九十九物語
フドワーリ 野土香
プロローグ
竜脳と
背後から鈴の音がして振り返る。そこには、数えたくもないほど長い年月、ずっと逢いたくてたまらなかった清葉の姿があった。僕は清葉の美しさと儚さに思わず息を呑む。
清葉の黒い髪が乱れ、赤い長襦袢が揺れていた。風に靡くと、水中で泳ぐ赤い金魚のようにひらひらと舞う。
清葉は泣いていた。大粒の涙が、頬を伝い珠のように落ちていく。
「おさらばえ」
泣きながら眉を顰め苦しそうに笑う清葉が、一筋の光もない暗闇へと吸い込まれる。
――清葉、清葉。
手を伸ばしたいのに、腕がない。叫びたいのに、声もない。
清葉の身体は闇の中へと溶けて消え失せ、僕はぽつんと取り残された。
――清葉がいない世界なんて、地獄だ。
* * *
目を開けると、自分が誰なのか一瞬わからなかった。数秒ほどぼんやりと天井を見上げて、ようやく夢を見ていたのだと気がつく。相変わらず、清葉がいない地獄には違いなかった。
遠い昔の夢だった。遥か遠い昔の話。
もう一度、瞼を閉じる。でもすぐに目を開けた。清葉にはいつだって逢いたい。でも、泣いている清葉を見るのは辛かった。
仕方なく身体を起こす。黒い羽織を肩にかけ、深く息を吸い込む。冷たい空気が身体に流れ込んできた。あれから何度目の冬だろう。本当に、もう数えたくもない。
素足で床を踏むと、軋む音が僕の後をつけてくる。窓ガラスを開けると、庭の椿にうっすらと雪が積もっていた。辺りはしんと静まり返り、人の気配もない。
鏡の前に座り、自分自身を睨んでから煙管に火をつけた。
僕には名などない。名もなければ身体もない。僕は一本の簪だった。今から遠い昔、吉原の遊郭にいた遊女清葉が大切に使っていた簪だった。小さな鈴が付いていて、リンと清らかな音がした。
清葉が死んだあの日、僕はこの世に生まれた。清葉に簪を贈った男――甚之助の姿で。鏡を見る度、何度この顔を壊したいと思ったことか。この姿形は清葉が死んで恐ろしい年月が過ぎても、朽ちることなく生き続けている。
なぜ僕はここにいるのか。何のために生まれたのか。その答えは、いつまで待ってもわからない。
「呪いだな」
僕は鏡の中の男に向かって、ニヒルに笑いながら言った。
ただのモノであった僕が、命ある者に恋をした呪いだ。
「あの……すみません」
消え入るようなか細い声だったが、僕には聞こえた。さて、仕事だ。
さっと立ち上がり、階段を下りて玄関の戸を開けた。にっこりと笑みを浮かべ客人を招き入れる。白いマフラーを首に巻いた女性が、白い息を吐きながら立っていた。
「おやまあ、こんなに冷たくなっちゃって」
僕はさっと女の両手を自分の手で包み、微笑んだ。彼女は驚いて僕の手を振り解くと「す、すみません」と謝る。
「あ、あの……どんな悩みも解決してくれると聞いたんですが……」
目を伏せて、小さな声で訊ねてきた。
彼女の様子からして、何やら人には言えないような悩み事がありそうだ。そんな匂いが漂っている。よだれが出そうなくらい、堪らない匂いだ。
「ここは物語り屋。君だけの物語を、気の済むまで僕に語っていいよ。僕は君の物語を否定しないし肯定もしない。気が済んだらそれでハッピー。でももし、気が済まなかったら。他の方法もあるよ?」
「他の……方法……?」
「ただし、それなりの報酬を支払ってもらうけどね」
「あの……私お金は、あんまり持ってないんですけど」
恥ずかしそうにもじもじしながら、頬を赤らめて言う。僕は彼女を笑い飛ばした。
「お金なんて、何の役にも立たないよ」
僕がそう言うと、彼女は目を真ん丸にして食いついてきた。
「報酬ってお金じゃないんですか?」
「君の大切な思い出の一日。その記憶を僕にちょうだい。それが、報酬」
彼女はもっと目を大きく見開いたまま固まった。
「ここは男も女も、語れるなら犬や猫でも、誰でも話したいことを話したいだけ語っていい場所。さあ、早く聞かせて? 僕、もう我慢できないよ」
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