リュウグウノツカイ

那智 風太郎

 Prologue

 不思議な記憶がある。


 それは幼い頃に見たある夢の映像だ。

 夢なんて普通、目が覚めればすぐに消えてしまうものなのにいつまでも憶えているとは奇妙だ。

 けれど、それだけではない。

 現実と見紛うほどのリアルさを兼ねそなえたその映像は、さらに不思議なことに自在に思い起こすことができないのだ。

 それは普段、私の海馬の奥深くで静かに息を潜めているのだろう。

 無理にその記憶を取り出そうとすると意味を成さないバラバラの細切れ映像のようになってしまう。

 そんな夢の記憶を私は持つ。


 リュウグウノツカイ。


 海面に姿を見せるだけで大きなニュースになるあの深海生物に、たとえばそれはどこか似ている気がする。


 美しくも奇妙で非現実的な記憶。


 なんともつかみどころのないそれが、けれどことあるごとに私の危機を救ってくれる。

 なにかを思い詰めたときやプレッシャーに窮したとき。

 あるいは無性に哀しくてただただ涙するとき。

 ありありと視界に甦り、私を支えてくれるのだ。


 そしてまさに今、その夢のワンシーンが鮮明に映し出された。


 伏せられた用紙の上に茶と白のぶち模様のゴールデンハムスターが二本足で立ち、私の目をまっすぐに見据えて喋る。


「大丈夫。僕はいつでもまゆちゃんのそばにおるよ」


 胸の奥が沸騰したように熱くなった。

 熱は私を苛んでいた分厚い氷のような緊張を一瞬で溶かし、障壁に立ち向かう勇気を与える。


 瞬きをするともうそこに彼の姿はなかった。


 誰かの咳払いが聞こえる。

 無数の衣摺れがサワサワと聞こえる。

 椅子や机が軋む音があちこちで鳴る。

 私は目を閉じ、スッと息を吸う。


 ぽん太、私、やるからね。


 心に誓ったそのとき階段教室の教壇に立つ男性が静かに開始を告げた。

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