18
知らない先生も新しいテキストも、ちょっとめずらしくはあったけど大体今まで行ってた塾のものと同じで、(中学一年の夏期講習ってまぁ大体こんな感じなんだろうな)と、わたしは授業を受けながら考えた。すごい進学塾に行けば全然ちがうのかもしれないけど、まぁ、これでいいのだ。ああいう黒いのさえいなければいい。
(お父さんがわかってくれてよかった)
そう思った。ああいうのって、わからないひとには本当にわからないものだし、それを材料に「塾をやめたい」なんて頼むのは難しい。少なくとも、お母さんだったら絶対に納得しない。
すんなり塾を替えさせてくれたってことは、お父さんもああいうのが見えたり、聞こえたりするんだろうか? ずっといっしょに暮らしていたくせに、わたしはそんなことも知らない。話したこともない。お父さんはわざと隠していたのかもしれない。まぁ、わたしもあまりひとに話すことじゃないなとは思う。
そういえば、前通っていた塾は夜八時過ぎとかに帰ることがよくあって、時々お父さんが迎えにきてくれた。そのときにあの黒いのを見たのかもしれない――なんて考えながら板書を書き写しているうちに、授業は終わってしまった。
「ぐわーっ、つかれる」
わたしの横で、里香が大きくのびをした。わたしはそこで、さっき里香が「あのさ」と何か言いかけていたことを思い出した。
次のコマまで休憩時間が十分ある。さっきのは何だったかちゃんと聞かなきゃ、と里香の方に顔を向けると、まるでもう一度そっくりやりなおすみたいに「あのさ」と言われた。
「なに?」
「ちょっと賀古さんのことで思い出したんだけど、いいかな?」
教室はビルの三階に入っていて、廊下の奥に階段があるけど、休憩時間に使うひとはあんまりいないらしい。里香はそっちにわたしを引っ張っていった。
「ごめんね泉ちゃん、ちょっと人がいないとこで話したくて……」
さっきニコニコしていた顔が、別人みたいに暗い。非常口のランプが緑色に光ってるせいで、顔色も悪く見えた。
「いいけど、何?」
何? って言いながら、聞いてしまうのがちょっと怖かった。里香は「うちらが六年生のときにさ」と話し始めた。
「賀古さんのこといじめてた子が何人かいたんだよね。三人か……本人たちは『遊んでる』って言ってたけど、いじめだろってたぶんみんな思ってて。そしたらさ」
死んだんだよね、と里香が言った。
ぽつんと出たその暗い言葉が、天井のくらがりに吸われていくような感じがした。
「三人中二人死んじゃって、一人は登校拒否になっちゃったからどうなったかわかんなくて……あのさ、中学入ってから賀古さん、ほとんどだれともしゃべってなかったと思うんだけど、葛西小の子たちって、わざとなるべく話しかけなかったんだよね。だって――怖いじゃん」
里香の声が少しふるえた。
「うち、よくないことしてるなとは思うんだ。もしも賀古さんがほんとにいじめっこたちをどうにかしちゃったんだとしてもさ、悪いのは向こうで、賀古さんは被害者じゃん。だから避けたりするの、よくないとは思うんだけど」
でも、怖い。
「――もしも賀古さんのせいでいじめっ子が死んでたらって、考えちゃうんだよね。そんなはずないのにさ。死因ってたしか自殺とか事故とかで、賀古さんが何かしたわけじゃないのに」
わたしは何も言えなかった。ふだんだったら、相手が喜びそうなこととか、その場にあわせた相槌とかだいたい思いつくし、そのとおりに返せるのだ。でもだめだった。里香は悪くないよ、気持ちはわかるけど、そういうことがあったら賀古さんのこと怖くなっちゃうよね。無理もないよ。そういうふうに返せたらよかった場面なのかもしれないけど、無理だった。
だまったまま、賀古さんのことを思い出していた。なにもかも焼いて溶かしてしまいそうな夏の日差しの下で、車止めの上に百円玉を置く賀古さんの細い指、ガサガサした手先、わたしに「帰って」と言ったこと。だれとも必要以上に仲良くなる必要なんてないと思ってる。でも、だれとも話せないのはつらいし、寂しい。
不安になってしまう。
わたしはポケットの中に手を入れた。ネチョッという手触りが伝わってきた。今日もらった百円玉が、まだそこに入っている。
「――そういうことがあったから、よけい気になっちゃった。賀古さんのこと」
そう言ってうつむく里香はたぶん、賀古さんが自分のことを怒っていないか、心配しているんだろう。わたしは言葉を探して、
「わたし、いい子だと思うよ。賀古さんは」
そう言った。賀古さんのことほとんど何も知らないけど、悪いことをするひとだと思われたくなかった。
「そか」
里香はうなずいた。そのとき、授業開始のチャイムが鳴り始めた。
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