、あの人に告白したの』

 佐藤さんは言い、

「――そうか」

 僕は、息を呑んだのを悟られないように相槌を打つ。

『それで……』

「それで?」

『あの人も私のこと、好き、だって。言ってもらった』

「そう、なんだ」

 勉強机の椅子が軋んだ。

 すっと首筋が寒くなる感覚を覚え、僕は天井を仰いだ。

 祝福の言葉が出てこない。この場では当然言うべき台詞なのに。

『私が好きなんだって、あの人に言ってもらえたの……』

 噛み締めるような彼女の声が聞こえてくる。

 電話の向こうは、とても遠かった。

 冷静に。僕はそのフレーズを繰り返しながら、やっとの思いで口を開く。

「おめでとう」

 そう告げると、佐藤さんは少し笑った。

『ありがとう……。でも、ね』

「何?」

『まだ、どうなるかわからないから』

 か細い言葉が続いて、怪訝に思う。

『私ね、聞いたの。あの人に。……私のこと、顔も知らなくて、会ったこともないのに、それでも好きって言ってくれるの、って。そしたら』

 苦しげに息が継がれた。

『そしたら、会ったことなくても好きだけど、私の顔を見ても、どんな顔をしていたって好きでいられる自信があるから……会いに行くから、ちゃんと会おうって、言われて』

「うん」

『偶然、こっちに来る用事があるんだって』

 思いを巡らせるようにゆっくりと話される。

『何かいろいろ、言ってくれたの。顔は気にしないとか、どんな私でも好きになってくれるとか、こないだは時間がなくて会えなかったけど、今度こそは必ず会いに行くから待っていて欲しいって』

 佐藤さんはそこまで言って、また溜息をついた。

『でも私、怖くて。やっぱり会ったら、嫌われるんじゃないかってそんな気がして……』

 僕は押し黙った。何とも言えなかった。


 嫌な予感がした。佐藤さんがもらった甘い言葉を、僕は鵜呑みにする気になれなかった。

 偶然、こっちに来る用事がある――タイミングが良すぎるようにも思えた。北海道からこの町までは、会いに来ようと思って来られる距離じゃない。もちろんそれだけで怪しむのはおかしいだろうけど、まるで見計らったようじゃないか。

 僕は冷静に判断しているつもりだ。だけど正直、自信はない。嫉妬心が猜疑を駆り立てているだけかもしれない。佐藤さんは騙されているんだと思い込みたいだけなのかもしれない。


 佐藤さんの声にも不安の色が見え隠れしている。

『私は、平気なの。あの人がどんな顔してても、どんな姿でも、気持ちが変わらないって自信があるんだ。でも、向こうは……』

「不安なんだ?」

 はっきり尋ねると、彼女は吐息と共に答える。

『うん……だって、向こうから来てもらうから、それだけの面倒なことをしてもらっておいて、がっかりさせたくないなって』

「それは、その人が来るっていうのはいつの話?」

『今週の土曜日だって。用事のついでに来てくれるって言うんだけど、もう日がないから、迷ってる暇もないし』

「土曜日か」

『うん。会いたくないわけじゃないけど、覚悟もしてるけど、……やっぱり怖いんだ』

 佐藤さんはそう漏らした後で、申し訳なさそうに言い添えた。

『だから山口くんと話したくなったの。山口くんなら、私よりも冷静に、いろんなこと考えられるんだろうなって思って。相談してみたいなって思って……でも、ごめんね。相談っていうより、何だかうじうじしてるだけだね』

 彼女が言った通り、この打ち明け話は相談じゃなかった。


 既に答えは出ているんだろう。

 好きな人に会おうと言われて、会いに行かないような彼女じゃない。佐藤さんは純真で、女の子らしい一途さで、あの人に一目会いたいと思っているはずだった。

 佐藤さんの不安が杞憂なのかどうか、僕にはやっぱりわからない。言われるほど冷静でもない。今も必死に抑え込んでいる感情がある。既に気持ちの決まっている彼女に、往生際悪く想いを伝えたい衝動に駆られている。携帯を握る手が震えて、嫌な気分だった。

 僕の不安も杞憂だといい。僕自身は全くそうは思わないけど、佐藤さんの恋が上手くいけばいいだなんてちっとも考えられないけど、それで佐藤さんが幸せになれるなら、彼女の不安が解消される方がいいはずだ。今はそう思わなければいけなかった。


 ただ、揺れる気持ちが口を開かせた。

「佐藤さん。土曜日の約束って、どこで何時に会うの?」

『えっ? 空港で、五時過ぎの約束だけど……どうして?』

 彼女は幼い純真さで答えると、僕に聞き返してくる。

 無用心さと紙一重の素直な性格に危なっかしさを覚えた。僕が邪魔をしに行くつもりだったらどうする気なんだろう。実際、そうしないとも限らないのに。

「その日、空けておくから。何かあったら連絡して」

 僕は、誠実な人間を装って告げる。

「何もないのが一番いいけど。もちろん、そうだけど。もし何かあったら僕が飛んで行くから、連絡してくれ」

『山口くん……』

 電話の向こうで啜り上げるような音が何度か聞こえた。その後で、佐藤さんは言った。

『ありがとう。山口くんまで不安がらせてごめんね』

「大丈夫」

 僕が笑ったのを、佐藤さんはいい意味に捉えたようだ。

『本当にありがとう』

 感謝の言葉を、僕に何度も繰り返してきた。


 土曜日までは本当に日がない。僕は頭を冷やす時間すら貰えなかった。

 決断しなくてはいけない。

 佐藤さんの一途な想いを知っている僕は、僕自身の気持ちを、どうすればいいんだろう。

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