佐藤さんと心からの言葉
「思ったことをそのまま言葉にしてもね、上手く伝えられない気がするんだ」
夕暮れの教室の隅っこで、佐藤さんは言う。
「かわいそうとか、大変な目に遭ってとか、でも頑張ったから立派だとか……私が感じたのはそういうことなのに、言葉にすると途端に安っぽくなっちゃうの」
語彙が乏しい。言ってしまえばそれだけかもしれない。
でも佐藤さんが自分の感じたこと、思ったことを文章にできないのは単にそれだけなんだろうか。
「何か、変だよね。感動してるのに、それをそのまま言葉にしようとすると、何だか偉そうな感じになっちゃって。まるで私、ヘレンに同情寄せてるだけみたいで」
同情という単語が出たので、僕は内心どきっとした。
でも佐藤さんにはそんなことわかるはずもない。
「私なんかが立派だとか、頑張って偉いとか、そういうこと言うのはおかしいよね。だって本に載ってない部分でも、すごく頑張ってるはずだもの。すごく苦労してるはずだもの。ちょっとしか知らない私がすごいすごいって言っても、何だか安っぽい気がするの」
ヘレン・ケラーの伝記に手を置いて、佐藤さんが目を伏せる。
そう厚くもない本だった。
人の一生を全部書き残すには、むしろ薄すぎるくらいだった。
ヘレン・ケラーの生涯を全て、一冊のうちに記すことなんて不可能だ。それは彼女に限らず、他の人だってそうだろう。
だけど佐藤さんは間違っている。要領が悪すぎる。書かなきゃいけないのはあくまでもこの本の感想だ。ヘレン・ケラーの生涯のごく一部を読みやすいように書き表したこの本の感想だ。彼女の生き様そのものについてじゃない。
僕なら、そうするだろう。本の盛り上がりどころを押さえて適当に感じたことを書く。
僕は先生好みの感想文を書ける自信があった。佐藤さんが言うところの『安っぽい』言葉を並べて、さも感動したようなそぶりで、思ってもいないような感想文を書いて、提出した。再提出はもちろん免れた。
佐藤さんにはそれができない。この本の内容と偉人の生き様を切り離すことができないんだろう。もちろん全く不要な生真面目さだったけど、彼女らしいとも言えた。
はっとさせられるような、本当に彼女らしい感性だった。
僕は動揺を押し隠すように、自分の机に頬杖をついた。
それから少し投げやりに告げてみる。
「『共感』でいいんじゃない」
「共……感?」
「そう。同情じゃなくってさ」
同情なんて言葉は好きじゃない。
そんな気持ちは持ちたくなかった。
「佐藤さんの言ってること、本に限った話じゃないよ。人間関係とかでもさ、相手のこと全部知ってるわけじゃないけど、何かうまが合ったりとかすること、あるだろ。そんなに深い付き合いでもないけど、こういう一面は気に入ってる、とかさ」
話し出したら、頭の奥からするすると滑り出すみたいに言葉になった。
まるでずっと言いたかったことを打ち明けるようだった。
「うん」
佐藤さんは真剣な眼差しで僕を見ている。
見つめ合っている。
不思議な感じがした。いつもの僕らならこんなふうに真っ直ぐ見つめ合うことも、真面目な話を論じ合うこともない。二人きりの放課後の教室、夕暮れの静けさがそうさせているのかもしれない。
その空気に背を押されるように、僕は一息に告げた。
「全部知ってる必要なんてないと思う。ちょっと知ってるだけでも十分、共感してるって言えるし、その人が頑張ってたら『頑張ってるな』とか、偉い、立派だって思ったら『立派だな』って言っていいんじゃないかな。素直に感じたことを言葉にするのに、安っぽいことなんてないよ」
そう思ってる。気持ちを言葉にするのに安いも何もない。
そこにあるのが同情じゃなく、共感なら、素直に感じたままを言うのが一番いいと思う。
後ろめたいことは何もない、とても人間らしい感情だ。だからそのまま伝えたらいいと思う。
一気にまくし立てた後で、ふと気づいた。
佐藤さんがじっと、真剣な眼差しを僕に向けている。
それを目にした途端、僕は急に気恥ずかしくなった。言い訳みたいにぼそぼそと付け加えた。
「まあ、一意見なんだけど……」
「ううん」
佐藤さんが首を横に振る。
「山口くんの意見、すごく参考になった。私、その言葉を知りたかったの」
「そう、なんだ」
「うん。私ね、好きになったんだと思う」
彼女は晴れ晴れと言った。
「ヘレン・ケラーの一生を追い駆けて、読み進めていくうちに、彼女のことがすごく好きになってたんだと思うの。そういう気持ちを書きたかったのに、上手く辿り着けなくて」
言いながら胸の前で、ぎゅっと小さな手を握り合わせる。
「でも、好きな人のことを書くなら、どんな言葉を書いたっておかしくなんかないよね。言葉を選んだりしないで、思っていることをそのまま書けばいいんだよね」
「うん……」
僕は今更のように動じていた。
僕の影が落ちている佐藤さんの姿は、影の中でもはっきりと輪郭を浮かび上がらせている。瞳だけが輝き、ひたむきなまでに僕を見つめている。
表情は明るい。陽に照らされていなくても十分、明るかった。
「ありがとう、山口くん。私、ちゃんと感じたことを書けそう」
佐藤さんが微笑んだ。
その時、僕の居た堪れなさは針を振り切って、思わず席から立ち上がった。
――何だ。どうしてこんなに、気恥ずかしい思いでいるんだろう。
滅多にないような真面目な話をしたから、なのか。
「あ……ごめん、僕、バスの時間が」
たどたどしい声でようやく言った。
そのくせ僕は時計を見ていない。見る余裕もなかった。だから実際に、教室に来て何分が経ったかなんて知らなかった。
「じゃあ、あの、感想文頑張って」
僕は薄っぺらい自分の鞄を引っ掴むと、慌てて教室を飛び出そうとした。
「山口くん!」
ドアの手前で名を呼ばれ、足が止まる。
だけど振り向けない。
僕は、自分の足元から伸びる長い影だけを見ている。
少し離れた背後で、佐藤さんの立ち上がる音が聞こえた。
「今日、本当にありがとう」
静かな空間に響く佐藤さんの声も、どこかたどたどしいように聞こえた。
僕の足元に彼女の影が懸かる。
影同士が触れるか、触れないかの距離まで歩み寄ってくる。
「また明日ね、山口くん」
背中に投げかけられた佐藤さんの言葉は、優しかった。
何気ない挨拶だった。
だけど僕には、絶対の約束のように聞こえた。
明日またここへ来れば、佐藤さんに会える。隣同士の席でくだらない話をして、彼女の落ち着かない様子を眺めて、授業で当てられたら助けてやって――鬱陶しいだけだったはずの日々が、約束される。
僕は今、何よりもそのことに安堵していた。
「うん」
振り返らずに頷く。
「また明日」
消え入りそうな声で応じた後、僕は廊下へと駆け出した。
走りながらも頭がぐらぐらしている。
佐藤さんにアドバイスをしていたつもりが、僕は、彼女の言葉に真実を射抜かれたような気がしてならなかった。
つまり僕は、同情しているわけでも、共感しているわけでもなかったのかもしれない。
隣の席にいる彼女のごく一部、幾つかの側面を見ているうちに、信じがたいことだけど、好きになっていたのかもしれない。
いや、もちろんクラスメイトとしてだ。あくまでも。
素直に言葉にすると誤解を招きそうだから、僕は言わない。言う必要もきっとない。
ただ、好きなんだ。
佐藤さんのことが、割と。
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