第9話 悪い夢

 バイオリンの音色をアップテンポにした電子音楽が広場から流れてくる。踊る人々の笑い声が小波のように耳に流れて心を躍らせる。

 露店に並ぶ菓子や、焼きソーセージの香りにイカルは上機嫌になり、カフェに座ったアダムの方を振り返った。


 『アダム、アダムっ、こっちにおいでよ。楽しいよ!』


 けれども、イカルが手を振ってどんなに誘っても、アダムはちらりと顔を上げただけで、加熱式タバコIQOSをくゆらせているだけなのだ。


「ケチっ、ちょっとくらい笑い返してくれたって、いいと思うんだけど」


 アダムは私に冷たすぎると、イカルは頬を膨らませた。すると、近くで見ていた少年が、そっと顔を覗き込んできた。


「やっぱり! 帽子が邪魔して遠くからはよく見えなかったけど、君、すっごく綺麗な女の子だね。ねぇ、僕と一緒に踊ってよ!」


 年齢はイカルと同じ12~13歳くらいだろうか。明るい緑の瞳。カーニバルの灯りに照らされて、金色の縮れ毛が明るく煌めいていた。そして、その子はなかなかの美少年だった。

 イカルは思わず顔を赤らめた。けれども、すぐに首を横に振った。


「ダメ。アダムに怒られちゃう。人混みは避けなきゃって言われてるから」

「えっ、アダムって君の親?もしかして、厳しい家庭なの?」

「ううん、そういうわけじゃないけど。アダムはただ心配性……なの」


 ……ならばと、少年はイカルの手をぐいと取り、公園の木陰へと導いた。


「ここなら人目もないし、音楽も聞こえるよ? だから、僕と踊ってよ。ねっ!」


 遠くから聞こえるメロディが心に甘く響く。少年はイカルの手を引くと、軽やかにステップを踏み始めた。

 異性と手を取り合うのは父親以外では始めてだった。父親に触れられるのは不快でたまらなかったが……イカルの心臓は高鳴った。


 色とりどりの光が輝くカーニバルの夜。華やかなダンス曲がリズムを刻み、まるで音符が空中を舞うかのようにイカルの周りを取りまいていた。

 踊りながら少年が微笑みかけると、イカルもそれに微笑み返した。


 すごくふわふわした幸せな時間。

 

 イカルの心の中では、他の人格たちがそれぞれに反応していた。カナリアは喜び跳ねていたし、ワーカーは戸惑いながらも楽しんでいた。ハーヴィは何も感じていないのか沈黙していた。もう一人の小さな子どもは、今はイカルの心の隅ですやすやと眠っているようだった。


 しばらくして、

「喉が渇いたね。ここで待ってて、何か飲み物を買ってくるよ。約束だよ、絶対にここで待っててね!」


 少年は満面の笑顔でそう言い残して、露店の方へと走って行った。



*  *


 午後8時。

 カフェで物思いにふけっていたアダムは、イカルが見当たらないことに気づいた。


「あいつ、一人で人込みに入っていったんじゃないだろうな」


 カナリアやワーカーが付いているから大丈夫とは思うが、もし、おかしな奴らに絡まれでもしたら、イカルを守るために、危険なハーヴィの人格が表面に出てくるかもしれない。それはまずい。

 少し離れた植え込みの向こうから悲鳴が聞こえたのは、アダムが立ち上がった瞬間だった。


 悪い予感が脳裏をよぎる。


 アダムは脱兎のごとく、声の方向へ走り出した。


*  *


「遅いなぁ。もしかして店が混んでいるのかな」


 飲み物を買うといって露店へ向かった少年が、なかなか戻ってこない。不思議に思ったイカルは少年を探しに出かけた。少し行くと、不自然に散らばる植え込みの枝を見つけた。


 危険、危険、危険。


 心の底に点滅する無意識の危険信号。


 道端に倒れている、


「……!!」


 イカルが少年を見つけて、驚いて駆け寄ると、地面が真っ赤に染まっていた。その瞬間、彼女を守るための別人格、ハーヴィがイカルの心を支配した。

 背後から襲い掛かる影を察知したハーヴィは、素早く振り返り、後ろに立つ女に手折った木の枝を突き出した。そして、女の顔を視界に捉えた。


「お前がこの子を…撃ったのか?!」


 木の枝で手を傷つけられた女の手からも血が流れている。その手に握られている拳銃から薬莢やっきょうの臭いが漂ってくる。犯行現場を目撃された女の瞳の表情には、驚きと冷酷さと怒りが混じり合っていた。


 倒れている少年の顔色が急速に変わり、血の気が失われていくのが分かる。


 もう、助けれらない……?!


 身近で見る死は、父の死をから二度目のことだった。


「あ、ああああああああっっ!!!」


 イカルも含めて、彼女の中にいる人格の全員が、恐怖に震えながら叫び声をあげた。

 その声を聞きつけて、こちらに足早に向かってくる靴音が響いてくる。梢をかき分ける音を聞いて、女は逃げ出した。



「イカルっ、いったい、何が起こった?!!」


 アダムが駆け付けた時には、少年にはもう息がなかった。


「くそっ、頭を撃ち抜かれている」


 イカルは魂が抜け出たように、少年の状態を確認するアダムを見つめ、表情を失くして立ち尽くしている。

 だが、銃声を聞きつけた大勢の声と足音が近づいてくる。


 まずい。ここは殺人現場だ。 


「逃げるんだ、イカル! ここにはいられない」


 アダムは即座にイカルの手を取り、形振りかまわず走り出した。何が起こったかは見当もつかない。だが、


 誰があの少年を撃った?


 イカルが、拳銃を隠し持っていたとしたら、俺が気づかぬはずがない。それに、カーニバルを楽しみにしていた彼女がそんなものを持ち出す理由もない。

 ならば、別人格のハーヴィが誰かから銃を奪って撃ったのか? いや、ありえない。近距離で銃を撃った後には手に焼け痕のような硝煙反応が残るはずだが、イカルの手は綺麗なままだ。


 アダムはイカルを脇に抱え、逃げ道を探すために辺りを見渡した。


 すると、イカルの他の人格であるワーカーが言った。


「急いで。大通りに自動運転車が待っています。」


 アダムは一言も発せず、イカルを連れて指示された方向へと走りだした。 

 ワーカーが消えるとイカルは、せきが切れたように泣きじゃくりだした。


 それは、まるで、小さな子供が怖い夢を見ている時のようだった。



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