エレフセリアの渡り方

海野あきら

第1話 目覚めの先で

 ――日向優一ひなたゆういち、47歳。独身。

 会社では事務職、課長の椅子に座っている、ごく平凡なサラリーマンだ。


 毎朝決まった時間に起き、顔を洗い、朝食を作り、着替え、家を出る。満員電車に揺られ、セクハラと訴えられないように手すりに掴まりもう片方はしっかり鞄を握り締める。

 無事に会社に出勤すれば、朝はスケジュール確認やメールの対応、会議が入っていれば資料の準備を行い、部下への指示出し、今月入ったばかりの中途社員の教育・指導を経て昼休憩を挟み、午後になれば社内打ち合わせに席を立ち、戻ってくれば来月に向けた資料作成を行い、終業前に別の課から依頼された書類の処理をする。

 多少予定の前後はあれど、この流れのルーティンを平日5日間繰り返す。

 やりがいはある、一日仕事をしたという充足感には困っていない。役職手当もついて、福利厚生も申し分ない、給料面にも不満はない。部下だって皆、優秀だ。日々経験と学びの時間を過ごし、この日常に文句はつけようがない。

 帰宅の電車に揺られ、降り立つ駅から帰路を行き、スーパーで夕飯の惣菜と明日の朝食のパンを買って帰る。住んでいるマンションに入る前に、裏にいる茶トラの野良猫に、鞄に潜ませていたメザシを与えてやる。趣味のない優一にとっての数少ない楽しみであり癒しだった。

 そうして自宅に帰り、もそもそと買ってきたご飯を食べながらテレビを見て、風呂に入り就寝する。こうして優一の一日は終わり、また次の日がやってくる。


 いつもどおりの日々、当たり前にやってくる日常。世界にはその日の生活すら困る人々がいる。ありがたい日々を送らせてもらっていると思う。

 けれど、自分がいなくても成り立つ社会なんだよなと、思う日がないわけではない。

 何かクリエイティブな仕事をしていたら、或いは世界に貢献できるような外交官だったら、語学が堪能だったら、変わる道筋はいくらでもあっただろう。

 だがどの道も自分は選んでは来なかった。

 自分は安定した道を選んだ、それだけのことだ。

「……」

 明かりのついていない天井を眺めながら、それらについてをぼんやり考え込んでしまう。しかし今から何か行動するには、気力や活力が落ち込んでしまっている。むしろマイナスだ。

 出会いでも求めに行くか。今はそういう場所が溢れている。気の合う飲み仲間を探すのもいいかもしれない。職場の関係は良好ではあるが、飲みに行くような仲間はいない。広く浅い付き合いだけだ。

 過去に結婚をしたいと思わなかったわけでない。大学時代から今の会社に就職して数年間、付き合っていた女性がいた。

 とてもいい関係を築けていると思っていた。贅沢な暮らしはできなかったが、人並みな生活と幸せを続けられていると。

 だが彼女は違った。彼女にとってそれらはあまりにも普通だった。普通すぎた。刺激を求めた彼女の浮気が発覚して、それきりになった。これが原因で女性不審になった……わけではないが、なんとなくズルズルと相手を作らず今の今まで来た。

 両親は既に他界、兄弟も親戚もおらず、独り身を貫いてしまっている。このままいけば自分の代で日向家の墓は終わりだなと、申し訳ないことを考える。

 明日も早いのだ、早く寝なければ。

 潜り込むベッドのマットレスは、長年同じところで眠り続けているせいで沈んでいる。柔らかいが、バネが壊れそうで最近は少し怖い。次の休みに新しいマットレスをホームセンターで見つけてくるか。



 だが、優一にその次の休みはやってこなかった。

 翌日の電車は人身事故で酷い遅延になり、圧死しそうなほどの満員電車に揺られて出勤した会社では、午前中で消化できなかったメールの対応に追われ、自分がいないせいで後ろに倒れてしまったクライアントとの打ち合わせに定例会議と足早な時間を過ごし、昼を早めに切り上げ部下の教育と資料作成にと追われている間に定時はとっくに過ぎ、いつもよりも疲労困憊で優一は人のまばらな帰りの電車に乗り込んだ。

 歳を重ねて残業がすっかりキツい歳になった。人が少ない時間帯の帰宅で座席に座れるのだけがありがたかった。

 座席の温かさと疲労でウトウトし始めた優一は、その誘惑に勝てず鞄を抱えて瞼を閉じた。

 そして、しばらくして目が覚めた次の瞬間、優一は薄暗い車内に「あっ!」と思わず飛び起きた。

 誰もいない、まさか車庫に……!?

 優一は嘘だろと軽いパニック状態に陥って辺りを見渡したが、なんだか車内の様子がおかしいことに気づいた。

 車内はそこら中に蔦や草が絡みつき、窓ガラスはヒビ割れ、場所によっては大きく割れていた。

 座席もよく見れば破れ、自分が座っていた場所もどこから伸びてきたのか蔦が伸びて足元まで垂れ下がっている。

「……どうなってんだ?」

 優一は鞄を抱えたまま背筋の震える嫌な感覚に苛まれ、恐る恐る割れている窓から運転席を覗き込んだ。

 当然ながら誰もいない。使われなくなってからかなり時間が経っているようだ。

 天井からも蔦が絡み、180センチほどある優一の頭上を掠めた。何十年経過どころではなさそうだ。

 人の気配はどこにもない。外に出れば誰か一人くらい見つかるかもしれない。この状況がどういう状況なのか知らないことには先に進まない気がする。

 ――そうだスマホ。

 混乱してすっかり忘れていた。こんな状況すぐにSNSに広まるはずだ。そう思って優一は上着の内ポケットからスマホを取り出したが、その安易な考えはすぐに潰えた。――圏外だ。

 こんな状況で繋がると考えるほうがどうかしていたか。優一はまず、外に出てこの状況を知っていそうな誰かを探してみることにした。


 半開きの錆びついた扉からなんとか体を滑り込ませ、駅構内と思われる場所に降り立つ。

 そこで優一は初めて、自分が電車だと思っていたものが造形のよく似た全く別の乗り物であることに気づいた。

 外観は洋風で、車体は塗装が剥がれているものの黒く塗られており、その上から金色の色褪せた何か生き物を模った模様が、絡む蔦の隙間から見えた。

 こんな車両は見たことがない。流行りには疎い為、今時はこんなものもあるのだろうかとも思ったが、それでもどこか日本らしくない。やはり別物な気がする。

 構内と思しき場所もやはり蔦が絡んでかなり暗い。スマホのライトを使ってようやく目先の景色が見える。安堵はするが、今にも何か出そうで怖い。

 急いで地上に出るだろう、すぐ近くに見つけた階段を上る。足をかけて気づいた。ヒビが入っている。体重をかけるとグラついた。今にも割れて足を踏み外しそうだ。長い間人に手入れされていないのだろう。日本じゃこんなことありえない。ますますここがどこなのかわからなくなった。

 地上に出たところで人なんているのか?

 嫌な予感が更に増して、優一は長い階段の先に見えてきた夜空らしき景色に、縋るような思いで飛び込んだ。

 息の詰まるような空間からようやく出られた優一は、目の前に広がる景色を前に唖然として佇んだ。

 夜の空を瞬く無限の星、鬱蒼と茂る森、怖いくらいに巨大で明るい月、そして遠くに黒く見える山々と、遥か先に映り込む大都市の煌びやかなネオン。

 ――日本じゃない。


「どこだここ」

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