佐藤さんが好きな人

 僕は思わず、まじまじと佐藤さんを見た。

 僕の方を強い視線で見上げている佐藤さんは、真剣で、それでいてなぜか気まずげな顔つきをしていた。こちらの反応を待っているようで、何かに迷っているようにも見えた。唇はぎゅっと結ばれたまましばらく開きそうにない。

 かと言って、僕はすぐには答えられなかった。

 佐藤さんにそんなことを聞かれるとは思ってもみなかったからだ。


 ベンチに隣り合って座る距離は近い。

 視線を交わしていながらも、僕は今、逃げ出したい気分に駆られていた。

 かっと顔全体が熱くなって、冷静に考える力を失ってしまった。そう言えば大浴場のお湯はやや熱かった。多分そのせいだと思うけど、急に暑くなってきた。そして佐藤さんの頬も真っ赤に上気している。

 ロビーの静けさの中で、自販機のモーター音が耳鳴りのように響いた。


 まだ冷たいスポーツドリンクを一口飲む。

 それから素早く頭を巡らせた。冷静に、冷静に考えると――特別奇妙な問いでもないように思えてきた。いかにも女の子が好きそうな質問じゃないか。佐藤さんは普通の女の子だ。

 たくさん話をしてきたけど、その中で一度も口にされなかった話題だったってだけで。

 クラスの、他の女の子にだって何回も聞かれたことがある。大体そういうのはうっかり漏らすと光のスピードで知れ渡ってしまうから、正直に明かしたことなんてないけど。

 そもそも今のところ、僕には好きな子がいなかった。ちょっと可愛いなと思う子や、話していて楽しいなと思う子や、メールのやり取りをする程度の子は何人かいたけどそれだけだ。恋愛感情を持つには程遠かったし、ついでに言うと誰かに、そんなふうに好かれたこともなかった。

 僕はごく普通の、標準的な高校生だった。

 別に、彼女がいなくても別に不自由しないしな、と思っているような。


 だから、正直に答えた。

「いないよ」

 たったそれだけを口にするのに、結構な時間がかかってしまった。

 今までじっと目を瞠っていた佐藤さんは、僕の答えを聞くと、深く息を吐きながら、

「そうなんだ」

 と言った。

 それから、ぎこちなく表情を和らげる。

「たまに、聞かれるんだけどな。山口くんって、好きな人いないのかな、とか」

「だ、誰に?」

 思わずどもりながら尋ねると、佐藤さんは慌てたようにかぶりを振る。

「あ、うん、いろんな子に……。秘密にしといてって言われてるの。だから秘密」

「へえ……」

「ほら、私、山口くんと隣の席で、よく話してるから。そういうことも知ってるのかって思われてたみたい」

 知らないところで妙な噂でも立てられてるんだろうか。ちょっと恐ろしい。

 僕は口を噤み、代わりに佐藤さんが語を継いだ。

「そっか、いないんだ。好きな人」

 オレンジジュースがストローの中を上って行く。

 その後で彼女は僕を見て、小首を傾げた。

「山口くんに好きな人がいたら、どんな人なのかなって思ってたんだ」

「どんなって、別に」

 どんな人だと思われてるんだろう、逆に。

 僕は違和感を抱きながら、何でもないような口調で聞き返した。

「佐藤さんはいるの? 好きな人」

 世間話の延長線上にある質問だ。あくまでも。

 そんなに興味はないけど――興味が、ないわけでもないけど。ただ、その、佐藤さんが話したがらないなら無理には聞かない。話す気があるなら、聞いてみてもいいかな、くらいのレベル。

 佐藤さんは、俯いた。

「うん」

 微かな声だった。だけどロビーが静かなせいでよく聞こえた。

 僕はぎくしゃくと視線を動かし、俯く彼女の肩を見下ろす。

 Tシャツの袖から伸びる腕は白い。蛍光灯の明かりの下で、青白くさえ映る。髪の結び目が乗った首筋も、同じように。

「そう、なんだ」

 僕の声は対照的に、妙にはきはきとしていた。

 佐藤さんの頬は白い。さっきまでの赤みが消え失せている。俯いていて表情は見えない。ジュースのパックを握る手は膝の上からぴくりとも動かず、彼女自身もほとんど身動ぎしなかった。

「うん」

 もう一度言って、佐藤さんはゆっくりと視線を上げる。

 こちらを向く。

 真剣なのに、真面目な顔をしているのに、どこか気まずげで不安げな面差しがそこにあった。

「山口くん、あのね、私――」

 覚束ない口調で彼女は、

「好きな人、いるんだ。でもね」

 慎重に話し始めた。

「でも、私。そのこと、誰にも話したことなかったの」

「うん……」

「でも、山口くんなら、山口くんには話しておきたいと思って」


 逃げ出したい気分が蘇った。

 聞いてみてもいいかなと思っていたくせに、僕は、佐藤さんの言葉を止めたくなった。或いはこの場から飛び出していきたくなった。

 佐藤さんの気持ちなんてちっともわからないけど、知っているような気がした。

 佐藤さんが、好きだと思っている人が誰か。

 いろんなことがあった。例えば、あの保健室の出来事。佐藤さんの呟き。或いは悩んでいるという彼女の友人の話。それから、北海道について人から聞いた話。

 それから、彼女が一日中じっくりと考えてからメールを送るっていう、その相手。


「もしかしたら」

 佐藤さんは話の続きをためらっている。

「山口くんは変に思うかもしれないけど、そう思ったとしても、聞いてくれたら嬉しい……」

 そう言われてしまうと、聞かないわけにはいかない。佐藤さんのこれから話すことを聞きたくはなかったけど、もう逃げられなくなっていた。

 だからせめて彼女の声に集中していられるよう、目を伏せた。

 隣の佐藤さんが言う。

「私ね、好きな人、いるの。その人はすごく優しい人で、私の話をちゃんと聞いてくれて、いろいろなことを教えてくれたの。遠くに住んでいるから電話も滅多にできなくて、文字でやり取りしてるだけだったけど、でもその人は本当に優しいの。私の知らないことをたくさん知ってて、いつも楽しく話せて。私が何か失敗しても笑い飛ばしてくれるような人だった」


 やっぱりだ、と僕は思った。

 佐藤さんの好きな人は思った通り、僕の知らない相手だったようだ。


「さっき電話した時もちょっとだけだったけど話せて、よかった。北海道に来たから会えるかなって思ったけど、それは、無理みたいだったけど……」

 そう言った後で佐藤さんは、少し黙った。

 次に口を開いた時、声のトーンが落ちていた。

「でも、でもね」

 それは、何の為の躊躇だったんだろう。

「私……」

 目を閉じたままで僕は彼女の言葉の続きを待つ。息苦しい思いで待っている。

「まだ、その人に会ったこと、ないの」

 息をつきながら佐藤さんは言い、

「ネットで知り合った人だから、私……その人の顔も知らないの」

 と、続けた。


 僕は目を開け、思わず顔も上げた。

 勢いづいた動作に驚いたのか、隣で佐藤さんが怯えた表情を見せる。

 すぐに彼女は僕から目を逸らし、尚も話し続けた。

「あの、ね。一度だけ会おうって約束したこと、あったの。こっちに……私達の街に来る用事があるから、会おうって言ってくれて。ゴールデンウィークのことだったんだけど、でも」

 保健室での記憶が過ぎる。あの時の言葉は、そういうことだったんだろう。

「結局、会えなくて……。だからまだ、顔も知らない人なの」

 佐藤さんは不安げに僕を見ている。彼女の恋心を僕がどう評するか、案じているのかもしれない。


 僕は、意外にも冷静だった。

 佐藤さんが望んでいる言葉を知っていた。何と言えば彼女が喜ぶか、喜びはしないまでもほっと胸を撫で下ろせるかを知っていた。わかっていた。

 でも、その言葉を言う気にはなれなかった。

 冷静なはずの心を駆り立てたのは猜疑心だった。佐藤さんが不安を抱く理由も多分、わかる。

 僕もそう思うからこそ、気がつけば口を開いていた。


「僕は、そういうのは……」

 佐藤さんの表情がたちまち曇る。

「やっぱり、そうだよね」

「うん、いや、だめだってわけじゃないけど」

 だめじゃない。そんな恋愛もあるものなのかもしれない。でも僕には理解できないってだけだ。

「顔を見ないうちから人を好きになるってこと、あるものなのかな」

「え、でも、顔だけで好きになるわけでもないし……」

 ぼそぼそと低い声で佐藤さんが反論してくる。


 言い返されるとむっとした。どうやら僕の意見を聞く気はないらしい。

 佐藤さんの心はもう決まっていて、そこに他の人間が入る余地なんてないようだ。


「そりゃそうだけど。でも顔を見て話さないで、相手のこと信じられるの?」

 鋭く切り返すのは得意だった。僕はすぐに尋ねた。

 佐藤さんは答えない。

 俯く横顔に、更に告げる。

「ネットの繋がりが信用できないっこともないだろうけど、顔も知らない相手を好きになるなんて、僕にはやっぱり考えられないな。どんな相手かなんて、まだわからないじゃないか」

「うん、でも」

 迷いの色が浮かんでいる。

 佐藤さんは、不安なんだろうか。多少なりとも不安があるんだったら、どうしてそんな奴のこと信用しようとするんだろう。

「でも、私――」

 不意に、佐藤さんが立ち上がった。

 そのまま二歩、前に踏み出して、僕に背中を向けたままで言う。

「山口くんの言うことも、わかるの。でも」

 声は震えていた。

「だけど……ごめんなさい、私、誰にも迷惑かけてない」

「……佐藤さん」

 僕が名前を呼ぶと、乾きかけた一つ結びの髪が大きく揺れた。

 次の瞬間、佐藤さんはロビーから駆け出していった。

 後に残されたのは僕と、飲みかけのスポーツドリンクのパック、それと自販機の低いモーター音だけだった。


 部屋に戻った僕は、佐藤さんにあげたジュースのことをすっかり忘れていて、同じ部屋の連中から散々に責められた。

 だけど僕は謝りながら笑っていた。笑うしかなかった。

 そうしないと、強い後悔の念が口をついて出てしまいそうだった。


 佐藤さんを、僕は傷つけてしまった。

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