隣のあの子と携帯電話
「山口くんって文字打つの速いんだね」
隣の席から驚いたような声が聞こえてきた。
僕は携帯電話を弄るのをやめ、画面から左隣に視線を移す。
目が合って、隣の席の佐藤さんがはっとする。
「あ、ごめん。お邪魔しちゃった?」
「いや、別に」
首を竦めて僕は応じた。
ちょうど打ち終わったところだ。送信しながら佐藤さんに告げる。
「そんなに速い方じゃないよ。僕より速い子だってたくさんいる」
携帯電話はコミュニケーションの道具だ。返信は速ければ速い方がいいに決まっている。
短い文章を送り合ってリアルタイムでやり取りするから、ちょっとでも反応が遅れると不安がったり苛立ったり、文句を言ってくる人までいる。既読ついてるのに返事もないとかで揉めるのは鬱陶しいから、僕は読んだらすぐ返すことにしていた。
「十分速いと思うけどなあ」
佐藤さんが首を傾げる。
「少なくとも私よりはずうっと速いよ。私なんて休み時間の間じゃ足りなくて、いつも家に帰ってからまとめて返信してるもの」
「そうなんだ」
当たり障りなく答えつつ、内心ではいかにも佐藤さんらしいと思っていた。
彼女はそういう子だ。
何に関しても動作が遅くて、不器用な上に要領も悪い。きっとメールを打つのにも酷く時間をかけることだろう。
そこまで考えてから、僕はちょっと驚いた。
「佐藤さん、携帯持ってるんだ?」
意外な感じがした。今時持ってない高校生の方が珍しいだろうけど、佐藤さんに限ってはちゃんと使いこなせてるのかという疑問の方が先立つ。きっと説明書は半分も読めていないに違いない。
「うん、持ってるよ」
僕の驚きをよそに、佐藤さんは頷いた。
制服のポケットを叩いて明るく答える。
「普段は電源切ってるし、学校では読んでる暇もないから、ポケットに入れっ放しだけど」
「へえ……」
あの佐藤さんが文明の利器を。
正直、両手の指でもたもた文章を打っている様子しかイメージできない。
「だから山口くんが片手でぱちぱちって打ってるの見て、すごいなって思ったの」
佐藤さんはにこにこしながら言葉を続けた。
「いいね。きっと、山口くんからお返事貰う人は嬉しいよね」
屈託ない彼女の笑顔を見ると、どうしてか気まずい気分になる。
結構失礼なことを考えたから、だろうか。僕は目を逸らして聞き返す。
「……そうかな。どうして?」
「だってお返事は速い方が嬉しいじゃない」
どうだろう。むしろ僕は速いのが当たり前だと思っている。
携帯電話は常に『携帯』されてるのが常識だから、誰かから連絡が届いたら反応せずにはいられない。
誰かが返事を欲しがっているのならできるだけ速く返さなきゃいけない。
それがマナーだし人間関係を乱さないコツだと思っていたから、そういう時の相手の気持ちまでは考えたこともなかった。
「欲しい時にすごく速くお返事貰えたら、嬉しいよ。自分の為に急いでくれる人がいて、本当に繋がっているんだって実感できるよ」
佐藤さんは言う。
「私は打つのが本当に遅いから。お返事の内容考えて、迷って、一文字ずつ選んで打って、結局すごく遅い返事になっちゃう」
朗らかに笑いつつ、はっきりとわかる称賛の口調で言う。
「だからね、いつも家で打つことにしてるの。その方がじっくり考えてお返事できるもん。一日中考えてるの、さっきの連絡に、どうお返事しようかなって」
相槌さえ打たない僕に向かって、楽しそうに話し続けている。
「携帯電話の意味ないねって、皆に笑われてるけど」
確かに、そんなの意味がない。
佐藤さんに携帯電話は向いてないのかもしれない。
でも、それだって繋がっていることになるんじゃないだろうか。
彼女は連絡をくれた人への返事をずっと考えてる。
それはその人に向けた佐藤さんの気持ちが、その人とずっと繋がってるってことじゃないだろうか。
佐藤さんと繋がっていられる人は、自分のことを一日中考えてくれる彼女の存在を、嬉しく感じているかもしれない。
僕はとっさに顔を上げた。
「佐藤さん、それは――」
だけど言いかけたところで、手の中の携帯がぶるっと震え、軽快な受信音が短く響いた。
言おうとした言葉が喉の奥に引っ込む。
「あ、ごめんね。忙しい時に話しかけて」
佐藤さんは僕を促すように微笑んだ。
それで僕は画面を覗くしかできなくなり、そこに躍っている能天気なスタンプをどうしてか忌々しく思う。
――でも、そうだ。僕には関係のない話だ。
隣の席だからって、僕と佐藤さんが繋がることはない。僕らはペースが違いすぎる。連絡の取り合い方一つでもこんなに開きがあるくらいだ。
佐藤さんが誰に、どんなふうに返事を考えて送るのか、聞いてみたいと思う方がおかしい。
あのもたつく不器用な指が、一日かけて作り上げる返事が気にならないわけじゃない。
でも連絡先を聞き出す必要性が見当たらなくて、僕は結局口を噤んだ。
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