佐藤さんが受け取ったジュース
一日目の夜、僕はホテルのロビーでジュースを買い込んでいた。
人気のない夜のロビーには自販機だけが動いている。僕がボタンを押す度に紙パックの落ちてくる音が響き、とても空しい気持ちになった。
むかつくことに外で買うより割高だった。これを人数分だなんて全くやってられない。自販機め、いい商売をするなと僕は奥歯を噛み締めた。
六つの紙パックを抱え、自販機からお釣りをもらう。
そして身を起こした時、こちらに一人で歩いてくる人影を見つけた。
Tシャツに見覚えのあるジャージ姿で、うちの学校の生徒だとわかる。でもそれ以前に、もたもたした歩き格好だけで誰だかわかってしまうから奇妙だ。湯上がりなのか、髪がしっとりと濡れ、頬が上気しているように見えた。
夕食の時間以来クラスの女子生徒には会ってなかったから、湯上がり姿とも相まって少しばかり戸惑う。佐藤さんが相手ならそんな必要もないはずなんだけど。
彼女はいつものようにぼんやりしながら廊下を歩いてきた。
ロビーに足を踏み入れたところで、ようやく僕に気づき、あ、と口を開ける。
「山口くん」
それから驚いた様子で、僕の抱えた紙パックを凝視した。
「どうしたの、そんなにたくさん……」
「ポーカーで負けたんだ」
僕は正直に語った。
ここに他の人の姿はなかったけど、万が一先生に聞きつけられたら面倒だ。ちょっとだけ小声で言い添える。
「同じ部屋の連中とやったんだけど、僕ひとりでぼろ負けだった。お蔭で皆の分のジュースを買わされる羽目になってさ」
そう話すと、佐藤さんは気遣わしげな表情になった。
「大変だね」
「いや、別に。結果的に僕も乗せられた勝負だから」
「山口くんって、笹木くん達と一緒の部屋だよね?」
「うん。外崎と新嶋がやる気満々でさ。すっかり乗せられちゃったんだ」
首を竦めるとジュースを落っことしそうになる。だから僕は苦笑いだけしておいた。
「おまけに消灯したら枕投げするって言ってるし。はしゃぎすぎだよ、あいつら」
「お約束のコースだね」
佐藤さんも少し笑う。
一つ結びの髪は水分を吸って、いつもよりも重たそうに見えた。そのせいではないと思うけど、佐藤さんの表情も心なしか重い。普段の明るさは影を潜めている。
「佐藤さんは? どうしたの、ひとりで」
僕は彼女に尋ねた。
途端に伏し目がちになった佐藤さんが、困ったような表情を浮かべる。
「うん……」
何かあったんだろうか、言いにくそうにしているように見えた。
昼間、子供みたいにはしゃいでた様子とはまるで違っていて、やけに気にかかる。
たっぷりためらった後、彼女は言った。
「電話、してきたの」
「電話?」
聞き返してから、僕は修学旅行前の会話を思い出す。
そう言えば佐藤さんは決まりを遵守する気でいたんだっけ。なら携帯電話は持ってこなかったんだろう。向こうの廊下の奥には公衆電話がいくつか並んでいて、家族に連絡する場合はそれを使うようにと引率の先生が説明していた。
「そうなんだ」
無難な相槌を打っておく。
佐藤さんがどうして浮かない顔をしているのか、まるでわからない。電話がどうしたっていうんだろう。例の友達のこと、だろうか。
前みたいに話くらいなら聞いてあげてもいいけど。まだ、消灯前だし。
「うん、あの……」
尚も言いにくそうにためらう彼女に、僕はしょうがなく尋ねた。
「何かあったの?」
するとたちまち佐藤さんの目が、気まずげに泳ぐ。
「えっと。何かっていうか……」
「話聞くくらいならできるよ。時間あるしさ」
僕が言うと、彼女の顔に決意じみた表情が閃いた。
きゅっと眉を寄せてから、再び気遣わしげに唇を動かす。
「でも、いいの? ジュース、温くなっちゃうんじゃない?」
「むしろ温くしてやりたいんだ」
僕は悪巧みの気分で打ち明けた。
「いくら負けたとは言え、このまま冷えた奴を連中に渡すなんて、さすがにちょっと癪だからさ」
「そっか」
やっとのことで笑った佐藤さんが、そのままの顔で僕に言う。
「じゃあ、あの、ちょっと聞いてくれるかな」
ロビーの隅にあったベンチに並んで腰かけた。
消灯前のロビーはほとんど人が通らない。ホテルのぼったくり自販機を利用しようとする奴の方が珍しいだろう。
「よかったら飲む?」
抱えていた紙パックをベンチに置き、そのうち一つを佐藤さんに差し出した。一番彼女っぽい、無難なオレンジジュースだ。
佐藤さんは上気した頬でかぶりを振った。
「そんな、いいよ。山口くん、たくさん買って大変そうだし……」
「一本くらい増えたって大して変わらないよ」
そう言って僕は尚も薦めた。
せっかくだから自分でも飲むつもりでいた。冷たいうちに。
「佐藤さんには昼間、飴も貰ったしさ。そのお返し」
「でもそれとは値段が……」
「いいから。冷たいもの飲めば気分変わるよ」
するとようやく、佐藤さんが僕から紙パックを受け取った。
「ありがとう」
お礼だけははっきりと言うと、不器用な手つきでストローの袋を開け始める。
その様子を横目で見てから、僕も自分のストローを開けた。
僕はスポーツドリンクを選んでいた。ポーカーで冷や汗かいたからってわけじゃないけど、今の気分はこれだった。紙パックじゃ炭酸はないし、コーヒーも馬鹿みたいに甘いやつしかないからだ。
ふと、隣で溜息が零れる。
「山口くんって、すごいね」
「え?」
怪訝に思い、僕は隣を見た。
ベンチに座る佐藤さんの一つ結びの髪は洗いたてみたいに水気を含み、彼女の背に重そうに垂れ下がっている。
学校指定のTシャツから覗く首筋の白さにどきっとする。その上にあるのは、見慣れているようで見慣れない、赤らんだ頬の佐藤さんの横顔、浮かない表情だった。
「何か……何でもさらっとできるんだなあって思って」
「何が?」
「いろんなこと。山口くんって、私にないものたくさん持ってて、私のできないようなことでも何でもできるもん。そういうのって羨ましい」
心底羨ましげにぼやき、佐藤さんが肩を落とす。
言われた方はぴんと来なくて、困惑させられているけど。
「そうかな。そんなこと、思ったこともないよ」
そりゃまあ、佐藤さんに比べたらちょっとは器用だ。あのクラスの中では成績も悪くない方だと知っている。
ただし、あくまでも狭い世界での比較だ。
僕には特別に秀でた何かがあるわけでもなく、特別優秀な人間でもなかった。得意のバスケはやめてからかなり経つし、今のところやりたいことや未来の目標も特にない。僕みたいな奴をごく普通の高校生と言うんじゃないだろうか。
でも、佐藤さんだってそうだ。
ごく普通の、高校生の、女の子だ。
「私は山口くんみたいにさらっとなんてできないから、いつも失敗ばかりしてて……」
ストローを挿した紙パックに視線を落とす佐藤さんは、地味でとろくて気も利かないけど、普通の女の子じゃないかと思う。
「別世界の人みたいって、ずっと思ってた」
佐藤さんの声は、ぼそりと低く聞こえた。
むしろ誉め言葉だったのかもしれないけど、自嘲的な響きをしていた。当然あまりいい気分にはならない。
僕は首を傾げる。
「別に普通だと思うけどな」
「じゃあ、私が普通じゃないのかな」
溜息と一緒に言った佐藤さんは、僕に口を挟む隙を与えずに言葉を継いだ。
「ね、山口くん」
「……何?」
「ちょっと、聞きたいんだ。あの、答えにくかったら無理に答えなくてもいいんだけど」
よくわからない前置きだと思った。聞きたいことがあるのに、無理に答えなくてもいいっていうのは何なんだ?
それが佐藤さんの様子がおかしいことと、関係があるんだろうか。
僕は横目で佐藤さんを見る。
佐藤さんはストローに口をつけ、ほんの少しオレンジジュースを飲んだ。それからパックを持つ手を膝の上に乗せ、目を伏せる。
二人きりのロビーに沈黙が落ちた。
次に睫毛が動く瞬間まで、ずいぶんと長く感じた。
だけど僕は沈黙を守り、佐藤さんの言葉を待つ。
佐藤さんはじっと床の上を見ている。ホテルの床はぴかぴかで、蛍光灯の明かりを跳ね返している。自販機の低いモーター音が響く以外は、ロビーはひたすら静かだった。
やがて彼女が一度瞬いて、その視線を上げた。
湯上がりの赤みが差した頬で佐藤さんは、僕に向かってゆっくりと尋ねた。
「山口くんって、好きな人、いる?」
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