無題(093:Stand by me/発表日不詳)
玄関のドアを開けて、そこに息を弾ませて立ち尽くしているヒロがあまりにも予想通りだったので、何かを言う前にナオは笑いだした。フルフェイスをかぶっていたせいで柔らかい髪はぐしゃぐしゃに乱れ、いつのまにか降りだしたみぞれまじりの雨でライダースジャケットの肩はびしょ濡れ、あざやかな色のネクタイは思いきり曲がっていて、いつもの端正な雰囲気が台無しだ。左手にぶら下げている花束だけが予想外で、それがまた滑稽だった。
「な……んだよ、いきなり……、」
よほど飛ばしてきたのか、ヒロはまだ荒い呼吸をしている。ナオは目尻の涙を拭って、
「っつーか、マジで来ると思ってなくて」
「…………」
「だってべつに来いとか言ってねえし」
言ってやりたいことが沢山ありすぎて何を言えばいいのかわからなくなり、ヒロは黙った。何の前触れもなく音信不通になられるたび、またか……とわかっていても着信履歴ひとつでパーティーを放り出して駆けつけてしまうくらいには心配になることを、目の前でばか笑いしている男は全く理解していないのだった。溜め息をひとつ吐いて、呟く。
「……でも、そういう意味でしょ、着信」
答えずにただ笑うナオは、この寒い季節だというのに、申し訳程度に素肌にワイシャツを一枚引っかけて、真っ白い顔をしている。もともと痩せているけれど、それにしても浮いた肋が痛々しかった。どうせ酒ばかり飲んだくれて、ろくに食事も摂っていないに違いない。そんなふうにだらだらと、どれだけの時間をひとりでいたのだろう、と思い、ヒロはあらためて憂鬱になった。
「いつまでもそんなとこ突っ立ってないで、入れば? 邪魔だし、さみイ」
「あ……、お邪魔、します」
思い出したようにそう言い、長身をかがめてヒロは部屋にあがった。特別な日用の少し上等な革靴も、ライダースには不釣り合いなかっちりしたスーツも、すっかり濡れていた。立て続けにくしゃみをすると、ナオが振り返った。彼はいつでもうすい笑みを顔に貼り付けている。表情が読みづらい。
「犬だね。ほんと」
ヒロは答えなかった。わざと聞こえなかった振りをした。ひとりごとを装って、ナオが続ける。
「みンなヒロみたいだったら楽なのになあー」
(……「みんな」、じゃねえだろ。どうせ)
胸の裡だけで吐き捨てる。憐れみと失望と、微かなよろこびが入り混じって、ヒロに複雑な顔をさせた。
リビングは荒れていた。冷えてチーズが乾いた宅配ピザがひと片とり残され、潰れたビールの缶があちこちに転がり、灰皿には吸い殻が山盛りだった。点けっぱなしのTVの画面で、少年たちが森の中の線路を一列縦隊で歩いていく。
「……なんで、今更」
「えぇ?」
「いや、『スタンド・バイ・ミー』」
「あ〜……なんか急に見たくなって、借りてきた」
「ふーん。なんか、意外」
「つーかさ、よく画面見ただけでわかんね」
「ああ、俺は結構好きだったから。昔何回か見てるし」
「……そーなんだ」
その声にどこか咎めるような調子をみとめて、ヒロははっとした。ちらっとナオの顔を窺うが、そう簡単に心の裡を読ませるナオではない。
「で、真面目に見てんの?」
「や、見てンだけどさ、気がつくと寝てるみたいで場面がとんでんだよ、だからぜんぜん話わかんねえの。でも、今日までなんだよねー、期限」
「……それで来なかったの?」
ナオはへらへらと笑った。
「まあ、寒いし」
「やろうって言い出した張本人が、直前に失踪するなよ」
たまにはクリスマスにみんなで集まるのもいーんじゃない、ベタで。ナオは確かにそう言った。でもそれは、十二月のはじめで、あのときは何だか知らないが浮き浮きした気分だったのだ。あれからもう二週間以上も経っている。
「……そんな持久力ねーよ」
「え?」
「や、……シッソーだったらかっこいーけどね。俺ずっとここで酒呑んでるだけだしね。そーこーするうちになんかクリスマスになってて」
「……来ればいーじゃん」
ヒロが言った。頑なさをはらんだ声で。
「来ればいーじゃん、ひとりで酒呑んで、そんで寂しくなるぐらいだったらさ、来てバカ騒ぎすればいいだろ」
その台詞のあとには沈黙が訪れ、空気は妙にしんとした。ヒロは「寡黙」といわれる質だし、ナオもしゃべりづめにしゃべるタイプではないから、会話には間があくのは珍しいことではないのだが、はっきりと存在感のある沈黙は滅多になかった。ナオは重い空気が嫌いだ。
「寂しいって、わかったようなことゆーね」
ナオがヒロを見る。
「そりゃさ、俺が行けばヒロは安心なのかもしんないけど。それって俺のためじゃないじゃん、お前のエゴじゃん」
笑みは剥がれていなかったが、その眼差しはひどく冷たかった。ヒロは見返した。ナオがいつも、注意深く隠したがっている逆鱗にあえて触れた以上、このくらいで怯むつもりはなかった。何も気付いていないような振りで目を伏せて、ネクタイを直す。
「だいたいお前さ、勝手に押しかけて来といてその発言はちょっと図々しいんじゃない? お前に会いたがってる可能性と同じだけ、顔も見たくない可能性もあるとか、そーいうことは少しも考えないの?」
「……『顔も見たくないから帰れ』って言われたら帰ればいいだけだから」
ヒロは淡々と言った。ナオのこういう残酷さにはもう慣れた。
「……へーえ」
「ナオもそうすればいいじゃない」
はっとする鋭さでナオがヒロを見た。いつも眠たげな、半眼に見える重い一重まぶたの目に、ほとんど殺意に近い光が閃いた。感情を滲ませないよう最大限に努力した平べったさで、言う。
「……じゃあさ、いま俺が『帰れ』っつったら、かえんの」
「帰るよ。……これだけ、置いて」
ヒロは静かに答えて、まだ手に持っていた花束を置く場所を目で探し、床の惨状に思わず顔をしかめて無意識に空き缶をひとつ拾った。
「そいやどしたのその花」
「……もらった」
「だれに」
名前を言おうとして、のみ込む。あのひとの名前は爆弾だ。地雷を踏んだうえに、爆弾まで落とすのはさすがにまずい。答えなかったら答えなかったで、敏感なナオならそこから正解を察するだろうからどのみち同じではあるのだが、ともかくその名前を口にするわけにはいかない。わざとらしいが、話題を変えた。
「フラワーベースとか、……ないよね」
「……なにそれ」
「花びんみたいな」
「ねえなー。つーかなんだよフラワーベースって、花びんって言えばいーじゃん、そんな気取ってフラワーベースとか言わねえよ普通」
何ごともなかったように軽口を叩きながら、ナオは冷蔵庫を開けてカップ酒をふたつ持ってきた。「あゆカップ」と「麒麟」、どちらもヒロは知らない銘柄だった。
「これ空けて使おうぜ。とりあえず、座んなよ」
「いいよ、俺、バイクだし、……大体座るとこないよこの部屋」
ローテーブルの下に落ちていた一週間前の日付のタブロイド紙のうえに花束をとりあえず置いて、ヒロは本格的に散乱しているゴミを集め始めた。
「ねえ、少し片していい? ゴミ袋ないの」
「……お前つくづくヒトん家片付けるの好きだね。たぶんレーゾーコの上」
そう言って苦笑したナオの目は、いつもどおりの半眼だった。自分を抑えるのが天才的にうまい。だから俺らいつまでたってもこんななんだ、とどこかで思いながら、やはり自制の効くヒロは「まあね」と穏やかに笑ってみせた。
結局大きなごみを拾うだけでは気が済まなくなって、ヒロは掃除機も持ち出した。自分の部屋以上に念入りに掃除をするヒロを、ナオは面白そうに眺めていた。ヒロがナオの部屋を片づけるのは、彼が遊びに来たときの習慣のようになりかけていたが、それにしてもいつになく熱心だった。やっぱりうしろめたいんだな、と手を動かしながら他人事のようにヒロは思った。
ようやく納得がいき、満足げに伸びをして、その拍子に見えた窓外の景色にヒロは声を上げた。
「あ」
そのまま結露で曇った窓ガラスを引き開けた。冴えた冷たい空気ごと、冬の日差しが入ってくる。ナオは迷惑そうに眉をしかめた。
「……なにやってンの?」
「雪。降ってる」
「ふーん」
「さっきまで霙だったんだけど」
「……へー」
「ホワイト・クリスマスだ」
「…………」
「ナオ、雪見ないの」
「寒くてそれどころじゃねーよっ、窓閉めろ窓! 浸るならベランダ出て浸れ! 凍死すンだろ!」
わめきながらナオはソファの背もたれに引っ掛かっていた毛布にくるまった。雪まじりの北風に乗って、わあああ、という歓声が上がってくる。四、五人の男女が道はばいっぱいに広がって、ふざけながら踊るように坂を下っていく。雪のせいで妙に静かな住宅街に、水玉や縞模様の傘の色が賑やかだった。しばらくそれを見つめて、ヒロは窓を閉めた。
「高校生かな」
「そーいやなんかガッコーあるよ、そのへんに。あー寒っ!」
「外どこもすごいよ。この寒いのに人いっぱいいて」
「……なんかさあ、あの、変なさ、キリスト教のヒトみたいの、いた?」
「……は?」
ヒロは怪訝な顔をした。ナオは毛布の塊から顔だけ出して転がっている。
「いるじゃん、あの、駅前とかで看板もってさ、聖書のことばです、とか、悔い改めなさい、とか言ってる」
「ああ」
確かにそんな感じの人々が、毎年クリスマスになると街角に現れる。今年もいた。自分たちと同じくらいの歳、二十歳過ぎぐらいの男女の姿もあるのを、横目で見ながら通りすぎた。
「いたよ。……こんな寒空の下よく何時間も立ってられるよなあ、しかもいちゃついてるカップルとかに素通りされながらさ、……虚しくなんねーのかな」
「いいんじゃない。神様がそばにいンだよ。たぶん」
らしくない台詞に、ヒロはナオを見る。ナオは毛布にしがみついて、宙を見つめている。
「いーよなー。俺も神様のこと好きになろうかなー」
「……なにそれ」
「……どうせ第一希望通んないんだし。……そしたら、クリスマスなんて誰といたってひとりでいたって同じだし」
「…………」
「神様だったらさ、祈ればそばにいてくれんだよ、……よく知ンないけど。そーゆーのがいいなあ」
祈りを、口に出せばいいのに、とヒロは思う。口に出して、「第一希望」のあのひとに、聞かせてやればいいのに。そうすればナオが思っているよりずっとかんたんに、ナオの望みは叶う、ヒロはそう思っている。それなのに固く口を結んだまま、部屋でひとり届かない祈りを抱えているナオを、苛立ちをおぼえながらヒロは見ている。
理不尽な怒りだと頭ではわかっていたので、やり過ごすためにヒロはただ黙って、子どものように毛布にくるまるナオを見つめていた。やがて苛立ちは憐れみに変わる。
ひどい言葉を投げつけられても、残酷な仕打ちを受けても、ともかくヒロの「第一希望」は通っている。神様を好きになれたらいいのになんて願うナオはヒロよりずっと不幸せだ。可哀相なナオ。
「……かわいそうなナオ」
マルボロの封を切って火を点けながら、ヒロは口に出して呟いた。
「今なンか言った?」
ナオは目も耳もさとい。聞こえていないはずがないのに、とぼけてみせる。なんでもない、と返そうとして振り返ったヒロの目に、ふいに佳境に入った映画が飛び込んできた。まだあどけないリバー・フェニックスが、泣き崩れる主人公の少年を抱きかかえるようにして、語りかけている。
『君はきっと大作家になるよ』
「ヒロ、何、急に固まってんの……えっ、お前、泣いてんの」
吸いさしのマルボロを持った手を宙ぶらりんにしたまま立ちすくみ、口にもう片方の手をあててしきりに目をしばたたかせているヒロを見て、ナオは一瞬ぎょっとする。
「いいけど、灰、落ちるよ」
「あ、……ごめ」
目をこすりながら、慌てて灰皿の僅かな隙間に煙草を押しつけた。吸い殻の始末を口実に流しに立ち、拳でごしごし涙を拭った。
(どうして、俺はあのちっちゃなリバー・フェニックスみたいに、欲望抜きでナオの幸せを思ってやれないんだろう。どうして、俺たちはああいうふうになれないんだろう)
早く片付けて戻らないと、と思うほど涙は溢れてくる。冷たい水で灰皿を洗いながら、ヒロは奥歯を噛んで嗚咽をこらえた。
「部屋片付いたし、ヒロ、おまえ今日泊まってっていーからさー、飲もーよ。熱燗にしてさあ。なーってばヒロ、聞いてる?」
水の音にかき消されないよう、声を張り上げてナオが言う。ヒロは背中を向けたまま答える。
「いいよ、つまみ作ろうか?」
「マジでー? レーゾーコん中食いモン入ってっかなあ」
「……あんまりない。けど、どうにかする」
映画が終わったのだろう、あの有名なテーマソングが流れてきた。ベン・E・キングの歌声にかぶせて、「ダアァリン、ダァリン、ステーーン、バイミッ」とナオが調子っぱずれに歌った。へったくそな歌。思わず笑いがこぼれる。
エゴでも、欲望でも、純粋じゃなくても、とにかく今夜はナオのそばにいられる。
灰皿を持ってリビングに戻ったヒロを見て、「なにおまえ、鼻真っ赤だよ!」とナオが大笑いした。
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