稲佐山のあもじょ

さとう

第1話 君を追って来た港町

 汗を拭いながら、坂道を上っていく。港町の商店街らしく辺りには異国情緒が漂い、遠くに目を遣ると、そびえ立つ白亜の教会堂が見えた。大浦天主堂だ。確か、昨年に補修工事が完了したのだったか。


 八年か、と独り言つ。いつの間にか、それだけの月日が流れていた。原爆によって焼き払われた長崎の町は、かつての賑わいを取り戻しつつあるようだった。

 通り沿いにサインポールを見付け、あっと思う。いる筈がない、いや、でも、もしかしてと、諦念の中に淡い期待が芽吹く。髪もちょっと伸びたしなと、自分自身に口実を用意して、高野三郎は理髪店の扉を開けた。


 店内は雑多な雰囲気だった。三席ある椅子は全て埋まっていて、従業員は三人いた。全員男だ。待合席で足を組んでいると、「先頭の方」とすぐに呼ばれた。

 胡麻塩頭の愛想のいい理容師に「お任せします」と伝える。こだわりはなかった。しゃき、しゃきと髪を梳く小気味好い音を聞きながら、白い散髪ケープを被った自分を鏡越しに見る。

 子供の頃は、この時間が何より好きだった。というのも、髪を切ってくれるのが好いた子であったからだ。


 名を美代子といった。近所に住んでいた一歳上の幼馴染で、床屋の娘らしく髪を切る仕事に憧れていた。跡を継がせる気は親父にはなかったようだけど、ならば自分で店を持ってやると、意気込む彼女によく練習台にされたものだった。


 ――――銀座に美容室を開くの。名前も決めてる。さぶちゃんも来てね。


 鋏を片手に、きらきらした顔で言う美代子に、行かないよと、三郎はいつも素っ気なく返していた。


 ――――女の行く所だろ、美容室なんて。


 不貞腐れた態度をとるのは、都会に行こうとする彼女への抗議のつもりだった。近くにいて欲しいと、素直に言える度胸はなかった。

 美代子の旅立ちは、想像していたより早かった。店主の病没で床屋は廃業となり、美代子は、母の実家がある長崎に引っ越す事になった。それからは、文通するようになった。やがて大東亜戦争が始まって、父も兄も兵隊に取られ生活は苦しくなっていったけれど、美代子とのやり取りは続けた。


 ――――戦争が終わったら、遊びに来てください。長崎の町を一望できる、とっておきの場所があります。すごく綺麗なんだよ。まだ誰にも教えてないんだけど、さぶちゃんにだけ特別に教えてあげます。成長したさぶちゃんに会える日が楽しみです。


 それが、美代子から届いた最後の手紙だった。八月八日、二発目の原子爆弾が落ちる前日だった。


「お客さん、どこから?」

 不意に理容師に問われ、三郎は意識を現実に戻した。余所者の雰囲気が出ていたか。鏡越しに目を合わせ「東京から」と答えた。

「そがん都会から。こちらにはお仕事で?」

 曖昧な笑顔で「いや、観光です」と答える。初恋の人を探しに、とは言えなかった。

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